2―3「杉田にとっての小説」


 試合が始まってから、四時間が経過していた。時々、小休憩を挟みつつも、両者共に筆の勢いは好調だった。

 会場も比較的リラックスした雰囲気が流れはじめている。必死に何かを盗もうと原稿を食いつくように読み込んでいる者もいれば、友人と軽食を食べながら談笑している者もいる。

 そんな中「騰波ノくんみたいな若い子たちが少し羨ましいね」と杉田は呟いていた。

「羨ましい、ですか?」

「あぁ。どうも歳を重ねて、若い人たちが頑張っているのを見ると、おじさん臭いことを言いたくなってしまうようだ」


 杉田は照れたように少し笑う。羨むような、もう戻ってこない時の流れを感じさせるような、哀愁の眼差しで、壇上の二人を見つめている。


「あの、杉田さん。訊いてもいいですか」

「うん? 改まってなんだい?」

「初めて俺と出会った時に母の話になって、あれから考えてたんですけど、杉田さんってかなりのベテラン小説家ですよね」


 杉田は白い頭をかきながら「そんな大したことないよ」とはぐらかした。


「プロとして長く生き残っているのに、わざわざ高い学費払ってまで商業活動も休止して、そこまでしてどうしてここに」


「……」杉田は何も答えない。じっと黙ったまま試合を見つめている。騰波ノは失礼を犯してしまったと思い、すぐに詫びた。


「違うんだ。騰波ノくん、気にしなくていい。むしろ考えていたんだ。ここに来た理由を」

「どういう」

「理由はあるんだ。でも確かにいま、改めて思い返せば不思議なんだ」そういってから、杉田は笑った。喉の奥が掠れたような笑い方だった。


「当時は自分でも不思議なくらい頑固でね。担当編集の人にも活動休止なんてありえないと随分説得された。でもちょうど書いてたシリーズが完結する予定もあったからってことで押し切ってね……。それに僕はもう、今年で五十三を迎えるお爺さんだ」

「え、杉田さんが五十三?」


 そういわれて騰波ノは、杉田の白い短髪の頭を見た。今までなぜか、歳のことまでは深く考えることもなかった。この学院では、いちいち一人一人の細かい歳なんて気にしていられないのもあるのかもしれない。

 それに騰波ノや難波のような若い子にも、自然に接してくれる一面があるだけでありがたいことにも思えた。

 白く染まった髪も、人によって差異があるので勝手に四十代後半辺りかと思っていた。


「結構年寄りだろう。長年引きこもって仕事ばかりしていると、身体中のあちこちがボロボロでね。実はこう見えても社会人なった息子と娘もいるんだ。それに、もうすぐ娘の子が産まれるらしい。ハハ、本当にお爺さんだよ」

「へぇ……そうだったんですね、びっくりしました」


 暫くの間、互いに沈黙するように試合を見ていた。

 五嶌の実況は、ハイテンションのまま会場を盛り上げている。そうして十分くらいの時が経った頃、ふと、杉田が口を開いた。


「これでいいのか、って思ってね……」

「えっ」


 そのあとに続く言葉は静かに、騰波ノの心に語りかけてくるように続いた。


「デビューしてから、随分と長い間プロとして書いてきたことは確かに幸せなことだったんだと思う。そう簡単に生き残れる業界じゃないってことは、それなりに理解しているつもりだよ。同期だってもう一人もいないしね。情けない話だけど、最初は自分だけが生き残れたって優越感に浸るときもあったんだ。でも歳を重ねるごとに、そんな気持ちはなくなっていったよ。逆にまだ自分だけが小説を書いている、というのが急に怖くなったんだ」


