第11話 悪魔も騙す詐欺師のマナー
パン、パン、パン、と穴間はダンボール箱の内側に額を打ちつけ続けていた。
千載一遇のチャンスだった。この機会を逃すと命がなかった。
数十分前、彼は全身の痛みと息苦しさに目を覚ました。
真っ暗だった。まぶたを開けても埃臭い闇しかなかった。裸に剥かれ、手足は縛られ口も塞がれて、あの女悪魔に箱詰めにされたのだとすぐにわかった。窮屈なえびぞりの姿勢はとても辛く、肩や膝といった関節の痛みから、長らく放置されているようだった。
穴間はなんとか拘束を解こうと試みた。だがどうやっても、体は重く節々がきしんで、ほとんど動かせなかった。ガムテープの巻き方は配慮ゼロで、口だけでなく耳や鼻まで塞がれており、穴間は片穴での鼻呼吸を余儀なくされた。
動けなくても、汗はかくし喉が渇いた。箱の中は蒸し暑く、せめて靴下だけでも脱がせて欲しい、と彼は思った。
唾など使って、必■に頑張っているとわずかにテープが緩み、やっとのことで呼吸と苦しくない上半身の体勢を確保できたとき、テープの外れた耳にくぐもった声が聞こえてきた。
ダンボール越しのその声は、若い女の声だった。
彼は鼻息を抑え耳をすました。この声の感じ、たぶんこの箱はパーティションの裏に置かれているのだろう。そしてこの女の声、この声は……
嘘だろ? と穴間は思った。
しかし、
「クレーマーの95%は悪魔だと言われています」
嘘じゃなかった。
サキュバスが彼に成りかわり、エクソシストたちに講義していた。
あの悪魔が俺のかわりに
俺はまだ生きている。ということは、あの女悪魔は俺を■さなかった。■せなかった。それは、おそらくエクソシストどもが来たからだろう。エクソシストなど眉唾だったが、どうやら本当らしい。嘘なら悪魔は俺のかわりに講義などせず、さっさと皆■しにしているはずだから。
なら、あいつらに俺の存在を気づいてもらえれば? 今は駄目でも、もう少ししたらあるいは?
そのようなことを考えながら、穴間はその後じっと耐えてきた。
薄い空気を鼻から吸って吐いて、じっくりと体力を回復させてきた。ここぞというときに備え、耳を凝らしひたすら脱出の機会を探ってきた。
ファックスで送れはすべて詐欺、きょうびEメールなど使うのはクレーマー気質の老人だけ。
などと、サキュバスは言った。
自分がいうのもなんだが、ひどい
コンサルタントと名のつくものはすべて虚業、善人から甘い汁を吸おうという企む悪魔の所業。そんな
それはまぁそうかな、と思ったさなか、突如男の怒声が聞こえた。
「おい穴間ぁ出てこいやゴラァッ!!」
え?
「おんのはわかっとんのじゃ■■ウォラ!!」
まさか、蛸壺組の伊刈!?
