第6話 先生から「帰れ」と言われたときのマナー
なんなのこの人?
ひどく咳き込んだあと、へろへろになってよろめいているサキュバスを見て、レナコは言いようのない恐怖を覚えていた。
サキュバスからなぜか禍々しい■気を感じたからであった。
それはサキュバスがファイティングポーズをしているからではなかった。そもそもサキュバスはまともな構えを取れておらず、顔を伏し震える姿はファイティングポーズというより立ち上がったアリクイみたいだったが、レナコはもっと本質を捉えていた。彼女のエクソシスト的嗅覚はサキュバスの悪意を読み取って、その周囲にネガティブなオーラが黒く渦巻くビジョンを見せていた。
それに、あれだけ攻撃的だったマサトラがすっかり牙を抜かれているのも怖かった。
今の彼はサキュバスの隣で脱力し両膝ついていた。呼吸は浅く、瞳はとろんとしてどこにも焦点を結んでいないように思われた。
こんなことがありえるのだろうか? とレナコは思った。
それこそ悪魔的というか、なんらかの魔術が行使されたのでは? と思った。
彼女の推測は当たっていた。事実、目の前でミスターマナーを名乗っているものの正体は
だが、レナコはあまりにも世間を知らなかった。
ほどなく彼女は、でも、キスってやっぱこういうものなのかな? と思った。キスとは腰を抜かし息を荒げるほどに体力を使うものだと解釈した。それならミスターマナーに多少の■気が生じてもおかしくないだろうと勝手に納得し言った。
「お、欧米のことは知りませんが、ここは日本です。いきなり、く、くく、唇にキスだなんて、ちょっとおかしいんじゃないですか?」
レナコはキスそのもののインパクトに圧倒されていた。たしかにいきなりキスはおかしかったが、もっと他にツッコむべきところがあった。サキュバスが目を閉じているところだとか、その原因がレナコの胸ポケットの十字架を視認してしまったからだとか、そういう核心的な部分に目を向けるべきだった。レナコ自身ほんの数十秒前までは、マナー講師のくせにピンクなんて髪色ありえない、香水やネイルも非常識、ノーブラなんて論外だ、など比較的まともな疑問を抱いていたのであるが、そんな些末なことは吹き飛んでいた。それほどまでに初めて間近にしたキスのインパクトはすごかった。
しかも、
「それに、私はそこのバカとは違うんです。キ、キスなんて基本的なことじゃなくて、もっと高度なことを教えてください!」
レナコは世間知らずなだけでなく、むちゃくちゃにプライドが高かった。
彼女はキスという未知なる行為に直面するのを避けるため、キスのことはよく知っているがマナー上級者の自分には平易すぎるというロジックを用いた。キスに狼狽している自分、キスを知らぬ自分をミスターマナーに悟られたくないという思いゆえ、キスという基本でお茶を濁さないで欲しい、私にはもっと高度なマナー、例えば炎上させないSNSの管理の仕方だとか、ロブスターを綺麗に食べる方法だとか、現時点における■oomでの最適な振る舞いかたなど教えてほしいと言い換えた。
「ミスターマナーさんの講座がこんなだとは知りませんでした。説明次第では帰らさせていただきますよ!」
レナコが早口で一気に言うと、沈黙が流れた。
当然であった。
サキュバスは依然としてレナコの胸ポケットのエンブレムに怯えていたし、マサトラは意識こそ失ってはいないものの、とろとろに放心していたからである。
レナコはそんなふたりを見て、やはりキスは恐ろしいものだと思った。
■■であった。そして■■ゆえに、この沈黙はキスの反動から立ち直るために必要な時間なんだと考え、じっとふたりの回復を待つことにした。
誰も、何も言わなかった。
そもそも、なぜレナコはマナー講座を受けに来たのであろうか。
先にマサトラが言ったように、またレナコ自身も述べたように、彼女にはマナーの素養がある。高名なエクソシスト家系である一条家の子女として丁重に育てられた彼女は、常識的なマナーを備えていた。本来ならばマナー講座など受講する必要はないのであるが、彼女がここに来たのはひとえにその真面目すぎる性格ゆえであった。
四月の終わり頃である。フィデリオ監督の下、レナコが悪魔討伐の初研修に出かけた際、彼女は依頼人である悪魔被害者からマナーがなっていないと散々ケチをつけられた。敷居の跨ぎ方、出された茶の飲み方、身だしなみ、言葉遣い、なにより悪魔の倒し方に文句を言われた。彼女は都度その場で謝罪したが、その謝罪にも誠意がこもっていなかったと、後日フィデリオを介しさらなるクレームが届けられた。
箱入り娘として育てられた彼女はショックを受けた。厳しくしつけられてこそいたものの、そんな目にあったことなどなかったからだ。
実際のところは、予想外に高額な除霊費用に立腹した依頼人が、八つ当たりとして立場の低いレナコにきつく当たっただけであったが、そんな真実など知るよしもなく、彼女は萎縮するばかりであった。そうして一通り落胆したあと、生真面目な彼女は奮起した。あまり気にするなと言うフィデリオの声も耳に入らず、クレーム対応を充実させたいという思いから、クレーム対処マニュアルや接遇の参考書などを買い込み、ビジネスマナーやメールの気配り、報連相やアンガーマネジメント、リフレーミングなど勉強しまくった。
それだけでなく、フィデリオが素行不良のマサトラをミスターマナーのプライベートレッスンに受講させるとを聞きつけると、自身も参加させるよう頼み込んだ。
フィデリオは別にいいのではないか、という返答だったが、レナコが強くせがむと折れた。レナコは勉強したアサーションスキルが役に立ったと解釈したが、これもフィデリオがセレブの令嬢相手に面倒を被りたくなかったからであった。
要するにレナコは、真面目なだけでなくプライドも高いウブな■■であった。単純な■■であるマサトラよりも心性がねじ曲がっている分、マサトラ以上にたちが悪かった。
沈黙は続いていた。
サキュバスは当初こそレナコの申し出に驚いた様子であったが、以後は頭を垂れたままなにやら考え込んでいるようだった。一方、マサトラはまるで変わらない。押し黙り視線を宙に漂わせ続けていた。
「な、なんで黙ってるんですか?」
耐えきれず、レナコは言った。
「どうして目を合わせないんですか? あの、本当に帰りますよ? ねぇ聞いてます?」
彼女が詰め寄ると、サキュバスはかすかな笑みを浮かべ、ほとんど聞き取れないほどの小声で言った。
「……なら仕方ないですね。そこまで言うのなら、レナコさんは帰ってもいいですよ」
「え?」
レナコは肩をビクッと震わせた。
帰ってもいいですよ、だって!?
