1―5「腹が減っては原稿出来ぬ」


 騰波ノは食堂で二百円の『日替わり定食』を一人で食べていた。ご飯に鮭と卵焼き、お味噌汁、海苔、漬物という実にシンプルな定食だが安いし旨い。

 食べ終えてお茶啜り、一息つく。三限の『構成力』の講義まで少しだけ余裕があった。鞄から読みかけの文庫本を取り出して続きから読むことにした。

 予鈴がなった。


「あ」


 つい夢中で読み耽ってしまい、周囲の音が完全に遮断されてしまっていた。

 慌てて文庫本を鞄しまい、定食のトレーを返す際に「ごちそうさまでした」と食堂のオバさんにいって、急いで第二講義室に向かった。


「あ」


 並木道で空緒が歩いていた。歩く姿勢も美しく、背筋はピンと前を向いている。そよ風が黒髪を麗しく靡かせていた。

 もうすぐ授業が始まるというのに慌てた素振りはない。その様子は何とも隙がなく、近寄りがたいと感じた。

 黙って追い越してしまおうかと思ったが、試験の相方として、前回の失敗を一日でも早く解消しておくべきという気持ちも同時に過ぎった。勇気を振り絞り、声を掛けようかと歩調を緩めていると、空緒は突然、姿を消した。どうしたことか、梅が咲いている木の周辺にある草むらの茂みに入っていった。


「えっ?」


 気になってあとを追いかけ、草むらの茂み辺りを慎重に覗こうとして。


「何かしら」

「わっ⁉」


 茂みの中から上半身だけの空緒が出てきた。頭と肩に葉っぱがついていて、いつもの雰囲気とは違って見えた。


「び、びっくりした……」

「で、何かしら?」

「何かしらって、こっちがいいたいんだけど……こんな所で何してるの?」


 なぜか少し頬を緩めた空緒は、「……何だと思う」と言う。


「さぁ」

「おしっこよ」


「は?」呆然とする騰波ノ。空緒は繰り返すように「おしっこよ」と強調する。


「……冗談、だよね?」

「お……おしっこよ……」


 恥ずかしくなったのか、空緒は赤面しながら茂みから出てきた。と思ったら颯爽と歩き出す。もちろん下は履いていた。


「空緒さん……」騰波ノは首を傾げながら、空緒のピンとした背中を見つめる。きっと彼女は今でも赤面しているのかもしれない。というより何だったのだ。

 チャイムがなった。


「あっ、もう!」


 あとを追った。結果、三限の講義も一緒で互いに遅刻した。どこか気まずさあってか、二人は離れた席に座って講義を受けた。


 ☆


 三限の講義を終え、四限の講義はとっていなかった。その日は足早に寮へと帰宅した。

 騰波ノが住む寮は、家賃二万五千円の1Kだ。水道電気ガスは別。

 玄関ドアを開けて廊下にキッチンと冷蔵庫が最低限存在し、風呂とトイレが別であって短い廊下を抜けるとすぐ六畳間の一室がある。ベッドが部屋の大半を占めていて、隅にデスクとチェアがある。デスクの上には、備え付けられたパソコンが置いてあった。

 千集院タウンに住む者には、寮のグレードも選択式であり、家賃一万円のボロ屋敷から一ヶ月何十万もする豪華寮も存在する。もちろん家族からの仕送りなどは一切禁止されている。

 なお入学時に持ち込めるのは、現金上限十万円と携帯電話と私服のみである。

 そのせいで必然的に、自分で稼ぎ、生き抜く力も必要になってくる。


「眠い……でもアルバイトも考えなくちゃ。やっぱりPV稼ぐなら流行り要素は欠かせないよな。あぁ、お腹もすいたなぁ」


 机で頬杖を突きながら試験のプロットを考えている。はずだった騰波ノは、思考が錯乱気味になってふとデスクトップの時刻を見た。

 時刻は十九時四十五分を過ぎた所だった。


「腹が減っては原稿出来ぬ……」などと独り言ちながらパーカーを羽織った。財布を手に取り、近くのスーパーマーケットに出かけた。


 スーパーは、寮から歩いて五、六分の場所にある。少し錆びた電飾看板が『三島マーケット』と照らしていた。適当にお惣菜コーナーでハムカツと小松菜のお浸しを取り、あとカップ麵を幾つか見繕ってレジに向かった。


「いっ、いっ、いっらっしゃいませっ!」


 明らかに緊張したうわずった声の女店員だった。女といってもまだ少女で、騰波ノと同年代に見える。お辞儀の角度は九十度。緑のエプロンにジーンズ姿はまだ板についてないせいか、どこか初々しさがある。

