3―4「難波 香苗」
この学院に私が入学できたことは本当に奇跡のようだった。
お父さんもお母さんも、おじいちゃんもおばあちゃんも、猫のポチとタマも、みんなが自分のことのように喜んでくれた。
私はきっとすごい小説家になる、みんなが私を冗談交じりに「先生」といってくれた。
「私、頑張るね」
小説好きのお母さんは、目に涙を浮かべていた。その姿がおかしくてつい笑ってしまったけど、いつのまにか私も嬉しくて一緒に泣いてしまった。
みんなの喜ぶ姿をみて、私は自覚してなかったけど、もしかしたら人より少しだけ小説を書く才能があるのかもしれない、とその頃は思ったりもした。
なのに――どうしてこんなことになってしまったのだろう。
私だって故意にそうしたわけじゃないのに。
なんでこんなに嫌なことを言われなくちゃいけないの。
最初はただ、本当に嬉しかった。
アクセスが日増しに目に見えるように増えていって、お世辞かもしれないけど沢山の人に褒めてもらった。
毎日が明るくなった気がして、恥ずかしい話だけど、私には世界が虹色に輝いて見えた。
本当に信じられないくらい、嬉しかった。私が書いた小説がこんなにも多くの人に読んで貰えるなんて夢みたい……そう思った自分が、本当に馬鹿だった。
そうだ。確かにそうだ。このPV数は私の作品の実力でも何でもない。ポチとタマが稼いだPVみたいなもの。
そもそも私なんかより才能があって、面白くて、すごい小説を書く人なんて、この学院にはごまんといる。たったの数ヶ月間でそれを思い知ったはずなのに。
何をうぬぼれていたのだ。子供みたいに、はしゃいで。恥ずかしい。
これが現実なんだ。
でもこれって私が悪いの?
勝手にはしゃいだのはそっちの方じゃない。
私は何も悪くない。そう思っているけど、先から腕の震えが止まらない。
だから一度全部なかったことにした。
荒療治だけど、これで少しはマシになるかと思った。けど、全然だめ。回復効果は見込めず、心は常に擦り切れていく。
私のエゴで、相方さんにも迷惑をかけてしまっている。
何とかしなくては。でもどうやって。
味方だと思ったの人たちは、思わぬ伏兵だった。考えれば考えるほど、怖いし、腹が立ってくる。
私は人生で人に声を上げて怒ったことはない。生きていて腹が立つことは、何度もあったと思うけど、臆病さが勝っていつも黙ってしまう。
そういう時はきまって、大好きな小説を読むと、忘れられる。臆病な私が覚えた逃避先が小説だった。それが良いことなのか、悪いことなのかはわからないけれど、小説は私をいつでも優しく迎え入れてくれた。
でも、最近は小説を読んでいても、集中できない。こんな経験は初めてだった。人前ではこんなこといえないけど、私にとって、小説は友達だった。そして小説を読む人は、多いとはいえなけど、なぜか無意識に悪い人なんていないと思っていた。
でもそれは、幻だった。それがすごく悔しくて、私も本当に馬鹿で、どうしようもなく悲しくて、とても腹が立つ。
あ、そうだ、良いことを思いついた。これなら、見返せる。
途端に腕の震えは止まった。
でも同時に、私の中の大切な人たちの顔が、霧がかかったように霞んで、見えづらい。
それより、今すぐやらなければ。
☆
「それじゃあもう、完全復活ってことなんだね」
「はい、騰波ノくんには沢山ご心配をおかけして申し訳ありませんでした」
同時間にバイトが終わった騰波ノと難波は、曇天模様の空の下、傘をさしながらいつもの帰り道を歩いていた。
びしゃびしゃと雨が地上を打つ音や、ぱたぱたと傘が雨を打ち返す音は、周囲の音を何もかも奪うようだ。
時々、曇もごろごろと機嫌を損ねている。
「気にしないで。俺は難波さんが元気になってくれただけで、ほっとしてるんだから。それに、杉田さんもきっと喜んでると思うよ」
「……ありがとう、ございます」
「でも凄いね。タイトル変えてから、以前よりランキングが上昇したなんて」
先日から難波が連載を再開した小説のお陰で、現在『杉田・難波』ペアは、以前にも増して4位までランキングを上昇させる、という大躍進をみせていた。
