第3話 多様化する性に対しての敬称マナー
「日本エクソシスト高校なんですけどー」
扉の向こうからのそんな声に、サキュバスは慌てて穴間から舌を引き抜いた。ちょうど意識を失った彼の唇から唾液の糸が伸びて、垂れ下がり切れた。
エクソシスト――若い男が発したその言葉に耳を疑ったが、間違えるわけもなかった。それが廊下にいることを考えただけで、頭を強く殴られたかのようにくらくらした。
サキュバスは声のほうへ目をやり口を開いた。
「ちょ、ちょっと……」
と言いかけて、自分の声が尋常でなく震えていることに気づき、
「ちょっと待って!」と改めて声を張り上げ言い直す。
大丈夫、絶対大丈夫だって。
そう自分に言い聞かす。サキュバスは穴間がドアに鍵をかけたのを覚えていた。鍵がかかっているかぎり、エクソシストは部屋に入れない。その隙に窓から逃げればいいのだ。
サキュバスはつかんだままだった穴間の頭を離すと、勢いよく立ち上がった。羽根が椅子にぶつかり音を立て、彼女は小さな悲鳴をあげた。
「大丈夫ですかー?」
「だ、大丈夫。でーす!」
大丈夫ではなかった。
突然、カーペットにうつ伏せとなった穴間の下半身がビクビクッと痙攣し、サキュバスは腰を抜かしそうになった。彼は気を失っているが、■んではいなかった。サキュバスは彼の精気を十分には吸いきれず、穴間はいつまた目を覚ましてもおかしくなかった。
とにかく逃げなきゃ。
そう思って、サキュバスは部屋を見渡した。
え?
逃げ場はなかった。
何度見ても、彼女の前には散らかった机と椅子。後ろには倒れたホワイトボードにパーティション。そのさらに後ろにはいくつかのダンボールと壁しかない。てっきり窓があるつもりでいたが、広い部屋に窓は一つもなく、出入り口も正面のドアしかなかった。
「おいまだかよ!」
そのドアの外から、先とは違う男の声がする。声は荒々しく、前の男よりなお若い。
「ちょっとマサトラ、声大きいって!」
加えてもうひとり、同じく若い女の声がして、
「だ、だから! ちょ、ちょっと待って!」
サキュバスの頭は真っ白になった。穴間の精気を吸うことで空腹は改善していたが、そのエネルギーは脳内で空回りし無為に消費されていった。
「本当に大丈夫ですか?」男の声。
「いつまで待たせんだ」と言う別の男の声とともに、ドアノブがガチャガチャと回される。
「もう二分、いや三分だけ待って!」
サキュバスはほとんど悲鳴のような声を上げた。
どうすれば……ってこんな姿、エクソシストに見られたら秒で■される!
ここにきてやっとそう思い至って、彼女はひとまず人間の姿に戻った。全裸もまずいと、カーペットに落ちていた紐パンをひっつかみ腰に巻きつけて、ドレスに手を伸ばしたところで、とある疑念が湧いてきた。
今、私は三分だけ待ってとエクソシストどもに言ったけれど、それは三分後私が奴らを応対するってことだよね。それって要はここで伸びてるこいつのふりをするってことで、まぁもうそれしか手はないんだけど、ミスターマナーなのにドレスっていうのはどうなんだ? だってミスターって男じゃない? でも私は女なわけで……
サキュバスは自分の軽はずみな言動を恨んだ。
正直下手に反応せず、居留守を使うのが最適解だったと今になって気づいたが、またしてもノブが回され男がわめき、こうなったらもうやるしかなかった。
サキュバスは深く息を吸い込むと、ドアと穴間との間で視線を往復させて、覚悟を決めた。
「もうちょっと! もうちょっとで行く、いや、行きまーす!」
この場合、参りますや伺いますの方が適切だろうが、サキュバスは彼女なりの言葉遣いで答えると、ドレスを丸めハンドバッグに突っ込んだ。続いて穴間のシャツの後ろ襟に手を入れて、手探りでネックレスのチェーンを取り外す。彼女は硬く目をつぶってそれをつかむと、ドレスと同じくハンドバッグの奥へと無造作にねじ込んだ。
