第16話 悪魔と戦うときのマナー
真昼を思わせる光が和らいで、夜の闇が路地に戻ってくる。
レナコが放った強力な光線は、道のど真ん中を斜め上方へと突き抜けて、空の彼方へと拡散し見えなくなっていく。
光から少し遅れて、地響きのような轟音もビルの谷間を反響しながら消えていき、レナコがほっと一息ついたときだった。
右前方で突然、ギャリッ、となにか金属的なものがひしゃげた気配があった。直後、なにやらケミカルな臭いが彼女の鼻孔を刺激して、怒りを帯びた男の声がした。
「ここまでコケにされたのは始めてです……」
路駐されたミニバンが一台、路肩で黒焦げになっており、声はそこから聞こえてきた。
「絶対に、絶対に許しませんからね……」
光線のラインにくり抜かれ無残なスクラップと化した車体の背後から、赤いスライム状のものが路地の中央へと流れ出してきて、レナコは唖然とした。
蛸壺だった。
彼はミニバンの盾に、レナコの光撃を防ぎきっていた。
「何度も同じ技は食らいませんよ」
蛸壺は丸い口から大きく息を吸い込むと、風船のように膨れ上がった。
その驚異的な柔軟性と身体能力。街灯に照らし出される不気味なフォルムにレナコは目を見張った。
巨大な頭部は上部こそ焦げ付いてはいたものの、残った四本の触手はほぼ無傷であった。全身から立ち上る湯気は、熱によるダメージというより、むしろ憤怒のオーラのように思われた。
それを証明するかのように、
「ふんっ!」
と、一本の触手がレナコ向かって放たれる。
レナコは横っ飛びになってそれをすり抜ける。しかしその着地点めがけ、すかさずもう一本が飛んでくる。
「うっ」
間一髪、後方に退いて回避するも、圧倒的な質量を受け、硬い舗装が粉々に打ち砕かれた。
強い。
ビスケットのように砕け散ったアスファルトの破片の隙間から、レナコは蛸壺をねめつけた。
蛸壺は首のない頭をぶるぶる振ってそれに応えた。
彼は伊刈と同じく濁った目をしていた。頭でっかちでバランスの悪い頭部。その根本には人間のような顔があったが、目だけは人のそれとは明らかに違っていた。
ひょっとこのように口をすぼめて蛸壺が言った。
「私、女には興味ないんですよ」
「そうですか」
「そうなんです。だからあなたは絶対に■します」
サキュバスが蛸壺を回り込み、うつ伏せに倒れ込んでいるマサトラの元へと駆け寄っていくのをレナコは見た。
だが伊刈と同じで、この悪魔には■角がない。
蛸壺の眼球はわずかに左右に揺れており、レナコは考える。間違いなく蛸壺はマサトラたちに気づいている。だから私は彼らが安全圏へ逃げられるまで時間を稼ぐ必要がある。蛸壺のヘイトを自分に集中させる必要がある。
マナー先生ならたぶん気の利いた軽口でも言って、このタコを挑発するのだろうけど。
と思うも、レナコに適切な語彙はなく、悩んだ彼女は手のひらを上に向けて前に出し、おいでおいでと手招きし蛸壺を挑発した。
それだけでも十分だった。
蛸壺がムッとして言った。
「さっきは油断していました」
口調こそ崩さないが、声はわなわなと震えている。
「ですが、今度こそ本気を出します」
一呼吸して、
虚勢を張って精一杯の笑みを浮かべるレナコへと、赤い触手が振り下ろされる。
右上から斜めに飛んできたそれを、彼女はのけ反ってかわす。
ブゥン、と空間を切り裂き飛んでくる左からの一撃も屈んで体勢を立て直す。
「本気、っていうのはその程度?」
「よくもよくも!」
いよいよいきり立った蛸壺は、四本の触手を滅茶苦茶に振り回す。
一本はムチのようにしならせて、一本は重さに任せ打ちつけてくる。一本は下から上へすくい上げるように。一本は手前から奥へとねじり切るように加速させる。
あらゆる方向、あらゆる角度からレナコ向けて攻撃が繰り出されるが、レナコは丁寧にそれらをかわしていく。
大丈夫だ。なんとかなる。
ねとつく触手には決して触れない。重い攻撃は受けるだけでも大ダメージ間違いないが、そのぶん単調でかわしやすい。くぐり抜けたり、飛び越えたり、タイミングをずらすことに支障はなかった。
