三限目 お客様が神様なら、クレーマーは悪魔です

第9話 悪魔が教えるビジネスマナー①(クレーマーの95%は悪魔です)

「えーでは、……クレーム対応から始めていきましょう」


「マナー先生、そもそもクレームってなんスか?」


「えーっと、それは……レナコさん、答えてもらえますか?」


「クレームとは商品やサービスに対する苦情や改善要求を指す言葉です」


「はいそうですね。正解です」


「けっ、真面目かよ」


「キスすらまともにできないマサトラくんよりマシだと思いますけど?」


「あぁん? じゃあお前はキスうまいんか? ヤりまくりなんか? この■■■!」


「はぁっ? なんで私が■■■なの■■じゃないの!?」


 最前列のレナコが声を荒げて立ち上がった。彼女は隣に座ったマサトラを指差して、ホワイトボード前のサキュバスに言った。


「まさにこれがクレームです。マサトラはもっと優しくキスすべきだったと思います!」


「お、俺だって!」

 マサトラも立ち上がる。彼の頬には平手打ちの跡がありありと残っていた。

「お前のキスはマナー先生のより全然ショボかったし……」


「なにっ!?」「なにをっ!?」


 サキュバスはそんな彼らを見て肩を落とした。結局授業するはめになってしまった。


「あんなに待たせるのがまずありえないって思わないの?」


「そ、それはお前から来るもんだと思って……」


 サキュバスはそのやり取りが夫婦漫才みたいだと思って、レナコに嫉妬した。


 まさかやるわけないと思っていたのに、ふたりが結構がっつりキスをやりきったのが癪だった。サキュバスが吸うはずのマサトラの性的エネルギーは減らず、むしろレナコに対する興奮分、総量自体は増えているはずなのだが、レナコがこうやって居座り続ける以上吸えそうにないし、淫魔である彼女のプライドも傷つけられた思いだった。


 正直このくらいの子とか、ヤッちゃってから恋愛感情芽生えるとかあるからな。


 思いつきでキスをさせてしまったことの後悔から、サキュバスは珍しく暗い気分になってしまう。しかもさっそく腹が減りつつあった。身分を偽るだけでも想像以上に体力を消費していたし、十代男女の初々しさを見せつけられて、なおさら飢餓感を煽られた。こうなったら一秒でも早くマサトラと“もっといいこと”をしたい。だけど、このままじゃなにもできないままタイムアップ。フィデリオが戻ってきて、二度とマサトラと会えなくなる可能性が非常に高い。


 あー。なんかいい手はないのかなぁ。


 サキュバスはひとり悩んだ。胸のなかで焦燥感がチリチリと燃えていた。


 そんな感じに立ち尽くしているサキュバスの様子に気づいたのか、


「……とにかく」

 レナコが話を戻す。

「クレーム対応で大切なことはまず謝罪です。そして相手の話を傾聴し、事実の確認をすることです」


 サキュバスが先を促すと、彼女は続ける。


「相手がなにを望んでいるのか? マサトラくんも相手の立場にたって共感的な対応を心がけるべきだと思いまーす」


「は?」


「あなた自分だけ良かったらいいって思ってるでしょ? この前大遅刻して先生と依頼人に怒られてたじゃん」


「あれは仕方ねーし。つか悪魔倒せたんたから別によくね?」


「いやよくないでしょ」


「あ?」


 再び口論が始まって、サキュバスは腕を組み小さく息を吐いた。


 しかしまぁ、気楽ではあった。


 マサトラのエネルギーは吸えないかもしれないが、とりあえず危険は過ぎ去った。マジに授業せねばならなくなったときは正直■を覚悟したが、ふたりは■■だったし、■■だけどレナコには知識があった。歩くマナー辞典と言ってよかった。


 なにを講義すればいいかわからなくても、レナコに質問という体で話を振れば余裕だった。彼女は本物のミスターマナーがやるはずだったプログラム(クレーム対応→電話対応→メール対応→テーブルマナー)だって教えてくれたし、エクソシストでさえなかったら、結構いい奴だとすら思った。


 そしていい奴だからこそ、悪魔であるサキュバスはいたずらをしたくなった。マサトラに対する嫉妬、エサを食えなくなった恨みから、彼女はちょっとした嫌がらせを思いついた。


「ではここで、おふたりに取って置きのデータを教えましょう」

 サキュバスは得意げに言った。

「クレーマーの95%は悪魔だと言われています」


「え? マジっスか?」「嘘ですよね?」


 これには当然、マサトラとレナコも驚いた。その反応を見たサキュバスは笑みを浮かべ、ホワイトボードのトレイに置かれたペンを手に取った。


「いいですか」


 彼女は黒のペンでボードに大きな円を書いた。そのまま円を区切り、内部を斜線で塗りつぶしていく。ペンがボードで擦れる、キュ、キュ、キュ、という音が小気味よく、サキュバスは弾むような声でもう一度言い切った。