こわごわと目を開き安全を確認すると、彼女は穴間のシャツを脱がし始める。シャツの次は革靴を脱がし、ベルトを外し、スラックスも引っこ抜く。反動で両足が激しく床に叩きつけられ、目を覚ますんじゃないかとドキリとするが、そんなことは起こらない。黒いボクサーパンツに同色の靴下だけの姿になった穴間はいびきをかいて昏睡したままだった。
サキュバスはほっとしたが、時間がなかった。
彼女は近くに転がっていたガムテープで穴間の手足と口とをぐるぐるに巻いた。次いで立ち上がり、倒れたホワイトボードを元に戻す。傾いたパーティションは裏から持ち上げ平衡を保たせる。これには相当なパワーが必要で、力むと背中から再び羽根が生えた。
パーティションの向こう側ではタオルやハンコなどが床一面に散らばっていた。サキュバスはそれらが入っていたであろう空のダンボールを一つ反対側へと持ち出すと、拘束された穴間の身体を折りたたみ、中へと押し込み蓋をした。念入りに封をしていると、重ねて催促。適当に答え、彼女は箱をパーティションの裏へと押し込んだ。
これでちょうど二分ほど。
思わぬ重労働で羽根の後ろに汗が滲んだが、まだ最後の仕上げが残っている。
彼女はいそいそと羽根を体内に収納すると、穴間が着ていたシャツを手にとった。
袖を通すとかなりデカいが、ボタンを引きちぎったせいもあって豊満な胸が飛び出しそうになる。生地を寄せてしのぎきり、スラックスを穿いてベルトを締める。ヒップとウエストのバランスも不自然だったが、ジャケットでごまかした。長過ぎる袖はシャツごと腕まくりするも、革靴だけはさすがに無理で、元のヒールのままにした。
今の自分は、相当ちぐはぐに違いない。
だけど、
ま、いけんじゃない、とサキュバスは思った。彼女はもともと楽観的な悪魔だった。
「いけるっしょ。大丈夫っしょ」
などとあえて口に出してつぶやきながら、彼女はドアの前へと移動する。
「お待たせしましたー」
汗ばむ指先でサムターンを回し、ドアを開けた瞬間、
「あ」
サキュバスは反射的に目を閉じ顔を伏した。
しかしその一瞬で、決定的な映像が彼女の網膜に焼き付いてしまっていた。
「はじめまして。私、日本エクソシスト高校のフィデリオと申します」
廊下には、三人のエクソシストたちが横に並んで立っていた。
今、中央で自己紹介したフィデリオなる青年と、その両脇に立つ少年と少女の計三人である。
そして、三人が三人とも十字架を身に付けていた。
うかつだった。
少年と少女は一見普通なブレザー姿の高校生であったが、その胸に思い切り十字架モチーフのエンブレムが輝いていた。フィデリオに至ってはコテコテの祭服に十字架が大量に描かれたストラを巻いて、手にも銀製の大きなクロスを掲げていた。
■■であった。
エクソシスト高校なのだから、クロスの一つや二つ所持していて当たり前だった。ちょっと考えたらわかるのに、とサキュバスは思った。だけどもう後の祭りだった。
至近距離で強烈な光を照射されたかのようにまぶたの裏が真っ白になっていた。
目の奥が痛み、涙がひとりでに溢れてきた。さっきまでなにも着ていなかったのもあって、全身から一気に汗が吹き出し、平衡感覚も崩れて、立っているのもやっとだった。
フィデリオが言った。「あのぉ……大丈夫ですか?」
その隣の少年が言った。「なんだこいつ? なんで泣いてんだよ?」
最後に少女が言った。「いやちょっとマサトラ……」
エクソシストたちが不審がっている様子が声色だけでわかった。
バレたら■される■にたくない早くなにか言わなきゃ。
「あ、あ、……あー」
だが、サキュバスの舌は回らなかった。唇がひくひくして、喉がこわばり、そもそも言葉が浮かんでこなかった。一体全体なにを言えばよいのか?