「穴間ァ、ワレェ、なめとったら承知せぇへんど!」
いや、まさかではない。その特徴的な関西弁を間違えようもない。スキンヘッドに特徴的な傷、そのいかつい顔を穴間はありありと思い出した。
よもや、このタイミングで来るとは思わなった。
多少なり体力は復活しており、今しかない、そう思って穴間は力を振り絞り暴れ始めた。拘束された手足をもぞもぞ、ジムで鍛えた体幹の筋肉をフル稼働して、これでもかと厚紙の壁に額を叩きつけた。
効果は覿面だった。
すぐさま、箱の外からなにやら揉めているような声が複数聞こえてくる。
お願いだ。気づいてくれ。俺が監禁されてたら助けるのが
外の声が大きくなる。
鼻息とダンボールの発する乾いた音にかき消され、その内容はよく聞こえなかったが、穴間の胸は弾んだ。
彼はますます熱を込めて律動し、頭を箱の側面にぶち当て続ける。
頬がボール紙に擦り切れて、血が滲み出した。自らが吐き出した二酸化炭素が箱の中に充満し、鼻呼吸では相当に苦しかった。指先がしびれ、脇腹から胸にかけての筋肉が攣って猛烈に痛んだが、■にたくなかった。マジで助けて。穴間は喉を震わせ唇を動かして、口を塞ぐガムテープの裏から唸り続けた。
数十秒後。
ガチャリ、と扉の開く音がして、穴間はついに伊刈が部屋に入ってきたのだと喜んだ。
ほっとして打ち付けをやめると、涙で闇が滲んだ。彼にとって蛸壺組および伊刈はなにぶん苦手な相手だったが、今だけは天使に思えた。
しかし、そんな期待も長続きしなかった。
ふいに彼は、もはや誰の声も聞こえなくなっていることに気がついた。
かわりに、何者かがこちら向かって近づいてくる気配がする。
コツコツコツ。
と、床を介し響いてくるその足音にはあまり重量感がなかった。
これは誰だ?
穴間の疑問は解決されぬまま、足音が止まる。
箱の上部に手をかけられ、頭上のガムテープが剥がされていく。
これ、あの悪魔なんじゃないか?
バクつく心臓が喉元までせり上がる。
あのキスはヤバい、と穴間はいてもたってもいられなくなる。
文字通り腰が砕け、前後を忘れるキスだった。二日酔いの気だるさと射精後の虚脱感を重ねたような疲労がいまだ全身にこびりついていて、唇を介し生気のようなものを吸い取られたに違いなく、次こそ間違いなく命はなかった。
待て大丈夫だ俺。これがもし悪魔だとしても大丈夫だ。絶対に
ガムテープが一発で剥がれなかったのだろう。心なし開いた天井からまばゆい光が差し込んで、ガタつく闇の中で穴間は自らを鼓舞し続ける。もし箱を開けるのが悪魔であっても、パーティションは折れている。壊れてる。向こう側にさえ転がり出れば、エクソシストどもと伊刈がいる。俺の勝ちだ。
蓋のガムテープが剥がれきり、見たことのあるネイルが蓋を持ち上げているのに気づいた瞬間、穴間は体のバネを使って飛び上がった。
「きゃっ」
女の短い悲鳴を尻目に、目論見通りパーティションごと会議室側になだれ込んだところで、彼の思考は停止した。
教室にはだれもいなかった。
ダウンライトのLEDがやけに明るく、潤んだ視界に期待したものは入ってこなかった。伊刈だけでなく、エクソシストたちも誰ひとりいなかった。
マズい。
そう思ったときにはもう遅い。拘束は解けておらず、あっという間に背後から飛びかかられる。
とっさにうつ伏せから仰向けへと、倒れたパーティションから床へと穴間が転がり落ちると、さっきまで彼がいたところにサキュバスが飛び乗ってきた。
通常では考えられないような圧を受けて、折れたパーティションがよりいっそうひん曲がる。アルミ枠が悲鳴を上げる。
穴間のスーツを着たサキュバスを見て、彼は瞬きを忘れた。
サキュバスは手頃な武器として、近くにあったそれを手にしたのであろう、穴間のアタッシュケースをつかんでいた。
悪魔の雄叫びが轟いた。
間髪入れず、サキュバスはアタッシュケースをゴルフスイングの要領で振りかぶる。
今度は避けられない。目を閉じると同時に、
ゴンッ、と鈍い音がした。