 新人さんかしらと騰波ノはお辞儀から帰ってくる女店員の顔を見た。その顔は赤く染まっている。


「お、お預かりします……ハ、ハムカツが一点……小松菜の……お浸しが……一点」

「あ、あの」

「はっ、はい。申し訳ございませんっ。只今上の者を呼んできますのでお待ちくだ」

「そ、そうじゃなくて。間違いだったら申し訳ないんですけど、多分同じクラスですよね? ほら俺の後ろの席の?」

「えっ……」


 騰波ノは女店員の顔に見覚えがあった。自己紹介のとき、つい椅子を強く引きすぎて彼女を驚かせてしまったのだ。


「あ……もしかして……騰波ノくん、ですか?」


 涙目だった彼女は、騰波ノの顔を凝視していた。瞳の虹彩は、お菓子のチョコボールみたいな茶色。目尻は下がっていて、おっとりとした印象に見える。


「うん。確か難波……さん、でしたよね」


 騰波ノはすかさず彼女の胸元辺りを見た。随分と膨らんだ丘の上にある名札には、『難波なんば香苗かなえ』と印刷されていた。

 記憶では、自己紹介の時に、某『大人気ファンタジー』作品が好きだということで彼女を結び付けていた。

 そんな時だった。いつからそこにいたのか、四十代くらいの坊主頭のおじさん店員が声を掛けてきた。


「難波さんのご友人かな?」

「クラスメイトです」

「そうか、もしよければ君もうちでアルバイトしないかい。実はね、最近近くに出来た『芥スーパー』にお客も人員も引き抜かれちゃってね。すっかり参っちゃってるんだよ。気が向いたらね、いつでも待ってるから。そうだ。難波さんも、もう八時だからキリのいい所であがっていいからね」

「は、はいっ。店長さん」


 おじさん店員は店長だった。よく見ると鍛えられた厚い胸板には、『三島みしま行男ゆきお』と印刷された名札がある。


「難波さんはここでアルバイト?」

「はい。今日面接して何故かそのまま働くことに……六百五十三円になります」

「へぇ、なんか凄いね。はい七百三円で」

「そ、そんなこと、ないです。七百三円お預かりします……五十円のお返しです」

「どうも。もしよかったら一緒に帰らない?」と自分で言ったことに、騰波ノ自身も驚いた。だが確かに、まだ入学してから「友人」と呼べる者もいなかった。

 それに彼女の物柔らかな雰囲気は、仲良くなれそうな気がした。ふと友人? と空緒の存在が脳内でよぎったが、頭をぶんぶん振って、存在を一度どこかに放り投げた。


「はい、是非。すぐに着替えてきますので」

「それじゃあ外で待ってる」


「大変お待たせしました」


 難波は制服姿で裏手にある勝手口から出てきた。肩口までかかった髪が、少しだけ跳ねていた。二人は街灯のある夜道を、ゆっくりと並んで歩いていく。

 雲にかかった満月が半分に割れていた。


「難波さんってもしかして同い年くらいなのかな」

「今年で16歳です。やっぱり騰波ノくんもですか?」

「そうだよ。良かったぁ。この学校じゃみんな年とかバラバラだもんね」

「私、自己紹介の時はとても緊張しました」

「わかる。そうだ、あの時は椅子ぶつけちゃってごめんね」

「いえいえ。気にしないでください」

「難波さんの寮はこの辺?」

「はい。与謝野壮です」

「ああ、確か女子専用寮、だったよね」

「はい。騰波ノくんもこの辺ですか?」

「このまま真っ直ぐ行って公園の近くを右に曲がって、また真っ直ぐ行くと公園があるんだけどその近く。川端荘ってところ」

「聞いたことあります。私もそこと迷いました」

「そうだったんだ。あ、そういえばさ、難波さんってあの作品が好きなんだよね?」


 途端に彼女の顔がぱあっと華やいだ。


「もしかして騰波ノくんもお好きなんですか?」

「昔に一巻だけ読んだことがあって、あんまり詳しいわけじゃないんだけどね」

「そうなんですねか。ああ、羨ましいです。私ももう一度記憶を新しくして読みふけりたいです。あのですね、私とその作品の出会いは、母が集めていたのが要因でして、小学四年生の時に読んだのがきっかけなんです。当時の私は小説を読むことなんて殆どなかったんです。あの時はとてもハラハラドキドキしました。是非とも騰波ノくんもまた読んでみませんか? 先月、数年ぶりに新刊が出て、もうそれが最高だったんですよ‼ ね、どうですか? ここの学校って確か図書館もありましたもんね」