 人生経験的にも、騰波ノにはまだ到底理解できる話ではなかったが、何となく気持ちは伝わったような気がした。


「学生の頃はね、寝る間も惜しんで小説ばっかり読んでいた。夢中だった。いつしか自然の成り行きで小説家に憧れてね。小説を書いて書いて書きまくってさ、大学卒業間近で運よく新人賞に拾ってもらった。デビュー作は自分の若さ有り余る熱量をぶつけただけの作品だった。全然売れなかったけど、僕は今でもその作品がけっこう好きなんだ。それからも売れっ子作家になりたくて、担当編集と毎晩遅くまで格闘して、複数のシリーズを出してさ、専業作家としてそれなりに食っていけるようになったんだ。元書店員の妻をもらって、二人の子宝にも恵まれた。子供たちも立派に成長して、外から見れば僕はすごく満たされた人生なのかもしれない」


 杉田がしゃべった内容は、本来胸を張って自慢できるものだった。だが杉田の顔は、浮かないものだった。


「作家として、父親としてもとても順風満帆な人生だと思います」素直に感じことを騰波ノはいった。自分もいつか小説家になって、そういう人生を歩みたい、とも思った。

 杉田は天井を見上げていた。それは遠い遥か昔の、幻を見つめるような目だった。


「僕はもう、作家としてずっと長いこと――地獄にいるような気がするんだ。あれだけ夢中になって飛び込んできた世界だというのに、もう僕はそこにいない。いつのまにか全然違うところにいる。本当にこれでいいのか、ってもう一人の自分が、ずっと呪いみたいに囁きかけてくるんだ」

「どういう、ことですか?」

「わからないんだ。だから色々と数え切れないほどあれこれ考えてみた。ぼちぼちと結果を出して、業界の顔というほどでもないけど、近い感じにはなれたかなと思っている。と言っても別にバカ売れしたわけでもない。いつも隅っこにいるような感じさ。いるだろう、そういう作家って。普通に面白い、安定している、でも読んですぐに忘れられるような作品。ありきたりな構成、トレンドを勢いにした物語、時勢を配慮した大人しい内容。優等生みたいな作品。結果、読者にも編集にもそれなりに褒められるけど、一年後、十年後には確実に、誰の『心』にも残っていない小説。僕にはそういう小説が書ける。いやそういう小説ならそれなりに、書き続けられてしまう自分が嫌なのかもしれない。一度だけ、妻と担当編集にそのことを話したことがある。そんなのは誰にでも出来ない素晴らしい才能だ。一時の気の迷い、よくあることだと言ってくれた。でも僕はそうじゃない、といった。そういうことじゃないんだ。じゃあどういうことなんだといわれた。上手く答えられなかった。どうすればいいのか自分でもわからなくなった」

「でもそれって、奥さんと担当編集さんが言うように、プロの作家としては百点満点じゃないんですか?」

「そう、かもしれないね……。としては、ね。そうかもしれない。僕がそれなりの小説を書く、お客さんはお金を出して読む、それなりに楽しんでくれる。これで僕を含めた関係者にお金が回り、ビジネスが成立する、また次回も宜しくお願いします。わかりました。このループだ。でも僕はね、商売や文学とかエンタメの前に純粋に――小説そのものが好きだったんだよ。読了後の余韻、考えさせられる生き方、世界の在り方、主人公たちの気持ち、どんな世界観だろうが、登場人物とどれだけ生き方が乖離してようがそれでも彼ら、彼女らが心に染みていく。そういう小説を書く、小説家に憧れてこの世界にやってきたんだ……」


 騰波ノはどう相槌を打てば良いのかわからず、黙っていることしかできなかった。それでも杉田は滔々としゃべり続けた。


「でも一つ、ここに来たきっかけもあるんだ。ある日ね、僕は新人賞の審査員を務めることになった。そこで僕の若い頃の作品にそっくりな、若さと有り余る熱量をこれでもかって詰め込んだ作品に出会ったんだ。他の審査員たちは『詰めは甘いし粗さが目立つ』、『書き込み過ぎて少し青すぎないか』とか色々と言っていたけどね、僕にはその作品がとても輝いて見えたよ。その作品にはね――。自分の言葉で、小説で、世界を変えてやるんだっていうね。僕がいつの間にか失くした、一番大事にしなくてはいけない懐かしい感覚が、あったんだよ……。僕はその作品を、審査員特別賞にのしあげて、これを書いた人物に会ってみたんだ。それが、ここの卒業生だったんだよ。若かった。そこで色々と話を聞いた。この学院のことも。彼自身の、小説に対する凄まじい熱量と野心をね。ついでに彼は、僕の作品も読んだことあるらしく、感想を聞いてみたんだ。彼は先ほどまでとは打って変わって言いずらそうに濁した感じでね、変な気は使わなくていいから正直にいってごらん。どんな感想でも僕の中での君の価値、評価を下げることはないからといったんだ。で、彼はなんていったと思う?」

