四限目 ヤクザを怒らせてしまったときのマナー

第13話 搾取されるもののマナー

「ははっ、すごいことになってますねー」


 マサトラに愛想笑いを返しながら、サキュバスは途方に暮れた。なんとか穴間と話をつけて廊下に出ると、そこには地獄絵図が広がっていた。


 廊下のど真ん中で消火剤が撒き散らされていた。


 壁はピンクの粉だらけ、床のカーペットは墨が染みてじゅくじゅくで、歩くたびに不快な音がした。跳ねた飛沫に素足が汚れ、サキュバスの胸は暗くなった。


 だがなによりきつかったのは、■体となった伊刈だった。


 無残な姿だった。


 両目が破裂して、頭や胴体が黒ずみ汚れきっていた。皮膚のあちこちが破れ、原型を保てなくなった巨大な軟体動物はしなだれ虚脱していた。水気を失った触手は方向性を見失い、そこいらに無闇に広がっていた。


 腐りつつあるイカの臭いとしかいいようがない悪臭があたりに充満し、どこからともなく湧いてきたコバエを手で追い払うと、サキュバスは隠すこともなく長いため息をついた。


 消火器を撒き散らしたのは百歩譲ってまだいいとしても、化け物の■体が放置されているのはまずかった。


 こんなものは警備員案件を通り越し、普通に事件であった。警察の範疇であった。


 話を聞く限り、マサトラたちは通報や第三者への連絡などまだ行っていないとのことであったが、こんな状況では警察なり消防なりがやってくるのは時間の問題で、


 そうなったら終わる、とサキュバスは気を揉んだ。


 警察は間違いなく私の身分を確認する。部屋を捜索する。となると、パーティションの裏に隠れた本物のミスターマナーが見つかって、悪魔だとバレてしまう。バレたら■ぬ。■される。


「と、とりあえず……」


 サキュバスはへどもどしながら、ふたりを会議室の中へと誘導した。ふたりは今回の一件でことさら彼女への信頼を強めており、疑うことなく従った。


「あは、ま、通報とかは私がやっておきますから、あへ、へへ、ま、まぁそのへん適当に座っちゃって……」


 なにも面白くはないが、もう笑うしかなく、エクソシストたちと一緒に部屋に戻ったサキュバスは後ろ手にドアの鍵を締めた。


 本当に迂闊だった。


 墨に汚れたマサトラとレナコの背中を睨みながら、彼女は考える。


 こいつらは■■かもしれないが、やはりエクソシスト。力は強いし、悪魔を■すことにためらいがない。


 墨だらけでも平気で笑っているふたりに戦慄を覚えた。伊刈の墨や粘液は、人間にとっての血と同じ。つまりエクソシストたちは返り血を浴びているようなわけであって、なのにいまさらテーブルマナーがどうとかのたまわれても困る。きっと私だって悪魔とわかれば最期、これまでのリスペクトなど一切なく■されてしまうに違いない。 


 そのようなことを考えて、サキュバスはさっき穴間に言われた言葉を思い出した。


『この世には搾取するものと搾取されるものがいる』


 古来より、悪魔は狩られる側だった。


 悪魔が■す人間よりも、人間が■す悪魔のほうがはるかに多いにも関わらず、悪魔は人間に仇なすものとして、ことごとく退治されてきた。昨今では国や社会もエクソシストと癒着して、警察はどんな悲惨な悪魔■しであっても悪魔だからという理由で見て見ぬふりをする。私はただ慎ましく男を食っている生きているだけなのに……


「タオル持ってくるね」


 サキュバスはグッと顎を引いてそう言うと、小走りに駆け出した。のろのろ歩くふたりを見やることなく追い越して、奥の小部屋へ続くドアノブに手をかけた。


 再三に渡る衝突で、パーティションはもはやダンボールの支えなしでは自立もままならなくなっていた。慎重に扉を開けて奥を見ると、乱雑を極めた小部屋の隅で、穴間がアタッシュケースを抱え体育座りで待っていた。


 ボクサーパンツ姿の穴間がゆっくりと顔を上げる。


 彼はサキュバスに目をやると、突き出した親指で首をかききるジェスチャーをした。その無言のアイコンタクトにサキュバスはうなずいた。


 ■るしかない。


 同じく無言で床に膝をつき、彼女は覚悟を決めた。


 時間がなかった。警察や消防だけでなく、あと三十分もせぬうちにフィデリオも帰ってくる。


 マジで■るしかない。


 床に散らばったタオルを拾いながら、マサトラとちゅっちゅしながら楽しくエナジードレイン■■■■、などという甘い考えをサキュバスは意識の外へと投げ捨てた。一撃で、一瞬で、決着をつける必要があった。


 よくよく考えると、これまでの私の行動はあまりにも馬鹿すぎた。


 色々と、いっぱいいっぱいだったのだろう。マサトラと連絡先を交換し後でじっくり煮るなり焼くなりしてもよかったのに、穴間に言われるまでそんなことにすら気づかなかった。


