第8話 口づけするときのマナー(思春期の男女編)

「嘘だろ?」「嘘でしょ?」


 レナコと思い切り声が被って、マサトラは椅子から転げ落ちそうになった。


 マサトラとレナコの視線が一瞬だけ交錯し、お互いにそれた。気まずい時間が流れた。冷房がガンガンに効いた会議室は涼しかったがカビ臭く、ほのかに汗の匂いが交じっていた。


「わ、私が、マサトラと!?」


「そうです」


「レ、レナコが、お、俺と!?」


「そうです」


「頬に、ですよね?」


「唇です」


「マジっスか!?」


「マジです」


「ありえない!」「うえぇぇっっ!」


 ふたりは同時に立ち上がった。勢い余って倒れた椅子が大きな音を立てた。


 レナコが口元を覆い「嫌嫌ぜったいに嫌!」と大声でわめいた。マサトラは、よりにもよってレナコとかよ、と思ってサキュバスに顔を向けた。だけどサキュバスの赤い目はマジで、彼は初めてそのピンク髪に縁取られた顔が怖くなった。心臓がぶるぶると波打っていた。


 ひとり座ったままのサキュバスはマサトラを無視し、レナコを見据え言った。


「文句があるなら帰ってください」

 きっぱりと、断言するかのような口調だった。

「講義を受けるつもりなら、マサトラくんとキスしてください」


 レナコは絶句した。


 彼女は驚きと怒りが混ざり合ったような顔をして、涙をためた上目遣いでなにか言いかけ顔を伏せた。サキュバスは脚を組み替え、これ以上の反論は受けつけないという目で彼女をじっと見つめていた。


 マサトラはそんなふたりの間でキョロキョロすることしかできなかった。どうすることもできなかった。こんな状況なのに、男子高校生の眼球は彼女たちの胸の谷間を注視していた。サキュバスはともかく、今のレナコもなかなかにエロかった。


 レナコは歯を食いしばり押し黙っていたが、しばらくして意を決したように喋り始めた。


「マナーは国や民族、文化や宗教、時代によっても異なります。ある国での美徳が他の国では不快に思われることもあるでしょう。相手の立場にたつことが重要で、その上で臨機応変かつ柔軟に対応していく必要がある、ですよね」


 は? マサトラは耳を疑った。レナコの発言がキスに肯定的なように思われたからである。


 レナコは付け加える。

「マ、マサトラとキスするのも、より良いマナーを身につけるため必要だというのなら……」


「いやちょい待てや!」

 マサトラは思わず声を上げた。


 マジでやんの? と彼は手を振り拒絶の意思を示しながらわめき立てる。


「お、俺は、お前となんてキスしたくねーし」


「でも――」


「でもじゃねーし! だっておかしくね? 嫌々キスとかそれこそマナー違反じゃねーの?」


 グイグイ接近してくるレナコに対し、マサトラはとっさにそう答えたが、言ってから思った。


 あれ? 別に嫌ってわけでもなくない?


 正直、レナコのことは嫌いだ。うるさいししつこいしすぐキレるしすぐ泣くし、マジでうっとうしい。でも、キスをしたくないかといえば……嘘になる。


 さっきマナー先生としたキスは最高だった。そりゃがっつり筋トレで追い込んだ後みたく足がフラフラで、喉は乾いてカラカラで、唇の表面がビリビリしてる。だけど、キスがあんなに気持ちいいとは思わなかった。


 今ちょっと思い出すだけでもマサトラの胸はカッカして、頬が熱くなる。早く家に帰って■■■■したくなる。


 あれがもう一回できるのか、と思ってマサトラはレナコを改めて見た。


 今一度、レナコと目が合って息が詰まった。


 目つきこそきついが、黒目がちで大きな瞳がそこにあった。品の良い鼻の下で薄い唇がふるふると震えていた。二つの乳房がその谷間に滑らかな陰を作っていた。


 それだけじゃない。


 丸みを帯びた肩。しなやかで細い腕。すらりと伸びた太ももと暗色のスカートやソックスとのコントラストが綺麗で、エロかった。


 こうして見ると、レナコは意外に可愛いかった。意外というか普通に。あくまで黙っていたら、だけど。


 そんな感じで目だけうろつかせるマサトラに、レナコはムスッとした口調で言った。


「つか、さっきからなにその目、そんなに嫌ならあんたが帰りなさいよ!」


「あん?」


 うわ、やっぱ無理、とマサトラは思った。こいつが黙るわけがなかった。


「おう、じゃあ帰るわ!」


 どう考えてもこいつとだけは無理だわ、とマサトラがレナコに背を向けた瞬間、


「あ、それはダメです!」


 サキュバスが彼を引き止めた。


「レナコさんはいいけど、マサトラくんはダメです!」


「え? だって――」

 振り返り答えようとしたマサトラの言葉をレナコが遮った。

「なんでですか? やる気のない人間は帰ったほうがいいと言ったのは先生では?」


 つかみがからんばかりのレナコに、サキュバスは口ごもる。


「それは……」


「それは?」


「それは、えーっと……」


「なぜなんですか?」


「あのぉ、俺はもぅ」

 甲高いレナコの声をこれ以上聞いてはいられないと、マサトラは構わず出口に向かう。


「いやマサトラくん待って、とりあえず待って話聞いて!」


「んなこと言われても」


「いやね。帰らなかったらいいこと。いいことがあるから!」


「いいこと?」


「そう、いいこと。講義受けてくれたら、キスなんかより、もっとすごいマナー教えてあげるから!」


「え?」「え?」


 またもやマサトラとレナコの声が被った。なぜかサキュバスまでもが唖然としていた。


「マジ!? キスよりすごいことっスか!?」


「そう。そうすごいから。だ、だからマサトラくんは帰らないほうがいいです」


「ほぉー」


 もっとすごいってヤバくないか!? 


