魔の森
少年は困っていた。
「おーぅい!ルイスゥ!どぉーこぉーだぁー!」
木々が生い茂った、昼間でも薄暗い森の中で、少年は力の限りに叫んだ。
しばらく森の中でこだましていた少年の声は、森の奥深くへ吸い込まれるかのようにすっと消えてしまう。
冷たい風が少年の首筋を撫で、さわさわと、木々の葉が揺れる音がする。
少年の名はマルコといった。ルイスというのは、彼の唯一の弟であり、2人はとても仲の良い兄弟であった。今日も仲良く゚2人で鬼ごっこをして遊んでいる最中であったのだが、鬼ごっこに夢中になるうちに近所の森の中へ迷い込んでしまい、マルコ少年は、森の中で弟のルイスと家までの帰り道を見失ってしまったのだった。
“どこに行ったんだよぉ…。“
少年は泣きそうな顔をして心の中で呟いた。
かれこれ1時間くらい、森の中をウロウロとしては、こうして弟の名前を叫び続けている。本来なら大人を呼びに行けば解決するのだが、森の出口も見失ってしまったマルコ少年には、どうすることも出来なかった。
鬼ごっこで走り回った挙句、1時間もの間歩き回っていた少年の脚は、もはや限界に近かく、足の裏がジンジンとし、膝はガクガクとしていた。
“もうダメだ。きっとルイスは獣にでも食われちまったんだ。そしてこのまま僕も、森から出られずにここで死んじまうんだ。“
とうとう、哀れなマルコ少年は座り込んでしまった。小さな子供の脚で出口を探すには、森の中は余りにも広すぎた。
絶望に打ちひしがれて下を向いた少年の頬に、一筋の涙が伝った。
その時だった。
「おにぃーちゃーん!!」
すぐ近くで弟の声がはっきりと聞こえた。
マルコ少年は、その声にハッとして顔をあげると涙を拭った。
「ルイスゥー!どこだぁー!!」
カラカラに乾いた喉の奥から精一杯声を絞り出して叫ぶ。
「おにぃーちゃーん!」
再び声が聞こえて、あたりを見回すと、ほんの数メートル先の木の影から小さな人影が走り出てくるのが見えた。
“なんだ…。無事か。まったく、心配して損したよ。”
やれやれと首を振ったマルコ少年は、ほんの少し笑顔になると、ジンジンと痛む脚に力を込めて、よいしょと立ち上がった。
思いっきり走ることができる程の体力はなかったが、それでもできる限り精一杯走ってその人影を追いかける。
しかし、走れども走れども、その人影は遠くへ行ってしまうのだった。
「待ってよぉ。ルイスゥ…。ハァ、ハァ。」
追いかけて、追いかけて、追いかけて…。
気がついた時には、日はすでに傾き始めており、森はいっそうその暗さを増していた。相変わらず、小さな人影は数メートル離れた木の陰で立ち止まり、こちらを窺っている。
息も切れ切れのマルコ少年は、とうとう再び立ち止まり、肩で息をしながら、弟と思しきその人影に話しかける。
「ルイスゥ、もう降参だよ…。家に帰ろうよぉ。」
幸か不幸か、兄弟の両親は海外へ出張に行っており、家には年老いた乳母しかいなかった。
きっと家に帰ったら、2人とも乳母にこっぴどく怒られて、場合によっては、あの年寄りの骨ばった手で、お尻をペンペンされるだろう。普段なら絶対に嫌なのだが、今回に限って、そんなことはどうでもよく思えた。ここで飢え死にするよりは、遥かにマシなのだ。
刻一刻と、夜の気配が近づいている。小さな人影は、なおも何も答えずに、木の陰からこちらを窺っているようだった。
「ルイス?もう悪ふざけは止せよ。帰るぞ。」
黙っている人影にじれったくなったマルコ少年は、イライラとしながら話しかけた。
しかし、目の前の人影は何も言わない。
”困ったなぁ…”。
マルコ少年は、こめかみを流れる汗を服の袖で拭いながら頭をポリポリと掻いた。さっきよりもひんやりと冷たさを増した風が、少年のうなじを撫でていく。
”こうなったら力づくで連れ帰るしかないか…。”
説得を諦めたマルコ少年は、一歩、目の前の人影へと近寄った。ゆらりと人影が揺れて、ほんの少し距離が離される。
この時、マルコ少年はちょっとした違和感を人影に感じたのだった。
季節は秋。森の中には堆積した落ち葉が土を覆い隠すほどに積み上がっている。人が歩けば、落ち葉を踏む足音が聞こえるはずだが、人影が動いても足音は聞こえない。
「ル、ルイス…?」
恐る恐る、マルコ少年は声をかけた。
”幽霊なんかじゃない、あれは弟だ。”
確信が欲しかったのだ。
その声が届いていないのか、はたまた人影が人ならざる何かだからなのか、森の中は相も変わらず静寂に包まれている。
ふと、後ろからカサカサと落ち葉を踏みしめる音と、ずるずると鼻を啜る音が聞こえてきた。
ギョッとして後ろを振り返ると、生い茂った木の陰から、涙をポロポロと落とし、こちらへトボトボと歩いてくる弟の姿があった。
