欧州夢奇譚

@Marinaile

第1話 イタリア ー 序章

ミラノ近郊のその小さな街についた時には、もう夜も遅い時間だった。

ミラノなんて危ない街に女の子が1人で泊まらないで目的地の小さな街までその日のうちに行った方がいい!という、イタリアに何年も暮らした教授のアドバイスに従ってはるばる日本から飛行機でイタリアに到着後そのままこの街まで来たが、この北イタリアの田舎駅、夜の9時を過ぎた時間にタクシーなど一台もない。

中央駅から電車で1時間ほどのこの街はミラノで勤める人達のベッドタウンらしく、同じ電車から降りてきた仕事帰りらしき人たちは100人近くいたが、全員が家族の迎えの車か、駅前の駐車場から自家用車に乗ってさっさと行ってしまった。

あそこは小さいけどいい街だよ、駅にタクシー普通にいるから大丈夫、と言い切った教授の嘘つき!と心の中で毒づきつつ、他にどうしようもなく駅前の公衆電話でホテルに電話をかける。教授に初めてのイタリアなら女の子は三つ星ぐらいには泊まりなさい、と言われて探し出した田舎町の町外れの三つ星ホテル、日本でいうと少し良いビジネスホテルといったレベルで、しかも夜間に英語は通じるのか?


“@&%#?”

やっぱり、いきなりイタリア語...しかし構わず英語で続けてみる。

「今晩から宿泊するモリ・マリネです。いま駅からそちらに向かうので、タクシーを駅に呼んでもらえますか?」

“%#*^€$!! &%#*$€+\?”

ああ、やっぱり英語が全く通じない。しかし他に方法はない、最早やけくそ...

「イーオ マリネ・モリ!ウーノ タクスィー スタツィオーネ、ペルファボーレ!」

“Si、Si!OK!&@%#!”

...意外にも通じた? シ (はい) 、OKと聞こえた!日本語で言うとさしずめ、

私、モリマリネ!一つのタクシー、駅、お願いします!というレベルのカタコトだろうが...

ほどなくして無事タクシーが到着。とりあえず覚えてきたイタリア語での1から10までの数と僅かな旅行会話、意外と使えるではないか。

ホテルに着いた時にはメーターは10ユーロ20 (セント)。

「ベーネ ディエーチ」

ディエーチ、は10...つまり10ユーロでいいよ、ということで良いのだろうか?

人生初めてのイタリアで女性1人、ボラれるのではないか、犯罪に遭うのでは…と相当ドキドキしていたが、料金もこの距離なら日本のタクシーより安いぐらいだしまあ妥当だろう、ボラれるどころかまけてくれたようだ。

「グラッツィエ (ありがとう)」

タクシーが到着したのを見てホテルから出てきたフロントの人とも親しげに話しているところを見ると、小さい街ではタクシーとホテルの人は普通に知り合いらしい。これが小さな街の良いところで、確かにボッタクリや犯罪が多い大都市ミラノに泊まるなと言った教授はある意味正しかったかもしれない。


滞在中のホームステイを申し込んだものの、いかにもイタリアらしく1週間前になって急にあっさりと断られて慌てて予約したこの三つ星ホテル、とは言ってもこの街にはゲストハウスのような小さなホテルが片手で数えられるほどしかない。底抜けに明るい色彩のオレンジ色を基調にした内装、ヨーロッパの国の中では綺麗好きな民族に属しているイタリア人らしく清潔な家庭的な雰囲気の部屋に到着した時には日本を経ってから実に24時間近く経っており、その日はベッドに倒れ込むようにして眠ってしまった。


到着の翌日は早かった。朝6時半にはホテルを出発するのだが、素泊まりで予約したのがフロント兼朝食係のお姉さんに全く伝わっておらず、朝食を食べる食べないで片言のイタリア語と英語で一悶着あった後に急いでホテルを出る。

11月はじめの朝7時前はまだ薄暗く、人通りは全くない街を地図を片手に歩く。町外れの小さな堀のような川にかかる橋を真ん中まで渡った時、その光景の美しさに息を呑んで立ち止まった。

灰色と水色の間のような静かな流れに紫がかった霧が立ち込め、岸の木々は暗い緑色の蔓で覆われている。

国は違うが、フランス印象派の絵画を鮮明にしたようなその光景に身動きできずに、絵の中に吸い込まれるように見惚れていると、灰色の船が霧の向こうからやって来るのが見える。

早朝のスポーツとしてボートに乗る人だろうか?いや、あれは...カヤックなどではなく木製? そして...長い棹でもって船を動かしている人は...あれは...