「はぁ」


 興奮状態の難波は、とても饒舌だった。騰波ノの少し引きつった笑みを見かけて、状況をようやく把握した時、かぁあと顔面が達磨みたいに赤くなった。


「はっ、お見苦しい所をお見せしてしまいました。私、ダメなんです。昔からこうなんです。つい好きな作品の話になると普段は人見知りで大人しいのに、急に喋り出す傾向がありまして。それで昔クラスメイトにも何度も気持ち悪がられまして……」


 昔を思い出したせいか、難波は涙目になっていた。


「好きな作品があったらそうなるのも自然なことだよ」

「すいません、気を遣わせてしまって……」

「いいって、それに普通だよ。本が好きならみんなそうだし」

「そうなんでしょうか……。実は私、その作品がきっかけで自分でも小説を書くようになったんです。中学生になったばかりの頃、何度か賞に応募してみたりもしましたが全然振るいませんでした。でそんな時にネットでこの学校の噂を聞きつけて」

「それでこの学校に?」

「はい。ダメもとで短編小説を二本書いて送ってみたんです。そしたら奇跡的に」

「すごいよ、ここって倍率すごいんだから」

「きっと運が良かったんだと思います」

「運だけじゃないよ。ちゃんと実力が認められたんだよきっと」

「そう思いたいんですけど、やっぱり実力不足は私が一番認識してるので……」

「俺の方こそ本当に運だったと思う」

「騰波ノくんは実力ですよ。もっと自信を持って下さい」難波は拳を握りしめたポーズをとって、騰波ノを励ました。


「両親がと編集者だから気を遣ってくれたのかもしれない」自虐的にいって騰波ノは頭をかいた。この時すでに、難波にならいいかという気持ちも芽生えはじめていた。

「えっ、小説家?」

「実は母さんが編集者なんだけど、小説家の人と再婚したんだ。だから義理の父親ってこと。本当の父親が亡くなったのは俺も小さい頃でさ、全然覚えてないんだ」

「そうだったんだんですね……」


 すっかり大人しくなってしまった難波をどうにか元気づけようと、騰波ノは極めて明るく笑って見せた。


「でさ、ずっと小説を読むのは好きだったんだけど自分で書くってことは想像もしてなかったと思う。けどある日、おじさんに小説書いてみたらって勧められてね」

「実はそのことについてとても気になってました。騰波ノくんの環境がすごい羨ましいです」

「そういうものなのかな」

「羨ましいですよ! お母様が編集者でお父様が小説家なんて夢のような環境です!」

「いまはたしか、〇〇って作品書いてる……」難波があまりにも前のめりになっているので、騰波ノはつい余計なことを喋ってしまった。


「えっ、えぇ!?」


 騰波ノが口に出した作品の名前に、難波は先程とは比べものにならないくらい驚いた反応を見せた。それも仕方なかった。騰波ノは自己紹介の時、あえて義理父のことは何もいわなかった。いえばきっとクラスメイトは大きく驚くことになり、面倒な目で見られるのを避ける為だった。

 一夜にして〇〇の息子だ、という風になるレベルの、今をときめく大人気売れっ子作家だったのだ。

 驚き過ぎて逆に呆然とする難波を見て、苦笑いした騰波ノ。嫌な気分ではなかった。


「難波さん、おじさんの話は秘密にしといてね」

「わかりました」難波は嬉しそうに頷いた。


「でまぁ、人生で初めて書いた長編小説が運よくって感じで」

「えっ、凄いです! 人生初めて書いた小説で合格するなんて。騰波ノくんって天才です!」と難波はまたもや興奮したように早口になっている。


「私なんか未だに長編小説を書くのも苦手で、今度の試験もどうしようかと悩んでいます」

「難しいよね。それにアクセス数勝負だと長編小説の方が有利になる可能性は高いもんね」

「はい。一人につき一作品がルールなので。それに相方さんにもご迷惑をお掛けするわけするにもいきませんし。講義も出来るだけ出席して頑張りたいと思います」

「難波さんは偉いね。アルバイトも既に決めて、俺も頑張らなくちゃって気になったよ」

「いえ、私なんて誰よりも未熟者ですから。それに人一倍頑張らないと才能もないので退学処分にでもなっちゃったら高い学費を払ってくれた両親にも申し訳ないですから」

「本当にそうだよね。あ、そういえば難波さんが働いてる店の店長さんがアルバイト募集中って言ってたけど俺もそこで働いてみてもいいかな?」

「えっ、騰波ノくん来てくれるんですか? もしあれでしたら私のほうから店長さんに言っておきましょうか?」

「いいの? じゃあお願いしてもいいかな」

「分かりました」

「ありがとう。もしよかったらその時の為に連絡先教えてくれない?」

「わかりました」


 騰波ノはアルバイトが決まりそうな事にも一つ安堵を覚えたが、何よりもこの健気な少女と出会えたことが、心の底から嬉しいと思えたのだった。

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