第5話 口づけするときのマナー

「ま、間違えました!」


 サキュバスは両手をわちゃつかせながら弁解した。


「えーっと、■■■■したいってゆうのは、あのこうマナー的にダメな例っつーか、ほらこうあれじゃん? あ、じゃんじゃなくて、じゃないですか。ね? ほら。だ、だから。だからですね?」


 若いオスの臭いにやられ、つい本音が出てしまったと、彼女は後悔した。


 マサトラが目を細め、冷ややかな視線を向けていた。その目つきの悪さだとか、十代の少年の肌のハリだとか、右手に持ったブレザーから漂ってくる汗の香りだとかに今だって気を取られてしまうが、我慢するしかない。我慢しないと■されてしまう。


「別にその変な意味? じゃないのです!」


 しかしマサトラは十字を切るだとか、聖書を取り出し祈りを唱えるだとかいったアクションを起こしてはこなかった。金に染めて逆立てた髪、一方で細く整えられた眉毛は黒。タマゴ顔の中央にふたつ並んだ鋭い瞳に、痴女って思われてるかもだけど、悪魔とは思われてないんじゃないかしら、とサキュバスは思った。なら別に余裕じゃん。


「いやだからですねーあはは……」


 少し安心したサキュバスは曖昧に笑って言葉を濁しながら、そんなマサトラをもう一度まじまじと眺めてみる。


 十字架エンブレムのブレザーを脱いでくれたのはありがたかった。黄色いタンクトップのボディラインは引き締まった体幹を強調し、そのネックと脇からは健康的な肌が露出していた。


 その二の腕の筋肉の発達具合に少年から青年に変わろうとしている繊細さを読み取って、サキュバスは内心舌なめずりした。


 彼女はこういうイキった少年の精気が抜群に美味いことを知っていた。


 男の性的エネルギーの美味さはいわゆる男性ホルモン、テストステロンの血中濃度のみで決まるものではない。年齢に体型、血糖値に電解質、その他ホルモンバランス、アルコールや薬物摂取の有無、恋をしているかどうか、射精してからの時間なども絡んでくる。いわば対象の心身含めた健康状態、トータルの生命力そのものが味となる。もちろん対象の見た目であるとか、日時場所、空腹具合などシチュエーションも影響してくる複雑なものだ。


 だからこそ、サキュバスは悩んだ。


 うわぁ、むっちゃ食いたいこの子。絶対美味いって。


 マサトラは顔こそタイプではなかったが、同年代男子と比べたら低めであろう身長がとてもキュートだった。他にもジト目じみた三白眼、汗のかき具合なども愛おしく、端的な言葉で表すとエロく、サキュバスの経験上、これは絶対満足できるという確信があった。


 意識すると下腹部あたりがムズムズして、急に体が火照ってきた。着慣れぬスーツは上も下も汗だくで、男たちはよくこんなもん着て仕事してんな、と彼女は心から同情した。


 ちょっとだけ。ちょっとだけなら大丈夫だよね?


 この場は適当なことを言って逃げるのがベストだと、サキュバスにもわかっていた。けれど、本物のミスターマナーをしゃぶりつくせなかったこと、十字架から解放された高揚感と生来の楽観性、さらには憎きエクソシストの精気を吸うというスリルが彼女を大胆にした。マサトラのタンクトップ中央にプリントされたドクロのマークも心強く感じた。


「たしかにあっつい、ですね……」


 サキュバスは心のうちを悟られぬよう壁際に向かい、リモコンを操作して、暖房で入っていたエアコンを冷房に切り替えた。続いてジャケットを脱ぎ、マサトラの上着ごと無造作に部屋の隅へと放り投げた。


「えっ? ちょっ……」


 マサトラが目を丸くした。


 汗を吸ったシャツがサキュバスの素肌にべっとりと張り付いていた。


 サキュバスが左手で顔を扇ぎながら、右手で上から三つ目のボタンを外すと、胸の谷間がいっそう顕になった。薄いシャツ地にこれでもかと乳首が浮かび上がっていた。


 ガン見してくるマサトラに対し、サキュバスはそれがどうしたと微笑み返す。むしろ体をよじって乳房を揺さぶり強調しながら、ハァハァと上気した体を装いつつ彼に接近した。


 完全に痴女であった。


 だがマサトラにハニートラップなる概念はないのだろう、口を半開きにして、うっわエッロ的な表情をするものだから、サキュバスはますます興奮する。


 この子マジで可愛い。むちゃくちゃにしたい。


 キラキラと輝く彼の瞳に、男はこうあるべきだと彼女は思う。さっきの薄ネクタイみたいな頭でっかち■■■■■■どもの、手で顔を覆うけどそのくせ隙間からジロジロ見るような目つきと違う、純粋な興味がそこにはあった。


 彼女はマサトラが唾を飲み込む喉仏の動きに男を見た。唇に吸い付いて、キュッと一気に吸い上げたらどうなるだろうという期待感が背筋をぞくりと走っていった。 


 彼女は細い指先で自分の胸元を指差し言った。


「気になるの?」


「べ、別に」


「H」


「え?」


「Hカップ」


「へ、へぇ……」


 マサトラは先の尊大な態度はどこへやら、どぎまぎし、サキュバスの嗜虐心を煽ってくる。あまり調子に乗るとまずいという気持ちがあっても、サキュバスは自分を抑えられなくなる。