「わかりません」

「臭います。金銭の臭いが嗅がなくても漂ってくる切ない作品です……。こう言ってのけたんだ」


 息が詰まりそうな沈黙が訪れた。だがすぐに、杉田は愉快だ、とでもいうように笑っていた。騰波ノには泣いているようにもみえた。いや心は泣いているのだ、とも思えた。

 嬉しくて泣く、という現象があるのなら、今の杉田は悲しくて笑っている、とでもいえる状態だった。


「実に面白いだろう彼。世間が僕の作品を大好評も大酷評もしない中、若しくはする価値もなかったのか、彼は一言で世の本音をぶつけてみせたんだ。かっこよかったな……本当にこのままでいいのか、自分にとって小説ってなんだろうな。その時心の底からそう思ってね、また昔のように好き勝手に書いてみようと思って書いてみたんだ……」


 騰波ノは一度、唾を吞み込んだ。杉田はホールの天井を見上げながら、そこにいる「誰か」と喋っているようにみえた。


「……何も書けなかったよ」


 杉田の瞳は、深い灰色に霞んでいるようだった。


「書き方を忘れてしまったんだ。わからないんだ、自分の小説の書き方が。一文字も言葉が生まれない。声も聞こえない。何も見えない。ただ真っ暗な世界が広がっているだけ。

 自分が今まで書いてきたのが小説だったのかすら、わからなくなりそうなくらい、何も書けないんだ……。

 いつだったかな、守るものが増えれば増えていく程に若い頃の感覚が薄れていってさ、もう何十年も小説を書いていて心がわくわくしたことなんかないよ。

 ずっと地獄にいるようで……苦しいんだ。そうやって気付いたらこの歳だ。流石に『死』を意識しだしてね……気付いたら家族も仕事も押し切ってここに来ていたよ」


 騰波ノは放心したように試合を見つめていた。


「僕はプロの作家としても、一家の大黒柱としても最低かもしれない。いや失格か」


 杉田は自嘲するように静かに鼻で笑った。その口角だけが皺になって、目尻は皺にならなかった。


「…………っ……ぐっ……っ」


 隣でずっと話を聞いていたのか、難波は泣きながら鼻をかんでいた。


「すまないね。爺臭いことばっかり言って」

「いえ」

「やっぱり、歳をとるといけないね。壇上で戦う彼らをみて羨ましい、と思ってしまったばかりに、こんなにつまらない長話をしてしまうなんて」

「つまらなくなんかありません」涙声の難波がいった。

「そうですよ」と騰波ノもいう。

「どうやら僕は二人の若い友人に恵まれたようだ」杉田はにこやかに微笑んだ。

「……あの、杉田さん」

「うん?」

「それでも、杉田さんは小説が好きなんですよね。それとも……」


「どうだろうね」と言った杉田は、「トイレに行ってくるよ」と席を立った。

 一歩、二歩と進んだ先で一寸立ち止まり。


「もう、昔みたいに簡単に好きとは言えないけどね。それでも、まだしぶとく向き合おうとしている自分もいる」


 人差し指でぼりぼりと頭をかいた杉田は、騰波ノと難波に振り返っていつもの温厚な微笑みを向けた。


「ハハ……やっぱり、どうなんだろうね」


 騰波ノはとぼとぼと歩いていく寂寞としたその背中に、途轍もなく重い『なにか』があるような気がした。


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