第12話 悪魔が教えるビジネスマナー③(実戦編)
一方その頃、廊下ではマサトラと伊刈が睨み合っていた。
「だからぁ、冷たいのに塩混ぜたやろっちゅってんのや!」
「あん? 先生が冷たい塩対応って言いてーのか?」
「塩対応ってなんや舐めとんかゴラ! 舐めたらしょっぱぁておかしいやろがい!」
「おかしくねーし。意味わかんねーから。やんのかおっさん!」
「お前こそやんのかこの■■■■!」
ふたりとも顔を真赤にして罵り合い、狭い廊下に野太い声が反響していた。レナコはスマホを取り出しフィデリオを呼ぼうかと思ったが、そうするのも厳しいほど剣呑な状況だった。
だが、伊刈はすっと腕を引っ込めた。
「ッチ。マジでやるわけあるか■■。■■と女殴る趣味はないんや」
「■■ってなんだ■■って?」
「どう考えても■■やろお前ら。■■の■■■■■とか、世も末やでホンマ。ま、明日また蛸壺組の伊刈が来るゆうて、手前ンとこの先生に伝えとけや」
そう言って伊刈は背を向けて歩き出し、レナコは驚いた。
彼は見るからに未成年でカタギっぽいマサトラたちが代理として出てくることを不審に思い、これは■■を殴らせ警察に通報せしめんという穴間の策略に違いない、と戦略的撤退をしたのであるが、直前にサキュバスの講義を受けていたレナコはそんな解釈には至らなかった。
5%だ、と彼女は感動を覚えた。ミスターマナーが言ったことは正しかった。見るからに悪魔っぽいクレーマーが実は普通の人間だったのだ。
伊刈が廊下を曲がったところで、マサトラが小さくガッツポーズした。エレベーターが到着した音がして、伊刈は吐き捨てるように言った。
「今度は弁護士の先生と一緒に来るっちゅうとけや」
廊下の陰から声だけ聞こえてきたその言葉に、マサトラが返した。
「いい加減しつけーぞ。さてはお前悪魔だな?」
「あぁん!?」
曲がり角から、スキンヘッドのサングラスがにゅっと出た。
「お前今なんちゅうた!?」
次いで広い肩とワイドな図体が滑り出て、伊刈は廊下をぐんぐんこちらに戻ってくる。
「おい■■。もっぺんゆうてみさらせ■■■! どついたんぞオラァ!」
「お前は悪魔だろっつったんだよ■■■」
なにやってんだバカ、と伊刈の前に躍り出たマサトラの背中にレナコは顔をしかめる。悪魔にならともかく、人間に悪魔だと言うやつがあるか。そんなこと言われたら誰でも怒る。
「あぁんっ!?」
伊刈は腰を折り曲げ覆いかぶさるようにして、サングラスの奥の瞳でマサトラをねめつける。鼻息が荒くなり、頬の傷がふるふる震え赤くなっていた。
とはいえ、マサトラだってひるまなかった。彼は力強く伊刈を睨み返し、十字架を取り出そうと尻ポケットに手を伸ばし言った。
「だって、俺たちはエクソシストだからな」
「ンだとぉ!」
マサトラがポケットから十字架を取り出すと同時に、伊刈が変身した。
一瞬生ぬるい風が吹いたかと思うと、直後、伊刈の全身がぶるりと波打った。続けてサングラスや白いスーツごと巨体が融解しはじめ、背中からにょきにょきと触手のようなものが生えてきた。
「なんだなんだ?」
「■ねやァ!」
言うがいなや、異形に変形しつつある伊刈は口をすぼめ、黒い体液を吐きつけてくる。
「
ただちにマサトラが能力を発動しバリアを張った。ポケットから取り出した十字架の前に半透明の壁が出現し、黒い液を食い止めようとする。
しかし、
「ぐっ」
その勢いは予想外にすさまじく、彼の膝はぐらついた。しかも黒い液体がバリアの表面に付着して、伊刈の姿が見えなくなった。
レナコが後ろから駆け寄ろうとすると、