「ルイス…!!」
マルコ少年は、驚きと嬉しさに目を見開き、弟の名前を呼ぶとそちらへ走り寄った。
「おにぃちゃん…!!」
少年の声に顔をあげたルイスは、一瞬嬉しさに顔を輝かせたあと、恐ろしさに真っ青になった。
なんと、走るマルコ少年の後を追うように、数メートル先から小さな何かが猛スピードで迫ってきていたのだ。
「お、おにぃ、おにぃちゃんっ、うっ、うしっ、後ろお!!!」
あまりの恐ろしさに舌がもつれてうまく言葉がでない。それに、さっきまで泣いていたせいで声は枯れていた。
ブルブルと震え、必死の形相で叫んだ弟の声は、辛うじてマルコ少年の耳に届いた。肩ごしに後ろを振り向くと、かつては人であったであろう何かが恐ろしいスピードで迫ってきていた。
森は夜の闇に包まれており、はっきりとソレの様子を捉えることはできなかったが、木々の合間から差し込む月の光に照らされて、ちらりとその姿を確認できた。
かつて目があった場所には、ポッカリと空洞が空いており、蛆のようなものが湧き出ている。顔の皮膚は、ところどころ腐敗して崩れておりぐちゃぐちゃだった。
「うわあああああああああああああああああああああああ!!!!」
マルコ少年は大声で叫び、もつれてきた脚を無理矢理に動かした。弟のいる場所まで辿り着くと、恐怖でガチガチに固まっている弟の腕を力いっぱい引く。
ゾンビのようなソレは、もうすぐ後ろまで迫っていた。
「ルイス、頑張れ!!捕まっちまう!!」
脚をもたつかせながら走る弟にカツを入れながら走るが、もはやマルコ少年自身も限界だった。
「ルイス…、お兄ちゃんはもうだめだ…。お前だけでもなんとか逃げろ…。」
マルコ少年は、疲れきって座り込んだ。弟の背中を押してそう言うが、涙でぐしゃぐしゃになった顔で、弟は、いやいやと首を振った。
「やだっ!!お兄ちゃんが一緒じゃなきゃいやだ!置いて逃げれないよぉ…。」
地団駄を踏んでめそめそと泣き出した弟に、少年はやれやれと首を振る。ゾンビのような少年は、もう手を伸ばせば届きそうなところまで来ていた。さっきよりも高く登った月の光によって、ソイツの醜悪な顔が明らかになる。
あちこち腐敗して腐りかけた蛆の湧いた顔にニタニタと笑みを浮かべたその顔は、吐き気を催すほどに醜く、悪意に満ちていた。
はぁ、とため息をついて、マルコ少年は弟のほうを向いた。
「ルイス!!なんでも泣けば済むと思ってやがるな?お前が迷子になんなきゃ、こんなことになんかったんだよっ!!このバカっ!!」
急に怒鳴られて、ルイスはきょとんと目を丸くした。
「お前がこんなとこに逃げなきゃ、今頃こんな目に遭ってなかったんだ!!」
再びマルコ少年は怒鳴った。ゾンビはもう眼前に迫っていた。
「うぅ…、お、おにぃちゃんの…、い、意地悪…っ!」
ひっぐひっぐと泣きながら、ルイスはどこかへ駆け出した。
「これでいいんだ…。」
マルコ少年は、安心したように目を閉じた。頬にゾンビの腐敗した皮膚が、冷たくじとっと触れる感触がした。
~終~
とある大きな屋敷の中で、年老いた老婆が一人、手を揉みながら気忙しく屋敷の中を行ったり来たりしていた。あたりは夕暮れのオレンジ色に包まれているというのに、子供たちが帰ってこない。
「どうしたもんか…。」
この老婆は、屋敷で働く乳母だった。両親が出張でいない間、子供の世話役にと雇われたのだが、子供たちは10歳と8歳の男の子だ。彼女の言うことをすんなりと聞いてくれるわけはなかった。
どんどん暗くなっていく窓の外を見ながら、いよいよ捜索隊に捜索願を出すべきかと思った時だった。
ドンドンと屋敷の扉をたたく音がする。
驚き半分、安堵半分でドアを開けると、顔を涙でぐしゃぐしゃにして、あちこち穴だらけの服を着た、少年が立っていた。そのただならぬ様子に面食らいながら、老婆は少年を抱きしめると声をかけた。
「ルイスお坊ちゃん…。一体何があったんですか…?マルコお坊ちゃんは?」
少年は、ひっぐひっぐとえずきながら、とぎれとぎれに話した。
遊んでいるうちに森の中に迷い込んだこと、そこで兄とはぐれてしまったこと、ゾンビのような奴がいたことなどなど…。
一通り聴き終わった老婆は、大慌てで捜索隊に届けを出した。
老婆は知っていたのだ。少年たちが迷い込んだ森は、古くから『魔の森』と恐れられている森であること、そこに入ってしまったが最後、出てこられたものは数少ないということを。
老婆はルイス少年をぎゅうと抱きしめながら、弟のために自らが犠牲となったマルコ少年のことを思い、涙を流すより他はなかった。
~完~
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