とはいうものの、
その理由は蛸壺の手数が多いから、というわけではなく、その柔軟性にあった。
レナコが右にいけば、蛸壺は左へ。レナコが飛び上がれば、蛸壺は頭を横に広げ、ぐにゃんぐにゃん。軟体動物特有のダイナミックな動きでレナコを翻弄し、光線を撃ちこむ隙を与えない。
しばらくして、これは攻撃ではなく防御なのだ、とレナコは悟った。
敵は触手を繰りつつも、中枢である頭部を揺らしたり伸ばしたり、ビームの射線上から絶妙にずれるよう動いている。そうやってこちらの攻撃をかわすこと、こちらの体力を削ることこそが目的で、派手な触手はあくまでフェイク。
気づくと、ジリ貧になっていた。
レナコの鼻先から汗のしずくが滴った。
素足で荒いアスファルトを踏みつけ、飛び回るのはかなりこたえた。もらったドレスは動きづらく、生地の撥水性も高いせいか、内側がびしょびしょになっていた。
狙ったかのように二本同時にやってきた下方向からの一撃を旋回してまぬがれた後に、頭上でぎゅっと空気が圧縮された感覚があった。見ると、赤い直線を描き触手が伸びていて、それに貫かれたビルの窓ガラスが割れていた。
「あ」
鋭利に砕けたガラス片が落下してくる。
レナコはとっさに壁を蹴り破片より素早く着地しようとしたが、逃げ場を予測するかのような別の触手に気づき、バランスを崩しアスファルトへとなだれ込む。
頭からガラスをまともに浴びる。
頬や肩の皮膚がピリリと熱くなった。破片は足下で跳ね返り、露出した素足をも傷つけた。
レナコは激しく息を切らした。彼女の周囲で、街灯を受けたガラスが水面のように煌めいていた。
「どうしました?」
蛸壺が言った。声が笑っていた。
「あのビーム、撃たないんですか?」
「はぁはぁ、どうやったら、はぁ、あなたが一番苦しむように■せるかと思って……」
レナコは悪態を返すも、声には震えが混じっている。
図星をつかれ、彼女はすっかり動揺していた。
「それは楽しみですね」
言いながら、蛸壺が触手を放ってくる。右に跳んで逃げるも、ガラスが食い込んで顔が歪む。
もう一発。左に転がりしのぎきる。
さらにもう一発。
空間を赤く塗りつぶすかのごとく横薙ぎに飛んでくるそれを飛び上がり避けようとした瞬間、むき出しの背中に風を感じた。
「えっ!?」
レナコの足の下を通過した触手がJ字状にねじ曲がり、その背中を狙っていた。忘れていた。これはマサトラが連れ去られたときと同じ。触手は空中で自在に方向転換できるのだ。
慌てて体をひねるが、一拍遅い。
食い止めきれず、レナコは吹き飛ばされ路面に叩きつけられた。
ドレスが破れ全身に衝撃が走る。歯を食いしばり、反動で転がって立ち上がる。だが一気に四本、上下左右から挟み込こまれている。
後ろ、には逃げられなかった。後方には壁があり、レナコの退路は奪われていた。
「前っ!」
飛び出る。勢いに任せ懐に突っ込もうとして、体が浮いた。
しまった。
先の攻撃と同じだった。
後方の触手はいっせいにねじれ返り、レナコに絡みついていた。
「くうっ!」
まるで一本一本、それ自体が生き物かのようだった。
触手はレナコの左足首に一本、右肘に一本、べっとりと巻き付いて、彼女を空中に固定する。
レナコは詠唱なしに中空へ小光線を放ち、強引に体をねじってそれを解除する。が、天地がぐるりと逆転する。魔法の反動で彼女の体は縦に大きく回転し弾き出される。
気づいたときには、レナコは自動販売機に背中から激突していた。
叫び声をあげるほどの余裕もなかった。
自販機の箱体がケーキのスポンジのようにめり込んで、息が詰まった。激痛が花火のごとく爆発して、口の中が熱くなり、血の味でいっぱいになった。
ジリ、ジリ、ジリ、ジリ。
不穏な音で唸り始めた自販機を背に、レナコはずりおちるようにへたり込む。
「どうやら」
そのさまを見て、蛸壺が言った。
「苦しんで■ぬのはあなたのようですね」
レナコは頭を持ち上げ前を見た。
赤い蛸壺の顔がいっそう赤く歪んで見えた。視界が真っ赤になっていた。