 と、マサトラは期待ではち切れそうになった。


 キスよりもっとすごいって、アレ……だよな。アレしかねーよな? ■■■■。あ、いや、■■■とか? それとも……


 レナコも目を輝かせ言った。


「ってことは、キスをすれば本格的なマナーを教えてもらえるってことですね?」


「えっ? えーっと、まぁそれはまぁ、そうですかね?」


 サキュバスはやってしまった的な顔をしたが、■■のふたりはそれを察することなく盛り上がり始める。


「なら、さっさとやりましょ」


「は? お前なんで上からなんだよ?」


「私がキスしてあげるって言ってんだから、黙ってて!」


「ちょ、いきなり来んな」


「は? 勝手に動かないでよ」


「動かないでよ、ってまだ心の準備が!」


 手のひらを返したかのようにやる気になったレナコに対し、マサトラは急に不安を覚えた。


 ここに来る前、フィデリオから景気づけにと内緒でラーメンをおごってもらったことを思い出し、自分の口がニンニク臭いのではないかと思ったからである。


 ■■、歯を磨いてくればよかった。


 飯を食うたび歯を磨くクラスメイトの気持ちが初めてわかって、マサトラは悔いた。


 もしかして、歯だけじゃなくて、舌も磨かないといけないのか?


 わからない。


 戸惑うマサトラに、恥じらいに染まったレナコの顔、つやつやの唇が接近する。


 わからないわからないわからない。


 マサトラにはキスの正しいやり方なんてわからなかった。先のサキュバスとしたキスが彼にとってのファーストキスであった。


 つかこれ、二回目やったらどうなんだろ? マサトラはきゅっと体を硬直させる。気失ってぶっ倒れたらどうしよう。むっちゃ恥ずかしくね? だって俺は童貞じゃないって設定なわけじゃん。キス百回くらいしている設定なわけじゃん。今決めたけど。


 レナコは決■の表情でマサトラに迫る。


 黒く丸い瞳の上で長いまつ毛が揺れている。険しい眼光は今からキスする女子とは思えなかったが、それでもなお可愛かった。


 いまさら逃げられず、マサトラは腰の脇で両手をぐっと握りレナコを見返す。


 ヤバい、ヤバいってこれ。レナコに童貞バレバレのキスしたら終わる。実は興奮してるってバレても最悪だ。一生イジられ続ける。


 落ち着け、とマサトラは自分に言い聞かせる。言い聞かせるが、レナコが近づけば近づくほど、反対に鼻息が荒くなってくる。体が火照って、歯はガチガチと鳴って、目を閉じたくてたまらなくなる。


 唇と唇まで残り十センチ。


 覚悟を決めたのか、レナコがキッとまぶたを閉じる。


 九センチ、八センチ、七センチ。


 もうすぐだ。


 マサトラも薄目になって、そのときを待つ。


 六センチ、七センチ、六センチ。ためらいがちに唇が揺れる。


 七センチ、六センチ、七センチ。皮膚に温かく湿ったレナコの鼻息がかかる。


 七センチ、八センチ、九センチ。血液が沸騰しているかのごとく体が熱い。


 九センチ、八センチ。


 って。


 おい早くしろ!


 マサトラは叫びそうになった。


 そういうのなしだろ、と脈が乱れ、その鼓動がレナコに伝わるんじゃないかと慌てた。


 けれど、


 八センチ、七センチ、八センチ。レナコの唇は宙ぶらりんな前後運動を繰り返す。


 だから焦らすなって! こんなん、いつ落ちるかわからんジェットコースターみたいで逆に怖いっつーの。つかダメダメ、これ一回仕切り直したほうが絶対いいって、さすがにちょっとヤバイって、と言いそうになったところで、


 ん? とマサトラは気づいた。


 あ、よく考えたら、キスって男からするもんじゃね? 


 ふっくらした唇はやはり十センチほど離れて停滞していた。


 うっわヤバ。これ童貞バレするやつじゃん。俺からいかないとダメなやつじゃん。ヤバ。


 いや、


 だけど、うーん。あーでも、意外に? 最近はそういう感じでもないのかもね? だってさっき先生からしてきたわけじゃん? むしろ男からいくのは男尊女卑的ってゆーの? って、マナー先生が欧米的なだけ? ■■、わからん。わからんわからんわからんわからん。


 マサトラは悩んだ。悩んでいる間にもう一度レナコから来てくれないかと期待したが、そうはならなかった。


 うぅー。やっぱ俺から行くべきだよな。そっちのほうが絶対童貞っぽくねーし。それにこう、なんていうのこう、マナー的にそれっぽい? って、マナーってなんだよ。俺はマナーなんてどうでもいいのに!


 いつしか数十秒が経過していた。


 さすがにレナコも待ちくたびれたのか、マサトラと同じように薄目を開けて、刃物のような眼差しが見え隠れしていた。


 あーこれ向こうから来る?


 さらに十秒。


 お、来るか? 来るか? 来んのか来んのか?


 ……って、来うへんのかーい!


 埒が明かなかった。頭が血が逆流して破裂しそうだった。


 これは新手の拷問か? とマサトラは思った。もう行こう。俺から行って終わらせよ。


 ひたすらそのときを待ち続けるより、自ら行ったほうが怖くない、と彼は半ば諦めにも近い覚悟を決めた。そして、


「……つっっ!」


 もうどうにでもなれ、と、マサトラは両手を伸ばしレナコを強く引き寄せ抱きしめると、鼻がぶつかる勢いでその唇に吸い付いた。

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