手足はまるで自分のものではないかのようで、よろめいた彼女はドアの縁に両手をつく。
「そ、えと、あー……」
なんとか言葉をひねり出そうとする。
「あーあー……」
「あのー、本当に大丈夫ですか?」
「あのー、あのー」
「あのー?」
「やーあのっ! あーあのあの、えーーっと、お、おっお? お待たっせ? しまっしたー」
沈黙が訪れた。
フィデリオたちは急になにも言わなくなった。
え、なんで?
サキュバスは戸惑った。どうしてなにも言わないの!?
頭も上げられず、焼けつくような感覚にいても立ってもいられなくなる。ジャケットが重い。汗が止まらず、シャツが肌にべっとりと張り付いている。
悪魔ってバレた? でもでも、羽根も尻尾も出してないよね? 服だって着てるじゃん?
一秒が無限にも感じられた。無言の圧に押しつぶされ息もできない。太ももが攣りそうになって、涙が止まらなかった。
目を開けたくなる。
ひょっとして奴らは聖書を広げてるんじゃなかろうか? 剣を振りかざしているのでは?
ヤバいヤバいヤバいって。どうしたらどうしたらどうしたら、ってこれ、逆に私から言わなきゃいけないパターン? 顔、上げたほうがいいのかな? いやでもなに言ったらいいの? マジで無理じゃん。マジで■にたくないし、ほんと無理。■にたくない■にたくない……
サキュバスがそうやって立ち尽くしていると、フィデリオが言った。
「あ、あのー先生、その、シャツが……」
「シャツ?」
「えとー、その、胸がですね……」
「え?」
サキュバスが薄目を開くと、すぐそこに自身の胸の谷間が見えた。はだけたシャツの間からノーブラの乳がほぼまる見えの状態になっていた。
「あ、す、すみませんすみませんすみません!」
サキュバスの後頭部をバットでフルスイングされたかのようなショックが襲った。急いでジャケットを寄せシャツの生地をつかもうとするも、指先に血が通っていない感覚があって、うまくいかない。焦る。焦るとなおさら手間取って、乳がはみ出る。それゆえもっと焦ると、もっともっと指は震えて握力がなくなって……
ダメダメダメ無理だってこれ。おっぱい丸出しのマナー講師がどこにいる? ここにいる、って■■か■■! つかマジでどうすんのどうすんだよこれ!
心臓が早鐘を打っていた。涙も汗も止まらなかった。
またも沈黙が来ていた。
あーこれ■んだ。これは終わったマジ■んだわ。
「えと、えと、えと! シャ、シャワ、浴びて、浴びてたんで!」
サキュバスはコイのように口をパクパクさせて、上ずった声を絞り出した。
「あの、コ、コココンタクトも忘れてて! その、前見えなくてっ!」
こうなったらなにかしら言い訳するしかなかった。
「私ってほらその普段コンタクトしてんですけどってあー普段はメガネなのかな。で、あのーメガネって正直邪魔ですよね邪魔だからコンタクトってゆうか涙出るんですよね」
ここまでの反動か、今度は舌が止まらなくなった。サキュバスは再び沈黙に至るのが怖くてしかたなく、閉じた瞳からボロボロと涙をこぼしながらわめき立てた。
「だから泣いちゃうしメガネって邪魔で見えないからコンタクトっていうか正直邪魔なのはエクソシってあーもうやだ■ぬ暑いここ暑いなー暑いと涙がでるよねでますよね?」
口の中の水分がなくなって息継ぎすると、フィデリオが言った。
「あのー、ちょっとお聞きしたいんですけど、あなたがミスターマナーさん?」
「ええ、そうですけどっ」
「あの、えっーとその、あなた女性ですよね? ミスター、って……?」
「えっ!?」
警戒心をありありと感じさせる硬質な声に、サキュバスは重ねて打ちのめされた。おっぱい丸出しの“ミスター”マナー。彼の言うとおりだった。