彼女はむせ返り、血反吐を吐いた。ガラガラガラ、と背中側の空気が震え、破壊された自販機から缶ジュースがこぼれてきた。
「さて」
蛸壺の頭のそばで、四本の触手がくねくねと揺れる。
「どうやって■しましょうかねぇ……」
それを見ながらレナコは、隙だらけだ、と思った。
不思議なことに彼女は冷静だった。強すぎる痛みは、逆に思考をクールにさせていた。
マサトラとマナー先生はすでに触手の射程から離れている。かなりダメージを受けたが、おそらく骨はどこも折れていない。私はまだ動ける。まだ撃てる。
でも。
しかし彼女はこうも思った。いくら隙があろうと、私が撃とうと構えれば、蛸壺はおそらくこれまで通りかわすだろう。くにゃくにゃと体をくねらせ致命傷を避けるだろう。
詰んでいる。そう思った。
彼女は自分の能力を恨んだ。まっすぐ光線を射出するだけの単純すぎる能力を恨んだ。火力のためにタメを必要とするその冗長さを恨んだ。
四本まとめて触手が伸びる。
■ぬ。レナコが絶望しかけたとき、ふと電柱の横にある赤いボックスが目に入った。ボックスには白地で『消火器』と書かれていて、彼女は思い出した。
同じく単純すぎる能力のマサトラがいかにして伊刈を撃退していたか。
まだ、終わっていない。
触手が到達する直前で、レナコは前に向かって駆け出した。
「ほぅ。まだやる気とは!」
案の定転回し追尾してくる触手を側転し振り切る。触手は近くの立て看板をなぎ倒し、電飾が消えて火花が上がる。
無視してレナコは走った。
路地はもうむちゃくちゃだった。燃え尽きた室外機。針金のように折れ曲がった放置自転車。自動車の残骸。自分たちがいたオフィスビルには大きな穴が開いていた。
それらに対し、心のなかで謝罪しながらレナコは走った。
狙いはただ一つ。そこを目指しひたすらに駆け抜けた。
「なにっ!」
すべての触手をかわしきり、蛸壺の真後ろへと滑り込む。
「なにをする気ですか!?」
その瞬間、レナコの赤い視界は黒く塗りつぶされた。
墨を吐かれていた。
蛸壺の右後ろ数メートルといったところで、レナコはつんのめった。
硬い地面に転倒する間際、振り返ると、頭を捻った蛸壺が口をすぼめているのがぼんやり見えた。
レナコはためらわず目を閉じた。墨を飛沫を散らしながら両手を伸ばし、
「それは慈悲深き煌々たる光……」
迷うことなく、詠唱を開始する。
「天より降り注ぐ聖なる光よ……」
全身が生暖かく濡れ、臭い墨が無数の傷口に染みて狂いそうなほどに痛かったが、彼女は唱え続ける。
「我らが前に立ち塞がる邪悪なるものどもと……」
「なにを今更っ!」
わめき声とともに再度触手が襲いかかってくる。
「そのすべての悪徳を浄化せん……」
硬く目を閉ざす彼女にはなにも見えなかったが、もはや狙いを外すことはない。
「
レナコの手のひらから、弱々しいビームが下から上へ、一直線に射出された。
蛸壺は頭部を大きく後ろに傾けそれを避けようとしたが、傾けなくてもその軌道は彼から大きく外れていた。
「なんですかそれは? もう力が残っていないようですね」
あっけなく、レナコの身体に触手が絡みつく。
骨が軋んで、関節がねじ曲がり、レナコは叫びだしたくなった。しかし気合で押しこらえ、精一杯笑って答えた。
「それはどうでしょう?」
ドズンッ。
刹那、ビル数階分はあろうかという長い看板が蛸壺の頭に突き刺さった。
「あへっ?」
蛸壺の丸い口から、墨と一緒に空気が漏れた。
途端に急激に圧が緩まり、レナコの体はずるずると触手から滑り落ちた。
蛸壺にとって、真上は意外な盲点だった。
レナコが放った光線によってビルの側面が削り取られ、支えを失った袖看板が彼の巨大な頭部を貫いていた。
「あ、あ、あ、あ、そ、そ、そんな、ここここれは……」
蛸壺は完全にパニックになって、触手で看板を抜こうと試みるが、触手は彼の意思に反し螺旋状にねじれるばかりで、上手くいかない。彼は頭部に集中する神経系をやられ、触手を自由に動かせなくなってしまっていた。