 サキュバスは両手いっぱいのタオルを抱えて立ち上がる。


 これから私は、待つということを覚えねばならない。


 少し待つだけで、ちょっと我慢するだけで、より多くの男を安全に食うことができる。この修羅場をしのぎきれば、マサトラたちを■して逃げれば、明日には三十人の男が待っている。明後日以降は明日の男たちのネットワークを利用して、男に飢えることはもうなくなる。


 タオル越しに、穴間が目だけで語ってくる。


 これからはエコの時代だ。自分で狩るのでなく、向こうからやってくる男を収穫しろ。


 あぁ“収穫”。なんていい言葉だろう。背筋を走るぞわぞわとした興奮に震えながら、サキュバスは彼に背を向けた。


 穴間が言うには、男栽培プラント会社の上場を謳い投資家(現代では投資家のほとんどは悪魔である)たちに未公開株購入の勧誘を行い、金を集める計画があるという。


 穴間が言うには、悪魔間の男性ホルモン取引に連動する仮想通貨を作り、同様の手口で金を巻き上げることだってできるという。


 サキュバスには意味がよくわからなかったが、穴間と組めば大金を稼げるということだけは理解できた。男に飢えないばかりが、ハイブランドの服や鞄を買い漁れるのだから、彼女は諸手を挙げて彼に賛成していた。


 明日から私は搾取する側になるんだ。


 そう思いながら、扉を抜けたサキュバスは心臓が止まるかと思った。


 マサトラとレナコはこれまで通り同じく最前列に座っていたが、その足元に存在してはいけないものが落ちていた。マサトラの赤いスニーカーのすぐ側に麻薬の詰まった白い小袋が一個、回収されずに残っていたのだ。


 やばっ。


 言葉を発する前に彼女は飛び出していた。


 空気抵抗を受け、抱えていたタオルが数枚翻る。それを受け前が見えなくなって、勢い余ったサキュバスはつんのめった。


「わっ」


 彼女はマサトラたちが座っている長机に激突する。


「うおわっ!」


 マサトラたちが立ち上がり飛び退いてくれたのはよかったが、大量のタオルともども転がり込んだサキュバスのヒールに、グニャリ、と嫌な感触が走った。


「あ」


 気づいて、そっちに顔を向けてしまったのが余計にまずかった。


 破れたパッケージから舞い上がった白い粒がサキュバスの顔面に直撃した。


 鼻腔にダイレクトに入ったそれを思い切り吸い込んでしまい、


 ケホッ、ゲホッ、ブフォ。


 むせると、細かな粒子はより深く彼女の体内に入り込んだ。彼女は立ち上がり、涙を浮かべ咳き込んだ。


 しかも、


「先生大丈夫ッスか?」


 など言って、いまだ粉の舞うなか、マサトラたちが接近しようとするのでたまらない。


「ダメェ!!」

 サキュバスは叫んだ。

「ゲホッ。ダメッ、こっぢ近づいちゃダメだガらッ!」


 彼女は大慌てで立ち上がると、パッケージをひっつかんだ。ビニールの破損箇所を手で塞ぎ、一目散にパーティションまで駆け戻った。


「うぉりゃっ!」


 開けっ放しのドアの向こうにそれを投げ入れ、叩きつけるように扉を閉める。


 若干の間をおいて、


「ぎゃん!」


 中から穴間の悲鳴が聞こえたが、知らぬふりしてサキュバスは扉に背をつき、呼吸を整えた。


 十数秒ほどでむせは治まったが、鼻の奥から喉にかけていがらっぽく痺れるような感覚が残っていた。カレー風味のないカレーのようなスパイシーさも感じられ、頭の奥が心臓のごとく拍動しているような感じもあった。うわヤバ私クスリ吸っちゃった、そう思った。


「今向こうから、なんか悲鳴しなかったッスか?」


「いや、そんなことないよ」


「ならいいんスけど」


「あはは。とりま汚い体拭きなよ君ら」


 あははじゃねーよ。とサキュバスは内心気が気でなかった。正体不明のドラッグをもろに摂取してしまったという恐怖が胸のなかでムクムク膨らみつつあった。


「ひゃはは。ほらタオル、タオルね。ははっ」


 正直、気が気でなかったが、彼女は取り繕うように床に落ちたタオルを数枚つかんでマサトラに手渡した。タオルだけではどうしようもなさそうなレナコには、ハンドバッグに入れていた■ラダのミニドレスを放り投げた。


「レナコちゃん絶対それ似合うって」


 心にもないサキュバスの発言に、えーそうですかー、などとまんざらでもなさそうなレナコが壁際に移動して、反対側の壁際へと移動したマサトラと背を向けあう形で着替え始めると、急速に頭が痛くなってきて、サキュバスはいよいよ怖くなった。


 悪魔だぞ私は悪魔だぞ。人間向けのドラッグごときキマるわけないじゃん。そんなのバカじゃん。ありえないじゃん。


 サキュバスは、タンクトップをまくりあげタオルで汚れを拭き取るマサトラの肉体美に集中して気をそらそうとした。背中から脇腹にかけ汗にテカった肌の上を往復する白いタオルを食い入るように見つめる。されど、思考はドラッグから離れられない。