ブロロロ...と遠くから自動車の音がしてきて、背後の車道を黒っぽいフィアットが通り過ぎていった。

振り返って見送った後、再び茫然と静かに水をたたえるだけの水面を見つめる。

イタリアでもかなり古い部類に入るこの街の歴史を勉強してきたためか、また生まれつきの呆れるほど豊かな想像力のせいか、一瞬別世界に行っていたような錯覚に陥る。私は歴史好きではあるものの熱心な現代科学の信奉者であるが…時々こういった妙な体験をすることがある。

しかし今朝はこんなところで道草を食っている場合ではない、時間が迫っているので道を急ぐ。


中心部に近いところになると人通りも少し増え、パン屋で朝食に小さな甘いパンを買った。もちろんイタリア語はさっぱりだが、ケースの中を指差して「ドゥーエ」(2個)」と言い、お金を払って受け取って「グラッツィエ」で簡単に買い物は終了。パン屋のおばさんもニコニコと「グラッツィエ!」

イタリアでは少し大都市を離れると途端に英語が通じなくなるが、こちらの言うことを理解しようとしてくれるパワーと人情はすごい。

昨日も電車の中で、カンツォーネをうなっていた反対側の席のおじいさんが色々とイタリア語で話しかけてくるので「ノン カピースコ (わかりません)」と困り切っていたら、同じ車両の中で英語がわかる人を探して引っ張ってきて、私がどこの駅で降りるのかを通訳させた後、自分は2つ前の駅で降りるがこの人(通訳)はもっと先まで行くので降りる駅を教えてくれるよう頼んでおくと言っている、とまで通訳させて、またこの通訳してくれた人も奥さんと一緒だったがニコニコと嫌な顔もせずに付き合ってくれたのだった。有り難すぎるお節介、それがイタリア人らしい。


結局この日は全てのプログラムが終了したのが23時過ぎ、途中で現地で落ち合った旧知の知人とオペラのプリマドンナのように響く声で巻き舌で喋る女将のレストランで夕食を食べたりはしたが、彼女のホテルは反対側の町外れだったので、帰りはまた片道徒歩30分の距離を深夜に1人歩いて帰るしかなかった。

街灯に照らされた薄暗い古い町並みは美しいが、私のショートブーツの音が響くだけで街には人っ子一人いない。特に大都市以外ではイタリア人は割と早寝早起きらしい。

安全な田舎町とはいえ深夜の一人歩き、早くホテルに着きたいと急ぎ足だったが、きのう日本から着いたばかりで慣れない冷たい乾燥した空気を絶えず吸い込むのに耐えきれず、誰もいない街角で少し立ち止まる。荒い息を整え、水を一口飲んでほっと息をつく。

...辺りはしんとして何も聞こえないはずなのに、何かが聞こえる。

楽しげなざわめき、足音...

着た道を振り返っても一本道で、見通せる限り人っ子一人いない通り、次の角の向こうにレストランか何かがあるのか?

自分の耳にこの世界と別世界の音が聞こえているような不思議な感覚にたまらず駆け出しても、石畳にカンカン鳴る自分のブーツの音に重なって、あのざわめきがずっと同じ音量で遠くから聞こえ続ける。走りながら必死で辺りを見回すが、次の角にもその次の角にも、人っ子一人いない。

ただただ楽しげな、名もない人々の日常の生活の音...そしてふっと鼻をかすめる古い教会の中のような匂い...

町外れのホテルに息を切らして飛び込んだ私を見て、母ぐらいの歳のフロントの人は驚いたようにどうかした?と聞いた。よかった、今夜は英語ができる人だ。

いや、少し先でネズミみたいなものを見かけてびっくりして、と誤魔化す。ヨーロッパの古い街には大体どこでもネズミがいるので、特に失礼な言い訳でもないだろう。

部屋の鍵を受け取り、おやすみなさいと言って2階の部屋に上がって暖かい安全な部屋でシャワーを浴びてベッドに潜り込む。いつの間にか、もう何も聞こえない。

...今日のあれは、早朝と晩のあの不思議な出来事は幻だったのだろうか。

しかし、はるばる日本から到着した翌日、過密スケジュールだった一日を過ごした後ではあれこれ考える間も無く、夢も見ない深い眠りに引き込まれてしまった。


...これは今から10年ほど前、スマートフォンも現在ほど普及しておらず、まだ欧州に住みつくとは思ってもいなかった頃に、とあるプログラムに参加するために初めてイタリアを訪れた時の話である。この数年後、私は必然とも言える縁に導かれてフランスに住むようになり、地続きの近隣の国でも同士で全く違う文化や町並み、そして人々に魅せられて暇さえあれば貧乏旅行で各国を旅してきた。

そして夢か幻のような出来事も、それぞれの地で前触れもなく急にやってくるのだが...

それはまた、別に書いてみたい。

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