「ねぇ君、童貞?」


「え? は、ち、ちげーし!」


「へぇ。じゃあ、キスしたことあるよね?」


「も、もちろん。あ、あるしっ」


「じゃ。今から私とキスしない? 欧米ではキスはあいさつ。マナーの基本」


 言うがいなや、サキュバスはマサトラに思いきり抱きついた。若干の抵抗があるも、薄い布越しにおっぱいを筋肉質な胸板に押し付けるとすぐに止まる。ふたりの身長は同じくらい。こわばった肩に手を回し顔を近づけると、顔と顔、唇と唇まで十センチあまりで、一歩間違えば■ぬかもしれないというスリルに彼女の心臓は破裂しそうだった。


「い、あ、あの、その……」


 マサトラの目が嘘みたいに泳いでいた。


 耳の先まで真っ赤だった。薄い少年の唇は艷やかに輝いていて、今吸えばたぶん濃厚な血の味がして最高だろう。


「……い、いいんスか?」


 マサトラがついに敬語を使ったところにグッときて、もう辛抱たまらなかった。


「うん」


 そして、サキュバスはマサトラの唇を奪った。


「う……んっ……」


 その唇は熱かった。


 しかも尋常でなく美味かった。穴間のそれとは比べ物にならなかった。


 クリーミーでコクのある生命力の塊のようなもの、まさしく生そのものが腹の中へと流れ込んできて、サキュバスは狂喜した。


 ずーん、とめまいにも似た浮動感を覚え、胸のもやもやが溶けていく。あまり吸いすぎると■してしまうからちょっとだけ、などいう考えもあっけなく霧散して、目を閉じた彼女のまぶたの裏に燃え盛る炎のイメージが浮かびあがる。


 赤く輝く炎の上で、串に刺さった大きな松茸が焼かれている。水分の多い松茸は焦げ付き膨張し、やがて弾けて白い飛沫を飛ばす。その一粒一粒に、太陽フレアほどのエネルギーが詰まっていて……


 マサトラが喉だけで苦悶の声を上げたのがわかる。


 その必■に我慢している様子がさらなる歓心を誘い、サキュバスが小さくキュッと引き締まった尻に手を回すと、マサトラの全身が弛緩する。それでも吸った。吸い足りなかった。


 彼女はこれまでエクソシストの精気を吸ったことがなかった。


 対象の総合的なステータスが生命エネルギーであれば、エクソシストが持つ膨大な魔力もまた精気へと変換され美味さに直結するということは考えてみれば当然であった。だが、こんな機会でもなければ天敵の精気を吸うことはなく、サキュバスはこの味を知らず生きてきたことを悔いた。これを吸うともう戻れないと思った。


 ここにきて冷房に切り替わったのだろう。頭上から冷風が吹いてきた。背中から汗が気化していく感覚を覚え心地がよかった。


 あぁ、愛しいマサトラくん。お姉さんが骨と皮になるまでしゃぶり尽くしてあげるからね。■■■して、■■■■して、■■■させてあげるからね。


 もっともっともっともっと、とサキュバスが固く尖らせた舌を鋭く差し込んだところで突然、


「あの先生、いい加減にしてもらえませんか?」


 少女の声がふたりの甘い時間を中断した。


 見ると、レナコがふたりのそばに立っていた。


「うわ」


 その胸元にある十字架に、サキュバスは再びまぶたを閉じて、マサトラから舌を抜きむせた。


 こいつがいるの忘れていた。


「こ、こんなのがマナーだなんて思えないんですけど!」


 しゃがみこみ激しく咳き込むサキュバスにレナコは言った。


「こんなの困ります!」


 きんきんと、彼女の声が引き攣るまぶたの奥で反響する。角度的に直視こそ免れたものの、十字架がある以上、もう気楽に目を開けるわけにはいかなかった。


「絶対間違ってます!」


 身動き取れぬ闇の中、レナコが一気に距離を詰めてくる。


 まさかバレた!?


 サキュバスがそんな不安を覚えたとき、


「うっ、あぁっ……」彼女の手から離れたマサトラが腰を抜かす。


 大丈夫だ。


 サキュバスは自分に言い聞かす。


 マサトラの精気すなわち魔力はほとんど吸った。つまり今の彼は魔法などろくに使えず、逆にエナジードレインした分だけ私は強くなっているわけで、レナコとかいうエクソシストもたかが女子ひとり。いざとなったら変身して、ゴリ押しすればなんとかなる。


 来るなら来い、と彼女は闘志を奮い立たせる。盲目のままファイティングポーズで身構える。


 一秒、二秒、三秒。


 時間が過ぎていく。息を吸って、大きく吐く。サキュバスの顎先からこぼれ落ちた汗の粒が、胸の谷間へと消えていく。


 四秒、五秒、六秒。


 しかし、レナコは襲ってはこなかった。そのかわり、彼女は強い口調でこう言った。


「わ、私は、もっと高度なマナーを教わりに来たんです! キ、キスだとかっ、そんなことで貴重な時間を使わないでもらえますか!?」

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