3―3「書道室にて」
『書とは文字から生まれた文化、芸術でございます。貴方たちは文字を使い、言葉を紡ぎ、命を生み出す者。確かに昨今では、キーボードを叩くのが主流ではございますが……時に、美しい文字を意識するのは、相手に対し、礼を尽くすことにもなり、尊敬や学びを与えます。よって……』
難波が小説を削除してから、三日が経った。
現在、騰波ノは『書道室』にいる。畳のイグサの香りと、墨汁の墨の香りが調和したこの部屋は、静謐な和の雰囲気が広がっている。そんな中、騰波ノは万年筆を片手に悪戦苦闘していた。
というのも、「何となく一度くらいなら……」との気の迷いから『書学・書道』の講義を選択してみたのだが、これが思いの外、難しい。
書道といえば、筆に墨汁を浸し、文字を書く毛筆を想像していた騰波ノだったが、今やっているのは硬筆の講義である。
課題の内容は、シンプルに文章を習字していくだけ。初めての人の場合、大抵は鉛筆やペンからなのだが、騰波ノたちは何故かいきなり万年筆を持たされた。
騰波ノたちが使用するのは、吸引式の万年筆。昨今、一般的に広く使用されるのは、交換するだけでインクが何度でも使えるカートリッジ式。吸入式は、インクを吸わせてから書かなくてはいけないので、とにかく字を書くまでにも面倒がかかる。
初めからボールペンでいいのではないか、と思う騰波ノだったが、少しでも字を書く意識を持たせたいのも教師の狙いなのかもしれない。
吸入式も慣れてしまえば案外簡単なものなのだが、吸入の仕方にも細かいコツがある。それを調整しつつ美しい文字を習字するとなると、騰波ノのように書道教室にすら通ったことがない生徒たちは、出鼻をくじかれそうになる。
『あら、騰波ノさん。インクが用紙に滲んでおりますわよ? やり直し!』そう高い声でいったのは、和服を着たおそらく四十代と思われるが年齢不詳の女性教員。名は
年を感じさせない端正な顔たちに、麗しい黒髪は、アップスタイルに纏められている。後頭部には花柄の簪が挿してあり、和の雰囲気の中に華やかさがあった。
そんな雲雀丘は扇子を仰ぎつつ、他の生徒たちにも厳しいチェックを行っていく。
騰波ノの隣に座っていた杉田も、やり直しをくらっていた。
こうして苦悶に満ちた講義は終わり、二人は畳の上で痺れた足を広げていた。
「思ったよりも、書道というのは、難しいね」杉田は両腕を後方で支えるようにしていった。言葉とは裏腹に、表情はどこか満足気だ。
「だいたい今どき、万年筆ってのがおかしいんですよ」騰波ノは畳の上で仰向けに寝転がり、不満を零していた。
「僕はこうやって書道をやってみて、案外楽しめる方なんだと新たに気づかされたよ。それにこの部屋の香りは、どことなく落ち着くね」懐かしむように杉田は畳を軽くさすった。静かに瞼を閉じて、鼻で呼吸を楽しんだあと、ゆっくりと開いた瞳には、憂いが帯びていた。
「難波さんは、あれからどうだい」
「一応バイト先には来ているんですけど、殆ど何も喋ってくれなくて。それで俺も聞きづらくなっちゃって……杉田さんは連絡とかとっていないんですか?」
「僕は彼女の連絡先を知らないんだ。一応月曜日に会ったときに現状を話すか、それでも纏まらないときは次に会う日と時間を決めて会うくらいしかしてなかったしね……」
「そうなんですか。なんか意外です」
「難波さんから見たら僕はお爺さんみたいなものだろう。それにペアなんか組んでもらって、連絡先を聞くのもどこか気が引けるというかね……」
杉田は恥じ入る様に首元を撫でながら静かに笑っている。
「難波さんはそんなこと思ってないと思いますよ。それに……いや、何でもないです。すいません」騰波ノはいってからすぐに後悔した。そんなことは、杉田自身がきっと一番分かっている。色々なことを杉田なりに配慮した結果、今の関係性なのだ。
「それでも俺たちが最下位なのは変わりませんからね……。はあ、本当に、どうすればいいのかなぁ」
以前まで7位まで上り詰めた『杉田・難波』ペアだったが、難波が小説を削除して以来、ランキングは以前の19位まで転落していたのだ。逆に言い換えれば、それだけ難波の小説のアクセス数が凄かったともいえる。
「僕だってお荷物みたいなものだ。今回の件でよりそれが明らかになったよ」苦笑交じりに、杉田は人差し指で頬をコリコリとかいた。
「難波さん、小説が嫌いにならなければいいけど……」
天井を眺めていた騰波ノはゆっくりと瞼を閉じた。いつかの時の、まだ出会って間もない頃の難波が、好きな小説について夢中になって話していたことを騰波ノは思い出していた。
「どうだろうね。案外こういう闇を目の当たりにして、ピタリと書くのをやめてしまう人は少なくないからね。それくらい文字は言葉になったときに、意味を強固に形成してしまい、気軽に人を傷つけてしまえるものだからね。逆に、救うこともできる。受け手にとっては、言葉の意味の捉え方は人それぞれで、大きく捉えることも、小さく捉えることもできてしまう。だから書き手と読み手の間で齟齬が生じる。書くのと読むのは似てるようで、やはり全然違うからね。まぁそれでも彼女がまた筆をとってくれることを僕は願っているよ」
「……そうですね。杉田さんの方は、順調ですか?」
「ぼちぼち、という所だね。まだ自分の書きたい作品が書けている感じではないけれど、少しずつ昔の感覚を取り戻しつつあるよ。いやはや全然読まれないけどね……」杉田は少し誇張気味に笑ってみせた。
その杉田の表情をみて、騰波ノは今回の試験の難しさを改めて実感していた。どれだけプロの世界で長く生きてきた人であっても、ペンネームさえ使えない状況とネット媒体の無数の数え切れないほどの作品の前では、こういうケースも起こり得る。反対に、無名でも這い上がってくるチャンスがある、という捉え方もできるが、それもほんの一握りだ。
「騰波ノ君の方は、調子はどうだい?」
「俺もぼちぼちです。もうすぐクライマックスを乗り越えて完結するってのがプロットなんですけど、何かいまいちピンとこないなあと思いながら模索中です」
「そうか、お互い似たような感じだね……」
杉田の穏やかな声のあと、甲高い声が近くまでやってきた。
『貴方たち! 神聖な場所でよくもまあ、そんなはしたない姿ができるわね! 信じられないわ! 早く原稿用紙を持ってお帰りなって、ほら、しっ、しっ、行った行った』
雲雀丘は扇子を振り回しながら、ハエを追い払うように二人を書道室から追いやった。
翌日。必修試験がはじまって以来、人気はないが、小説の更新が一度も止まることだけはなかった空緒飛華の毎日更新が、ピタリと止まっていた。
翌日以降になっても、連載が再開される気配もない。
それはまるで昨日まで元気だった人が、急に息を引き取ったかのような、不穏な静けさを騰波ノは感じていた。
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