やられた、と思った。よく考えれば露骨すぎた。最初からすべてがおかしかった。
卑猥なまでに乱れた服装、初対面の人間に童貞かと尋ねる態度、その上キスと、彼女の言動は明らかに常軌を逸していた。ミスターマナーたる人間がこんな振る舞いをするだろうか。否、彼女はわざと無作法に振る舞い、私の出方を試していたのだ。
舐めていた。部屋に入ったとき、いやもっと前から講義は始まっていたのだ。
レナコはこの前読んだ本の内容を思い出して赤面する。
以下のような逸話がある。
十九世紀、イギリスのヴィクトリア女王がとある晩餐会に出席した際、来客のひとりがフィンガーボウルの使い道を知らず、中の水を飲んでしまう。それを見た女王は客に恥をかかせぬようにと、同じく水を飲んだという。
この話から得るべき教訓は、場の空気を読むということ。フィンガーボウルが指を洗うものであると指摘して嘲笑うのではなく、相手が楽しく過ごせるように配慮すること。
マナーの基本は相手の立場にたつことだ。
本来マナーとは、他者を思いやる気持ちを形式化したものである。絶対遵守の法律ではないのだから、相手が置かれた状況に気を配り、臨機応変に対応する必要がある。
それなのに私は、私は……
吐き気がして、すうっと身体が冷たくなっていく感じがした。
「あ、あの……」
レナコはよろけてデスクに手をついた。サキュバスは目を閉じたままで、そんなレナコを見ようとすらしなかった。
「すみません!」
レナコはいそいそと上着を脱いで小脇に抱えると、深々と頭を下げた。
相手の立場にたって考える、というのなら、相手と目線を合わせるのも基本中の基本。
先のマサトラの態度はたしかに最低だった。最低だったが、ミスターマナーはそれを指摘しなかった。むしろマサトラが暑いとジャケットを脱いだとき、彼女もまたジャケットを脱いで彼と目線を合わせた。これぞマナー。これぞ思いやり。
「本当に申し訳ございませんでした!」
レナコは深謝する。
エクソシストといえど立派なサービス業だ。私たちは、ときに無礼な依頼人とも対峙しなければならない。相手の都合に合わせなきゃいけない。そんなことわかっていたのに。いっぱい勉強したのに。だからこそ先生に泣きついたのに。だからこそここに来たのに!
「すべて、すべて私が間違っていました! 本当に本当に申し訳ございませんでした!」
喉がこわばり、涙がこみ上げてきた。
サキュバスはなにも答えなかった。ただレナコがブレザーを脱いだらしいことに気づき、おずおずと薄目を開けた。
「せ、先生は私を試していたんですね?」
レナコは頭を下げ続ける。
沈黙。それが怖く、さらに言葉を重ねる。
「最初からレクチャーは始まっていたんですね?」
やはり返事はなかったが、ここで引き下がる訳にはいかないとレナコは思った。ミスターマナーの「帰れ」も、きっと私を試しているのだ。そう言われたときどうするか、私の力量を探っているのだ。間違いない。
胃の中身が喉元までせり上がってくるが、彼女はぐっとこらえそれを押し戻す。酸っぱい感覚に喉が焼けた。
逃げたい。
だけど、ここで帰ったら私の負けだ。マナーの落第者だ。マサトラ以下だ。それだけはいやだ。レナコは耐える。しかし、あまりにも長過ぎる静寂に“退学”という文字が頭をよぎる。太腿の裏が攣りそうになる。吐き気ももはや限界で、ついにレナコは頭を上げた。
すぐそばでサキュバスが目を見開き立っていた。その瞳は嘘みたいに赤く、レナコはいよいよ泣き出した。
「か、帰りましぇんっ!」
渋い顔をしたサキュバスが口を開きかけたのを見て、レナコは慌てて土下座した。
「すびばぜん無理ですがえれまへんっ!」
彼女は震える唇を噛み締め、腹に力を込めて、畳みかける。
「お気を悪くさせだごとは謝罪しまふ」
額をカーペットに押し付け擦り付けた。涙は止まらず、鼻の奥がツーンと痛んだ。
レナコは本当に■■であった。
「ごの通りでふっ!」
そして■■ゆえに、帰れと言われた際の最適解を、この場にもっともふさわしいであろう回答を彼女は絶叫した。
「きょ、今日ば、絶対に最高のマナーを吸収しで帰りだいと考えでるんでふっ。だから帰れまへんっ。もぶ少じだけっ、もぶ少じだけ頑張らせてくらさいっ!!」
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