 つーか、吸ってすぐキマるドラッグなんかあってたまるかっつーの。それに今はこんなことしてる場合じゃないんだって、さっさとこいつら始末しなくちゃなんないんだから。


 サキュバスは続いてレナコに目を向ける。シャツを脱いだ彼女のブラは、イカ墨でムラのあるグレーに染まっている。ネトネトと糸を引かせながらスカートも脱ぐと、キュッとしまった臀部から腿へのラインが顕になった。パンツもまた薄汚い墨染だったが、それがむしろ健康的な少女の肉体を際立たせ、なんとなく嫉妬を覚えたサキュバスの頭はよりいっそう痛くなった。


 あー■■■。


 サキュバスは目を閉じ、額間に手を当て押し黙った。


 だーかーらー、普通そんなすぐキマんないって。そもそも私は悪魔なんだから。つーか私は搾取する側の人間? 勝ち組? になっちゃって、楽しくハッピーに行くんでしょう。だからドラッグがキマるわけないじゃん。


 あーでも、粘膜から吸収すると早いんだっけ?


 不思議なもので、そう考えると逆にキマってしまうのがプラセボ効果というものである。


「うっ」


 突然、皮膚感覚が鋭敏になった気がした。ちょっと服が擦れただけで、針の先でなぞられるような刺激を皮膚に覚え、ひうっ、という声を出しサキュバスはびくついた。びくつくともっと服がスレて、なおさら悶えて止まらなくなった。


「あっ……はぁっ……ひゃうっ……」


 体の内側で腸がめまぐるしく蠕動している感じがあった。内臓だけでなく、意識できないはずの血液の循環すら、そっくり知覚できるようにすら思えてきて……


 ヤバいヤバいヤバい。


 サキュバスはますますドツボにはまっていった。冷たい汗が吹き出してくる。まぶたの裏が熱く、眼球が奥にめり込んでいくみたいだった。


 サキュバスには思い込みの激しいところがあった。


 彼女は不細工なエサにしかありつけないことも多く、そのような場合でも美味く精気を味わうため、普段から自分に暗示をかけていた。


 具体的には、私は今野外でヤッてる、服着てヤッてる、3Pしてる、みんなに見られてる、などといった暗示である。精気の味はシチュエーションにも影響を受けるため、このような暗示をかけることで醜男でもそれなりに腹を満たすことができた。これはたとえ好みの相手でなくても美味しく食うための、サキュバス的生活の知恵であった。


 媚薬なども同じで、悪魔と人間では肉体的な構造が違う以上、サキュバスにその効果など本来まったくないのであるが、媚薬を飲んじゃった、と思ったほうがなにしろアガるため、彼女は薬物やアルコールにめっきり弱かった。弱いと思いこんでいた。


 というわけで、サキュバスは効くわけがないドラッグのないはずの刺激にうんうん苦悶していたのであるが、しばらくして、優しい少年の声がした。


「あの先生、マジで大丈夫ッスか?」


 目を開けると、マサトラが立っていた。


 一通り汗と消火剤を拭き取ったとはいえ、彼の肌はまだ濡れてテカっていた。金とピンクのまだらになって、ツンツンしていた前髪が額に下りてセクシーだった。むき出しの肩や二の腕には生々しい傷があって、汗に混じって漂ってくる血の匂いに心臓がきゅんとなったとき、サキュバスは本格的にトリップした。


「あ」


 なぜか、マサトラの背後に広大な宇宙が広がっていて、サキュバスは仰天する。


 長机や椅子の乱れるだだっ広い会議室。そんなものはそこにはなかった。


 赤い光、青白い光、黄色にオレンジの光。数え切れないほどの星々が頭上から足下まで、すべての空間を埋めていた。


 圧倒された。


 星たちは密になったり疎になったりして、塗りつぶしたような暗黒に鮮やかな光のグラデーションを作りだしていた。ガスを放ったり爆発したりして、惚れ惚れするようなマーブル模様の星雲を作りあげていた。


 そんな星々を背景に、光輝くマサトラが立っていた。いや、浮遊していた。サキュバスもまた浮遊していた。


 気持ちいい。


 彼女は身も心も際限なく拡張し、吸い込まれていくような高揚感を覚えた。巨大な麺棒で体を薄く引き伸ばされて、宇宙に同化していくかのようだった。


 真空空間において、サキュバスとマサトラとを遮るものはなにもない。


 食おう、サキュバスは自然とそう思った。


 もはや人間の姿でいる必要はないと、収納されていた羽根がシャツの下でムクムク広がりかけたちょうどそのとき、


 コンコンコンコン。


 誰かが扉をノックする音がして、驚いたサキュバスは本能的に羽根を戻した。


「失礼します」


 もう一度ノックがあった。コンコンコンコン。回数は四回、それはノックの正式なマナーに基づいたものであったが、そんなことはサキュバスにはわからない。


 ノックの後に見知らぬ男の声が続く。


「蛸壺組の蛸壺です。この度は穴間様にお話があって参りました」

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