「や、やや、やや、■にたくない■にたくない……」
涙のかわりに、蛸壺はひたすら墨を吐き出し続ける。
そんな彼のとなりで膝をつくレナコは、顔についた墨を両手で拭った。今一度まぶたを開けると、やはり視界は暗かったが、行動するのに支障はなかった。
彼女は立ち上がると、近くに立つ道路標識へと近づいた。
標識は真ん中からポキリと折れていて、折れた先は鋭く尖り、鋼鉄の槍のようになっていた。
レナコはその千切れたほうを拾い上げると、両手でしっかり構えた。標識の白い塗装が墨に汚れる。一歩ずつ確かめるように蛸壺へ近づくと、路面にたまった墨がピチャピチャ跳ねた。
彼女が標識の槍を振りかぶると、蛸壺が早口で言った。
「ま、ままま待ちなさい! こ、こここここ、この一帯は、すっ、すべて蛸壺組がっ、かかかか管理してるの、で、ですよ? こ、こ、こ、こんなことして、どどどど、どうなっか……」
「ならよかった」
レナコは言った。
「じゃあ後でクレームこないんだ」
彼女は蛸壺の眉間に、槍の先端を強く突き刺した。
ぎゅぶっ、と奥まで刺し抜くと、両足で踏ん張り力を込めて引き抜いた。そしてまた刺した。また抜いた。
刺して抜いて、何度も何度も念入りに貫いて、レナコはつめていた息を吐き出した。
蛸壺は絶命した。
それを確認したレナコはよろよろと歩きだす。近くの路上でマサトラとサキュバスがふたりうずくまっていた。
レナコがサキュバスからもらったドレスはボロボロになっていた。高価なドレスもこうなっては、裸にボロをまとっているも同然だった。
路地はもはや戦場だった。
そこかしこに大小の瓦礫が散らばり煙があがり、レナコは罪悪感を覚えたが、一方でどこか清々しくもあって、これまでに感じたことのない感情に胸がざわつく感じがした。
数十秒かけて、レナコがサキュバスたちのもとへとたどり着くと、サキュバスに膝枕されたマサトラが言った。
「やるじゃねぇか」
「当たり前でしょ」
レナコは答えた。
「それに……」
レナコはサキュバスを正面に見て言った。
「私が奴を倒せたのは先生のおかげです」
真面目一辺倒では駄目だったんだ、とレナコは思った。私に足りないのは臨機応変さ、これだったんだ。
「先生ごめんなさい。私、先生のこと最初は疑ってたんです。この人マナー講師なのにマナー大丈夫なのか、って。でもわかりました。先生こそ最高のマナー講師、そして最高のエクソシストです! 今日はどうもありがとうございました!」
そう言って、レナコは九十度のお辞儀をした。
妙な間の後で、目をそらしサキュバスが答えた。
「……あ、そう」
ぎこちなく微笑んだ彼女に、顔を上げたレナコが笑い返そうとしたとき、
「それは違う!」
背後からよく通る男の声がして、一同は驚き振り返った。
そこにはひとりの男が立っていた。
穴間であった。穴間が例のビルの裏口あたりに立っていた。
街灯の明かりに照らし出される彼はほとんど裸だった。身に着けているのは黒いボクサーパンツと黒い靴下だけだった。
一同の視線が集中するなか、彼はレナコたち向かって歩き出す。体はそこそこ鍛えられているのに、墨を避けようとつま先歩きするのがアンバランスだとレナコは思った。片手に持った銀色のアタッシュケースがやたらと目立っていた。
悪魔?
穴間を知らぬレナコの脳裏に不穏な単語がひらめいた。
けれど、なんとなく違うような気もした。悪魔にしてはあまりに隙があり過ぎた。そう見せかける作戦だというのなら、むしろ狡猾なのだが……
ピチャ、ピチャ。足音が近づく。
うっすらと汗ばんだ穴間の体が、メタリックなアタッシュケースが、黒い路面に反射する。彼の足から広がった墨の波紋がレナコの足にぶつかり止まる。
彼女たちからほんの数メートル。お互いの顔がはっきり見える地点で穴間は立ち止まった。
「違う!」
緊張に固まる面々に向かって、もう一度彼は言った。
「その女はエクソシストなんかじゃない。悪魔だ!」
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