第2話 ブダペスト
数年前、思いがけずクリスマス前の時期にスケジュールが2、3日空いたためにブダペスト在住の旧知の知人に誘われて短い休暇を過ごすべく、フランスから飛んで行った時の話を第2話として書いてみることにした。
ブダペストには到着したのは夕方、街はクリスマスマーケットで賑わい、ペスト地区のアパートの近くの広場のあちこちでは良い匂いがしていていて、ちょうど夕食の時間だったので大きなパンをくりぬいた器に入ったグヤーシュを買う。ハンガリー名物のパプリカと柔らかい肉がたっぷり入ったスープ、寒いハンガリーの屋外でもたちまち体が温まってくる。
ハンガリー滞在2回目の今回は一泊17ユーロという格安の貸しアパートを見つけたのだが、流石にこの値段ではまともなキッチンは付いておらず冷蔵庫程度なので、今回は全て外食、宿が安い分美味しいものを食べようという魂胆である。
オーナーは人の良さそうなおばあさんで英語が堪能。こちらが日本人だとわかると日本からはバレエ留学でハンガリーに来る人が多いのだと教えてくれた。ハンガリー語は特に難しいというのに、皆さん10代の頃から頑張っておられるのだなあと感心する。
ハンガリー語は本当に難しい。他の国では表記のアルファベットからその品が何であるか大体推測できるが、ハンガリーではさっぱり分からない。到着早々、スーパーでパッケージに牛の絵が書いてあったので牛乳だと思って購入したボトルがキャラメルのような味の甘い飲料だったという大失敗をやってしまった。(因みに私は甘いものがどちらかと言うと苦手な方である。)
ブダペストはドナウ川を挟んでブダ地区とペスト地区に分かれているのだが、ブダ地区の方は小高い丘でブダの丘とも呼ばれ、ペストの壮麗な国会議事堂を見下ろすような地形になっている。ペスト側をドナウ沿いにゆっくり散歩して、まさに東洋と西洋の融合とも言える、少し不思議な雰囲気の夜景を楽しむ。
オスマン帝国領ハンガリーであった、しかし後にオーストリア=ハンガリー二重帝国ともなったブダペストはドナウの真珠と言われるが、確かにこの不思議な雰囲気の街はまさに真珠のように他のどんな宝石とも違う独特の魅力を放ち、言い得て妙である。
夜景の美しさに浸っていると、ライトアップされた歴史的な建物の周りにふわふわと様々な時代の亡霊たちが飛び交い、その歴史に引きずり込まれるようであるが、ふとカップルが低い声で喋りながら通り過ぎて我に帰る。
ハンガリーは行き交う人々にも一寸不思議な雰囲気があり、物静かな人が多い印象とも言えるのだが、例えば市場なども呼び込みなどはあまり激しくないため旅行者にはある意味歩きやすい。イスラム系の移民の多いフランスに住むようになってから感じたのは、ハンガリーはやはりイスラム系の文化の影響をそれなりに受けているのではないかということである。西洋諸国のように個人と個人の境目がはっきりしているかと思えば妙に情が濃く、人との距離感が一味違う。
このコロナ禍の現在では夢のまた夢のような話ながら、収束後は是非またハンガリーを訪れて国民性を更に細かく観察してみたいものであるが、果たしていつになることやら見当もつかない。
全くこの新型コロナというやつは、私の唯一の趣味である安上がりの気楽な旅を奪っていって腹立たしいことこの上ないが、ウイルスにはウイルスの言い分があるのだろうか…。
その日は宿に帰ると寒い中を歩き回った疲れが出て、すぐに眠ってしまった。
翌日は、知人と夕食を共にする予定で、それまでは観光しつつもうすぐ出産予定の先輩の出産祝いを探す。東欧らしい可愛らしい雰囲気の水色の刺繍の入ったベビー服は、パリでは見つからないテイストのもので非常に気に入った。フランスに住んでいながら、私は実は東ドイツ〜東欧諸国辺りのデザインの方が好みなのである。事実としてこちらのほうが日本人に似合いやすいということもあるかもしれないが、すましたフランスのデザインよりもどこか温かみを感じるところが気に入っている。
そしてこの寒い中酔狂なことに、ラベンダー風味という言葉の魅力に抗えずアイスクリームを立ち舐めする。薔薇の花のような形にコーンに盛ってくれるのだが、白と赤のバランスが美しい。フランスのどちらかというとシャーベットに近いようなアイスクリームとは違い、ねっとりした日本のものに近いアイスクリームであった。
夕食は知人とハンガリーの伝統的なレストラン。フランスのものよりもねっとりしたフォアグラ、そしてトカイワインは私の大好物である。ドイツの貴腐ワイン、アイスヴァインよりも濃く、舌に絡みつくような重厚さがハンガリーらしく感じる。
しかし、前日にクリスマスマーケットで食べたグヤーシュにはとても敵わない気がしてしまうのが悲しいところである。貧乏旅行を愛する人にありがちなことだと思うが、ローカルな場所ではっと驚くような美味しくて安いものを発見する瞬間こそが旅の醍醐味なのだ。
ドイツはハンブルクの市場で食べた魚の燻製のサンドイッチ、ポルトガルでふらりと入ったパン屋で買ったふわふわのケーキ、ヴェネチアのリド島の大きなマルゲリータ、ポーランドの鴨肉とりんごのサンドイッチ。全て日本円にして500円以下の絶品グルメである。
…格式あるレストランの料理を激安グルメと比較する自分の下衆さを恥じつつ、再会を約束して知人と別れた。
短い滞在はこれで終了、翌日の朝のフライトでフランスに戻ることになっている。この街の寒さはフランスのものとは違い、どこか重く身体にまとわりつく。
歩いてアパートに戻る道すがら、人気のない路地の暗さは色々な想像を掻き立てるが、この暗さもそれぞれの都市によって微妙に何かが違う。
照明の種類、建造物に使われている石やレンガなどの材質の違いもあるのだろうが、その街の夜道を歩くとき、そこに生きてきた人々の息遣い、精神などが一瞬頰をかすめてゆくような気がするのは私だけであろうか。
塩野七生氏の緋色のヴェネツィア、アルヴィーゼ・グリッティの物語をふと思い出す。彼もまた、この街のどこかにその気配を残しているのか。そして後の時代のシシーこと皇妃エリザベート、そして名も残らぬ市民たち。彼らの魂が安らかであるよう祈りつつ、その気配をかすかに感じる街の夜…
その一瞬を己の心に刻み込みたいがために、私はひたすら旅に出ているのかもしれない。
欧州夢奇譚 @Marinaile
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