「なんやなんや■■ども、その程度かいな!」
激しい衝撃が起こり、黒ずんだバリアに穴が開く。
白い触手がまっすぐ伸びて、硬いバリアを貫いていた。壊れたバリアは、穴の開いた中心部から細かい光の粒子に変わり消えていく。
「うわ……」
その隙間から顕になった光景に、レナコは度肝を抜かれた。
廊下のど真ん中で、伊刈はイカの怪物へと変貌していた。
体長は二メートルほどで、全体的に細長く、少しスリムになったような印象を受ける。頭部は尖った矢じり状で、その根元、肩の付近からはグレープフルーツ大の目玉が二つ左右に飛び出ていた。服や靴などは消え失せて、かわりに白く水っぽい粘膜が全身を覆っていた。
95%だ、とレナコは思った。悪質クレーマーは本当に悪魔だったのだ。
チュッ、とねとつく粘液を泡立たせ、伊刈は触手をムチのように引き戻す。
マサトラもこちら側に一歩退き、双方向かい合うかたちとなった。
伊刈の両手両足は吸盤に覆われた触手になっていた。両手の二本は細く長い一方、関節のない両足は図太く、頭でっかちな上部をしっかりと支えている。短い胴体部の背側からは腹側へ回り込むように他の触手が揺らめいており、直立こそしているが、まさにイカ。イカ怪人といってよかった。
「■■っ、クラーケンか!?」
マサトラが言うと、グロテスクな口元をモゴモゴさせて伊刈が答えた。
「違うわ■■! ワシは烏賊坊主や」
「は?」
「悪魔とちゃう。妖怪や! なんでもかんでもグローバル化しやがって■■■■が!」
「知るか!」
と果敢に飛び出したマサトラに、伊刈が触手化した右手を突き出してくる。
しゅるしゅる、と空気を引き裂く鋭く音。
マサトラは斜め前に
「■■!」
マサトラは詠唱も省略し小さな壁を張りつつ、右。左。右。ときに素手も交え、苛烈な触手のラッシュを切り分け受け流していく。
だけど、なんだろう?
そんな彼の動きにレナコは疑問を覚えた。
エクソシストの能力は基本的に一人につき一つ。マサトラの能力――
なのに今、マサトラの
マサトラ自身もそれに気づいているのだろう、伊刈の脇をすり抜け反対側に転がりでると、汗の飛沫を散らせ言い放つ。
「■■■、力が出ねぇ!」
伊刈も体をひねり、マサトラと再び向かい合う。レナコにとっては、伊刈の背中が丸見えとなって、もぞもぞと蠢く触手のそれぞれ独立した動きが不気味だった。
触手の隙間から肩で息するマサトラが見えた。
彼はやはり相当に消耗しているようであった。
充血した目を大きく見開き、十字架を持つ手が震えている。汗を吸ったタンクトップが肌に張り付き、頬や前腕の細かい擦り傷からはうっすらと血が滲んでいる。
まさかキスの疲れが残っている? とレナコは思った。だが、その割に自分は大して疲弊していないのが不思議だった。ならマナー先生とのキス? やっぱり大人のキスは違うのかな?
ギラつく触手を縫うようにして、マサトラが伊刈越しにレナコへ視線を投げてくる。
おいレナコ、お前も戦え!
そのアイコンタクトにレナコは、あ、と思った。
「先生呼ばなきゃ」
教師の監督下にない学生が許可なく悪魔と戦うのは明確な校則違反である。彼女は慌ててスマホを取り出し、フィデリオに連絡を取ろうとした。しかし指先がじっとり汗ばんでいて、手帳型のケースがうまく開けず落としそうになった。
「バカかお前、今更んなこと言ってる場合かよ!」
「いやだって、先生の指導のもとでな――」
ふいに、妙な生臭さがレナコの鼻をついた。
夏場に数日放置した■■■■■のような臭いだった。「え?」それを意識した瞬間、右手に鈍痛が走り、レナコのスマホが弾き飛ばされていた。