激痛が走った。ケースは穴間の側頭部を強打していた。
閉じたまぶたの裏側で閃光が輝き、ほどなく暗くなった。受傷部位が燃え上がるように熱くなって、思わず手を当てたくなったが拘束で叶わず、叫びたくても口もまた塞がれていて、穴間は悶えた。
のたうち回ろうとするも、肩口を両手で押さえつけられる。身をよじって跳ねのけようにも、上手くいくはずもなかった。
再び目を開いた彼は、サキュバスと彼女の後ろに放り投げられたアタッシュケースを見た。ケースの口が開き、周囲にその中身である白い粉が入ったビニールの
■■、よりにもよって
そう思ったのも束の間、サキュバスが穴間の口のガムテープを思い切り引っ剥がす。
唇の皮が剥がれる痛みがあったが、構わず穴間は叫んだ。
「△※☆◎!!」
■さないでくれ、彼としてはそう発したつもりだった。けれど、声はうまく声にならず、喉から息が漏れただけだった。
サキュバスの唇が穴間の唇に接近する。
「おい待て」
彼は辛うじて息を吸い、力を込めてサキュバスの目を見据え今一度口を開いた。
「大声は、出さない。出さないから、俺の話を聞いてくれ」
「なめとんのかゴラァッ!」
そのとき突然、部屋の外から怒鳴り声がして穴間はびくついた。サキュバスも動揺したのか、近づいていた唇が穴間のそれの真上で止まる。
「だーかーらー、穴間出せっちゅっとんねん!」
伊刈の声はやはり廊下から聞こえてくる。
いやちょっと待て。エクソシストどもは廊下で
いくら伊刈の■■相手といえ、ヤクザと立ち話なんて常識的にありえないだろ。しかも客が客を応対って。いや、この
されどそう思うと、少し希望が見えた気もした。
事実、今ぽかんと口を半開きにしているサキュバスの間抜け顔を見て、いける、と穴間は思った。すぐにキスをしなかった彼女に勝ち筋を見出した。
「お前
彼は言った。
「いくらで雇われた? 倍払う。倍払うから助けてくれ」
トーンを抑え、努めて平静を装い言葉を選んだ。
ガムテープを外した時点でお前の負けだ。ハッタリと口八丁で俺に勝てると思うなよ。穴間は呼吸を整える。
「違う。■し屋じゃない」
サキュバスが答えた。またも唇が近づき、穴間は言った。
「なら、あれか?」
「
「違う」
「金なら出す。いくらでもくれてやる。だから……」
唇はさらに近づいてくる。
「待てよ。じゃあなんだ? もしかしてお前
こんな■■が
しかしサキュバスは答えた。
「違う」
今や唇はほんの数センチにまで迫っていた。あの春の匂いがした。
「私はただの
「は?」
「お前の精気を全部吸って、マサトラのも吸う」
甘い。甘すぎる声だった。
マジかよ。こいつマジで、マジでキスしたいだけなのかよ!
「ちょっと、ちょっと待て。ホント待って!」
金という
「金がダメなら、アレだアレ。男。男を好きなだけ食えるオイシい
サキュバスの頬が心持ちひくついた。それを見て、
助かった。と穴間は安堵した。悪魔は悪魔だが、こいつは■■な悪魔なのだ。
「お前、全然男食えてないんだろう?」
彼はサキュバスの発言から
「マサトラとやらも食い損なったんだろ?」
不安を煽るのは詐欺の基本だ。それは悪魔にだって通用するに違いない。
そして彼は新たなマナーを作り出す。
悪魔だろうが俺に騙されろ。これぞマナーだ。
「俺は
これは嘘じゃない。嘘を信じさせるためには、適度に真実を織り交ぜるのが鉄則なのだ。
「なぁ、俺と組まないか?」
サキュバスの目つきが明らかに変わったのを見て、穴間は笑う。
「明日、婚活マナー講座がある」
「え?」
「相手は女に飢えた三十人の男たちだ。手始めにそのすべてをくれてやる」
ごくり、とサキュバスが喉を鳴らす。
「お前は綺麗だし才能もある。俺が保証する。悪魔のくせにエクソシストに
そんなことあるわけない。お前は俺のカモだ。
カモはネギ背負って俺の前に並ぶのがマナーだ。
「なぁ悪魔ってのは猿じゃねーんだろ?
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