「あーははっ、なんでミスターなんでしょうねぇ? なんでなんでー、ってへへ、ってそれは私ミスターマナーはマナーの神様なわけでしょう? で、神様っていうのは男、つまりはミスターってことで、で、ミスターマナーというのは神様的な感じなわけでー……」
いっそう汗が吹き出してきた。
サキュバスはスーツさえ着たらどうにかなると思っていたが、ネイルにヒールにピンクのロングヘアー。こうなることは目に見えていた。目に見えているがゆえ、事前に神イコールミスターなる謎理論をでっち上げていたが、思考の混乱および呂律の回らなさゆえ弁明の体をなしていなかった。なので当然、
「いやこいつ絶対変だろ!」少年が苛立った声でがなり立てる。
「こらマサトラ。だからダメだって……」隣の少女がそれをたしなめる。
「そうですねぇ……」フィデリオもなにやら思案していた。
あーもう無理、■ぬわ。■ぬわ私もう。あーダメ、どうせ■すなら楽にして。
と、サキュバスは観念した。
つか私なんでこんなとこ来たんだろ。戻ってこなきゃよかった。てかまずさ、マナー講座ってなに? 電車乗るのにマナーとか必要? 痴漢とかむしろウェルカムっていうか、そういうのやってるから結婚できねーんだよ■■■どもめ、■■は■■同士、■丁目とかで……
って、■■!?
そのとき突然、彼女はひらめいた。
そうだよ■■だよ! ミスなのにミスター。ミスターなのにミス、これじゃんよ。
すぅーっ、と胸が晴れる思いがした。初めてまともに息が吸えた気がして、思わずニヤけた。なにこれヤバ。私ヤバ、すご。絶対これやん。いけるやん。ってなんで関西弁?
まだ希望が残っていた。彼女は目を閉じたまま、フィデリオが立っているあたりをおおよそ見据え切り出した。
「あ! あの! 私あれです。BLTなんです」
「BLT?」
「そうですそれ。わたしBLTなんで、ミスマナーって無理なんす! ははっ」
勝った、とサキュバスは確信した。
心は女だけど、体は男。いや体は男だけど、心が女? まあどっちでもいいけど、そういうアレ、ビジネスマンじゃなくてビジネスパーソンっていうアレ的なやつならミスなのにミスターだって大丈夫なはず、そう思った。
「えーっと、もしかしてそれって、LGBTのことですか?」
「あ、そう。それ。それです。私それのSです!」
「S?」
「はいSです」
「S……? ってなんの略です」
「さきゅ? ってえ?」
「さきゅ?」
「あっちがっ、LいやT? つ、つか! も、文句があんのなら、帰ってもらえます!?」
サキュバスは■■であった。
いや決して■■ではなかったが、自分に無関係なこと、興味のないことにはとんと疎かった。LGBTが性的マイノリティーを指す言葉であることは知っていたが、それぞれの頭文字がなんなのか、よくわかってはいなかった。彼女はただこの場をやり過ごしたい一心だった。
少年が言った。「おう帰るわ」
少女が言った。「いやダメ! って、先生も先生ですよ。Tの人にさっきの、ポリコレ的にアウトですよ」
最後にフィデリオが言った。「あーそうだな。俺も講義受けたほうがいいかもな」
十字架の作り出す真っ白な暗闇のなかで、エクソシストたちがなにやら囁きあっていた。
ポリコレってなんだ? エクソシストどもの新たな武器か? サキュバスは気になったが、とてもじゃないがまぶたは開けなかった。エクソシストたちを直視できなかった。
帰れ帰れ帰れ帰れ帰れ。
彼女はすっかりまな板の鯉となって、策どころかろくに言葉も浮かばず、そう祈るしかなかった。
しかし思いは通じず、数秒後、フィデリオが沈黙を破った。
「いやー申し訳ありません。失礼しました」
さらに彼は、絶望的な言葉を付け加える。
「今日はこの子たちにしっかりマナーをしつけてやってください!」
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