「95%です。私は長らくクレーマーを観察してきました。その上で言います。95%です」


「いやいやいやいや……」


「では聞きます。マサトラくん、悪魔の定義とはなんですか?」



「え? そりゃフツーに悪魔な見た目の奴らで……」


「なら人間に擬態した悪魔はいないと?」


「いや、いますけど……」


「レナコさんはわかりますか? 悪魔の定義とは?」


「悪を為すもの……と言えば単純すぎますかね?」


「……うーん、まぁ正解ということにしておきますか」


 サキュバスはわざともったいぶって言った。彼女は悪魔であったが、その定義など知るわけもなく、正解も■■もなかった。


「では次の質問です。マサトラくん、五分十分の遅刻で文句言ってくる依頼人はまともな人間だと思いますか?」


「や、んなことねーッスけど……」


「なら、料金が高すぎるとごねるのはどうですか?」


「ダメッスね」


「そこで考えてみてください。レナコさんは悪魔を悪を為すものと言いました。この場合、そんな依頼人たちは悪魔なのでは? 正義のエクソシストにクレームをつけるなんて悪魔じゃないとおかしくないですか?」


「あっ」


「依頼人は悪魔に被害を被っている、と嘘をついてる別の悪魔だという可能性だってあるんじゃないですか? 例えば敵対する悪魔を始末したい、とか?」


「いや、それはないです」

 レナコが口を挟んだ。

「それを防ぐために十字架があるんです! 悪魔は十字架の前では正体を隠しきれない」


「果たしてそうでしょうか? 強い悪魔には十字架なんて意味はない。知っているでしょう? その場合、人間と悪魔とを区別する手段はあるのでしょうか?」


「いや……」


 エクソシストたちに沈黙が訪れ、サキュバスはほくそ笑んだ。


 悪魔の証明という言葉がある。


 それは証明することが不可能な事象を悪魔に例えたものであるが、今回サキュバスが用いた論理もまた、悪魔の証明のようなものであった。もちろん彼女はそこまで意識して喋ったわけではないが、どこまでも人間を貶めたいという悪魔的気質が彼女を饒舌にさせていた。


 本題はここからだ、とサキュバスは長机に両手をついて身を乗り出し言った。


「たしかにさっきレナコさんが言ったとおり、相手の話を傾聴することは残り5%の人間を見分けるのに有用です。ですが……」


「ですが?」


「それが通用しない相手は悪魔ですから、速やかに倒さないといけない」


 マサトラとレナコのふたりは息を飲んだ。お互いに目を見合わせ黙り込んだ。


 異論はなかった。


 なにもかも無茶苦茶で、荒唐無稽ともいえる話であったが、ふたりとも納得していた。


 それほどまでに彼らはサキュバスに心酔していた。


 疲れてぼんやりしたマナトラの頭にサキュバスの甘い声が染み入っていた。過去の失敗を納得しきれぬレナコにとって、依頼人も悪魔かもしれないという説は自己を正当化するのにぴったりだった。加えてファーストキスの高揚感がふたりを開放的な気分にし、洗脳しやすい状況を作り出していた。


 サキュバスはそんな背景までは知るよしもなかったが、雑な放言が信じられた喜びに跳ね回りたい気分になった。


 マサトラのエネルギーは吸えないかもしれないが、ふたりにとびきりの呪いを残せてやった。将来、彼らに悪魔認定されて■されるかもしれないクレーマーのことを考えると、笑いを抑えることができなかった。この講義が終わったらふたりに会うことは二度とない。自分にクレームをつけようにもどうにもできない、その事実に脳がしびれた。


「なら」

 レナコが言った。

「私が出されたお茶を飲んだのにクレームをつけてきた依頼人も悪魔だったかもしれないってことですか? あのとき退治した悪魔より依頼人の方こそ凶悪な悪魔だったかもしれないと?」


「かも、ではありません。そうです」


「なるほど」


「なら」

 マサトラが言った。

「遅刻でキレたあのおっさんも、悪魔ってことッスよね?」


「そうです」


「マジかよ」


「マジです。それに……」


 調子に乗ったサキュバスがさらなる嘘を重ねようとしたとき、マサトラが言った。


「でも、なんで先生は悪魔のことそんなに詳しいんスか?」


「ひゃ?」と、サキュバスは素っ頓狂な声をあげた。


 それは、素朴な疑問であった。


 一般に悪魔は認知されていない。世間の重大な犯罪の多くに悪魔が関与しているが、国はその事実を公表することによる混乱を避けるため、表向きそのようなものは存在しないとしている。当然、一介のマナー講師が悪魔についてここまで詳しいわけがなく、これまでのサキュバスの発言はよく考えると不自然極まりなかった。それこそエクソシスト、もしくは国や警察の関係者でないとおかしく、そうでないなら必然的にミスターマナーは人間に化けた悪魔となってしまう。


 ヤバい、とサキュバスは慌てた。エクソシストたちのわずかに怪しむような目に、しどろもどろになりながら答えた。


「えーっと、あーあの、エクソシストの皆さんはお得意様ですからねー。こうやって長年レッスンをやってると、あなたたちの先輩が色々教えてくれるんですよ」


 ほんの一瞬、意味深な空白があった。まったくの嘘八百であった。


 だがすぐに、ふたりから「なら納得ッス」「なるほどですねー」などあっけらかんとした答えが返ってきたため、彼女は胸をなで下ろした。


 よかった。こいつらが■■で助かった。


 こうなるともう、いよいよサキュバスの独壇場であった。


 すっかり無敵の感を覚えた彼女は、「やっぱり傾聴・共感が大事なんだよねー」「95%、なんていっても95%ですからねー」などと何度も繰り返した。そして、


「マナー先生はすげぇなぁ」


 と瞳をキラキラ潤ませるマサトラの愛らしさに身悶えし、ペンを取りなにか書くふりをしてボードに向き直ると、こっそり舌舐めずりした。

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