伊刈の背中から一本の触手がレナコ向かって一直線に伸びていた。
まずい。
スマホは致命的なスピードで天井に激突し、床に落下して液晶が砕け散る。レナコの脇を通り抜けた触手がJの字を描いて器用に転回し戻ってくる。
レナコはとっさに背筋を反らしたが間に合わなかった。触手は彼女の肢体にぐるぐると、とぐろを巻くようにまとわりついた。
「ひうっ!」
油断した。
べとつく触手はすり抜けようともがいても、チュルッ、ともう一本。引き剥がそうとしても、チュルチュルッ、とさらにもう一本伸びてきて、彼女の全身を縛り上げていく。
「ふへへねぇちゃん。いらんことしとんとちゃうでぇ」
三本の触手はレナコの体をゆっくりと持ち上げて、床から両足が離れていく。
「いらんことやのうて、おっちゃんと■■なことしようや」
その言葉に、胸の下あたりに巻き付いていた触手がわざとらしくずりあがり、レナコのおっぱいを強調する。ローファーが片側だけ脱げ落ちて、カーペットの上で跳ねて止まる。
伊刈の頭が粘液質な音を立て半回転し、槍状の頭の根本、大きな眼球がレナコを向いた。
どこを見ているのかまるで読めぬ、混濁した目だった。
刹那、新たな触手が二本、レナコに伸びた。
「きゃー!!」
これまでとは違う動きでシャツやスカートの隙間から侵入してくる感触に、彼女は悲鳴を上げる。首を固定され下を見ることができなくとも、スカートがめくれ上がったのがわかる。ブラのホックが外れたのがわかる。ジュズ、ジュズ、ジュズ。生暖かいイカの粘膜が吸い付くように足に腰にと巻き付いて、吸盤がごりっと皮膚にめり込み這い上がっていく。
「うッ!」
叫ぼうとしたレナコの口に、無理くり触手が突っ込まれる。
今後は■■■■■どころではなかった。腐った■■■■に酢をぶっかけてバーナーで炙ったような臭いが脳天を貫いて、太いモノが喉に押し込まれる刺激も相まって、レナコはとてつもない吐き気を覚えたが、吐くこともできず涙が滝のように溢れてきた。
「おいッ!」
滲んだレナコの視界にマサトラの黄色いタンクトップがちらついた。
彼はレナコを助けようと近づいていた。
が、無軌道に振り回される触手に距離を詰められないようであった。
「手前は黙っとれ。こっからがええとこなんや!」
伊刈の口が動くたび、口腔内にずらりと並んだ歯がむき出しとなる。
「ふへへ。ここをこうして、こうっと、どうやねぇちゃん。■■■■、■■■■■やろ?」
嫌だ。嫌だ嫌だ嫌だ!
伊刈がマサトラを攻撃するたび上下左右に揺さぶられ、吐けない嗚咽を催しながらレナコはもがく。
だけど、まるで上手くいかない。
触手の表面は柔らかい反面、芯の弾力は強く筋ばっていて、反発すればするほどレナコの肉体は締め上げられていく。
「やめろ!」
「やめろ言われてやめる奴がおるか■■」
「■■がっ!」
「■■■。妖怪に十字架が効くわけ無いやろ」
マサトラと伊刈のやり取りは、もはやレナコにはなにも見えずなにも聞こえなかった。
彼女の全身はくまなく触手に覆われていた。
「ふへへねぇちゃん、じっくり■■■■たるさかいのぉ」
その声は聞こえなくても、触手の動きは言葉以上に雄弁だった。
クチュ、クチュ、クチュ、クチュ。
嫌嫌嫌嫌嫌嫌嫌嫌! まるで身動きできぬ状況のなか、レナコは心のなかで泣き叫ぶ。
きつく歯噛みしても、塩っぽいイカの体液が滲み出るだけで変わらない。こうなったらせめて意識を失いたい。されど、尋常でない激臭はそれすらも許さない。
ニョリッ。
ついに触手がパンツの中にまで侵入してきた。
嫌!!