難波が消した小説は、学院側がサイトのサーバーに残っていたファイルを、自動バックアップしてくれたお陰で何とか一命を取り留めた。学院側は故意ではない場合の為の非常事態として、常にこうした体制を整えてくれている。
だが難波は今回の件で、厳重注意が伝えられ、衣嶋から次はないと釘を刺されたらしい。
「……最初から書き直そうかと思ったんですけど、もう六月半ばですし、以前から気になっていた部分を修正して、また連載しなおそうと思いまして。といっても、せっかく書いたから勿体ないっていうのが本音かもしれないですけど……」
「俺も今から新作書き直せっていわれたら、さすがに絶対無理だろうなぁ。ま色々あったけどさ、これでようやく難波さんの実力がちゃんと周囲にも伝わっただろうし、良かったね」今の騰波ノは、本心から喜び、同時に安心していた。
「そう、だといいんですけど……」難波は傘で顔を隠すようにして歩いていた。
騰波ノも足元が濡れないように、水溜りを器用に避けながら歩く。
「ふふっ……」
「どうした?」
「いえ、騰波ノくんも私と同じなんだなあと思ったらつい、安心しちゃって。この前の文豪戦でもそうでしたけど、ここの学院ってすごい人たちが沢山いるじゃないですか。私、不安になっちゃって……情けないですよね、こういうの」
「わかる。すっごくわかるよ難波さん。俺たちって案外似てるのかもね」
「……そうかもしれませんね」難波は穏やかに微笑んだ。騰波ノもその表情をみて、ほんの一瞬だけドキッとしてしまった。
それが顔にでないよう、慌てて口を動かした。
「はぁ、良かったぁ……はぁぁ」
「どうかしたのですか、騰波ノくん?」
「ん、あ、ね……ひとまず難波さんが復活したのはとっても嬉くてさ。でもね、次は相方の空緒さんが突然毎日更新やめちゃってね。元々毎日更新しても、俺と偶然読みにきた人以外は、誰も読まないような小説だから、あまり状況は変わらないんだけどね」
「そうだったんですか……。少し、心配ですね。私は空緒さんのことは、殆ど知りませんが、空緒さんってちゃんと自分を持っていてすごいなと思ってます。必修試験の小説にしても、一人だけ書きたいもの書いていて、かっこいい女の人だなあ、って感じのイメージだったので」
「本当に書きたい作品なら、試験以外で勝手にしてくれたらいいんだけどね。自分が書く小説に噓はつきたくない、ってだいぶ前に宣言されてさ。小説そのものが作り物なのにね。その結果がこれだから……笑えないよ」
「空緒さんとは会ったりしているんですか」
「全然。連絡先も交換してないし。どこの寮に住んでいるのかも知らない。まぁそのうち勝手に復活しそうだし、彼女」
騰波ノはわざとらしく笑ってみせた。
「そうだといいんですけど……。あ、私こっちなんで。今日はありがとうございました」
「うん。またね。俺も難波さんみたいに頑張るよ」
「……はい。また」
二人は顔を見合わせ、手を振っていつもの岐路で別れた。
それから少し歩いた騰波ノは、電柱の近くで一度立ち止まった。振り返る。
淡く黄色い傘が、少しずつ小さくなっていく。
ふと、その傘が翻り、難波がこっちを向いて、遠慮気味に胸元辺りで小さく手を振っていた。難波らしい可愛いらしさに、騰波ノも慌てて手を軽く振る。
また前を向いて、歩き出した。だが踏み出した足は思ったより鈍い。
騰波ノは再び、寮の近所にある公園の入り口で立ち止まってしまった。空を見上げる。鉛色の曇り空から振り続ける雨は、まだやみそうなにない。
今度は降りてくる雨に沿って、打ちつける地面をみる。水溜りが幾度も脈動するように跳ねていた。波打つ水面は、歪んだ鏡のように曇り空を反射していて、その下は泥で濁っている。
騰波ノはしばらく、水溜りをぼんやりと眺めていた。難波が復活したはずなのに、どうして今も、自分の心はこの雲のようにどんよりとしているのか。
あの時、本当に驚いていてドキッとしてしまった。
その理由は、この水溜りを眺めていてわかった。あの、難波がいつもみせる穏やかな微笑みの瞳には、以前のような眩しい光がなく、この泥が混じった水溜りのように濁っていたからだった。
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