そのときだった。
生暖かい触手がいきなりブルンと大きく震え、しかしその後弛緩して、レナコを締め上げる拘束はなぜだか急激に緩まっていった。
「……っ、ゥオガァッ……!」
吐瀉物とともに、レナコの口から触手が飛び出した。
「ゲブッ、ゲボッ、ヴボッッッ!!」
彼女はこれでもかと咳き込んだ。
一気に肺に酸素が取り込まれる感覚に、身悶えしながら喉をひきつらせる。
胸がどうしようもなく熱く、痛かった。突然のことになにが起こったのかまるでわからず、彼女はねばつくまぶたを開き、緩んだ触手の隙間から前を見た。
「ゴッ、ゴボォ、ゴボォァァッッ……」
むせこんでいたのはレナコだけではなかった。
レナコの目に映ったのは全身を痙攣させ、口からなにやらゼリー状の塊を激しく吐き出す伊刈の姿だった。その視野はおぼろでピンク色にくぐもっており、粘液に含まれる毒で網膜をやられてしまったのか、と彼女は一瞬思ったが、すぐに気づいた。
すぐそばで、マサトラが十字架のかわりに消火器をつかんで立っていた。
空気中に漂うピンク色の粒子は消火剤であった。マサトラは伊刈の口に消火器のホースを突っ込み、その中身をぶちまけていたのだった。
「ガフッュ、ッ■■■■ッッ! グホッグボッ、ヨグモッ!!」
消火剤と混ざってなんらかの化学反応を起こしたダマ状の墨を吐き散らかしながら、伊刈は吠えた。
「■■シッ――」
だが、そんな声も重く鈍い音にかき消された。
マサトラが伊刈の眼球めがけ、消火器を振り下ろしていた。
「グワァァァァッッッッ!!」
廊下を、ビルそのものを揺さぶるほどの壮絶な慟哭があった。
構わずもう一発。マサトラが消火器の底の部分を別の目玉へと叩きつける。レバーを握ったままそれをやるので、支えを失ったホースからは消火剤があらぬほうへと噴出し、壁やカーペットをピンクに汚す。
「ギニャァァァッッッッ!!」
ほどなく、濁った両眼は完膚なきまでに破壊された。
触手がヘナヘナと力を失って、解放されたレナコは粉っぽい床へと転がり落ちた。
またしても咳き込みながら、彼女が頭上を見上げると、ターゲットを見失った触手が暴れまわっていた。それらは天井や壁を烈火のごとく打ちつけていたが、その軌道は手探りで闇雲で、目へのダメージがありありと見て取れた。
絡まらん勢いで振るわれるそれらを難なく交わしながら、マサトラは消火器で伊刈の全身を何度も殴りつけていく。
何度も。何度も。何度も。
消火器の中身はいつしか空になっていた。
ミートハンマーで繊維を切断するような音が聞こえた。こんにゃくをボーリング球で引き伸ばすような音が聞こえた。グミの塊をプレス機に投入したような音が聞こえた。最後にイカ怪人の絶叫が聞こえた。
そんな非道な音のなかで、安全圏へと這い出したレナコはぼんやりとマサトラの姿を眺めていた。
相変わらずキレは悪かったが、その分ひとつひとつの動きに無駄がなかった。
髪も服もピンクの粉まみれになって、同じくピンクに染まったピアスが彼の耳で揺れていた。消火剤のおかげで筋肉のラインがはっきり浮かび、消火器を振り回す腕の躍動がよくわかった。
触手同士が激突し、すぐそばの照明が落ちて廊下がずんと暗くなる。
それでも、レナコの瞳には消火器の赤い残像が残っていた。
「ハァ、魔法使うだけが、ハァ、ハァッ、エクソシストじゃねーんだよ!」
ついに悲鳴もやんで、伊刈は仰向けに倒れ込んだ。背中から生えた六本の触手は根本で折れて、しなしなと力なく床に広がった。
すると、伊刈の口から莫大な量の墨が吹き出してきた。カーペットに染み込みきれぬ墨はみるみるうちに広がって、降り積もったピンクのパウダーを浸し、壁を背に座り込むレナコの足や尻を汚していった。
ゴトン、と消火器をほっぽり出し、
「はぁはぁっ、おい大丈夫かっ!?」
息を切らせマサトラが言った。
すっかりピンクに染まったマサトラの顔がそこにあった。
粉が眉間のシワを強調し、舌までピンクになった彼の顔は滑稽であったが、真剣そのものだった。片膝ついた彼の体から漂ってくる熱量にレナコは急に羞恥を覚え、思わず顔を伏せた。
粘液に濡れ、ほぼ裸同然に剥かれた彼女の全身にも消火剤がこびりついていた。ブラは外れて乳房がこぼれ、スカートはめくれ上がり、外から中から粉まみれの粘液が滴っていた。
それだけじゃなかった。
私はマサトラとキスしたんだ。
ここにきてなぜかその事実が思い出され、レナコの頬は燃えるように熱くなった。あれはマナーだから、あいさつだから、仕方ないから、などと誤魔化そうとしても、鼓動はどんどん大きく速くなって、マサトラにまで聞こえてしまうんじゃないかと思うと、彼女はいよいよ顔を上げられなくなった。
今一度マサトラが訊ねた。
「マジで大丈夫か?」
レナコは黒く染まったカーペットを見つめながら、腹を立てたような声で言った。
「ふん。べ、別に助けてなんていらなかったから。私ひとりでもあんなやつ倒せたしっ!」
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