第2話 食われる女のマナー

 ミスターマナーこと穴間タスミは、ドレスを脱ぐサキュバスの姿を見るでもなく眺めていた。


 『男の電車マナー』が終了し誰もいなくなった会議室の中央で、くねくねとドレスを脱ぎ捨て紐パンだけになった彼女は長机に軽く腰掛けると、挑発的な手つきで穴間を誘惑した。


 穴間は暗色のネクタイをほどきながら言った。


「これはかなりのマナー違反ですねぇ」


 彼はネクタイを投げ捨て、サキュバスの左胸を下から持ち上げるようにひっつかんだ。


 たわわな胸はしっとり汗をかいていて、もちもちとした弾力が指先に吸い付き小気味よかった。彼は目を細め口角を持ち上げながら、心の中で毒づいた。


 自分から脱ぐなこの■■■。俺に脱がせるのがマナーだろ。


 穴間は右手でサキュバスの胸を揉みしだきながら、左手をくびれた腰に沿わせていく。誘い込むように滑らかな皮膚の感触。透明感のある白い肌はつやつやと輝いていた。


 謎の紐履くくらいならTバックにしろ。これもマナーだ。


 心のなかでそんな“マナー”を創作しつつ、彼の左手は彼女の尻を強くつかんだ。


 穴間は詐欺師であった。


 彼は昨今のマナーブームに乗っかり、適当な創作マナーを発案し■■な客を集めたり、自動的にお辞儀したような判を押せるハンコ、手書き風履歴書作成ソフト、デキる男のサウナ持ち込みタオルなどグッズを作って売りつけたり、マルチまがい商法やオンラインサロンに誘導したりして小銭カネを稼いでいた。


 あーおい、なにさりげなく靴脱いでんだよ。それは最後まで履いたままがマナーだろ■■■■■。つかなんでストッキング履いてねーんだよ■■。破かせろや!


 そんな感じでむっちりした足を眺める穴間の視線にサキュバスの顔が割り込んでくる。


「ねぇ」彼女は言った。


 不自然に赤い瞳に穴間はびくりとした。ぽってりとした唇も赤すぎて、キスをせがむ彼女からさりげなく顔をそらしつつ、穴間は聞こえない程度につぶやいた。


 カラコン入れんな■■。


 それに唇もケツも、これ絶対シリコン入ってるよな。明らかにマナー違反ギルティだ。


 そもそもピンクの髪がありえなかった。ハーフなのか知らないが、主張しすぎる目鼻立ちも好みじゃなかった。おっぱいも作り物みたく整いすぎてると、逆に萎える。


「あなたにはしっかりマナーを学んでいただく必要がありそうだ」


 本当にそうだ、と穴間は思い、サキュバスを抱き寄せるふりをして時計を眺めた。


 壁にかかった丸時計が、22:40を指していた。


 サキュバスは講座開始後も五分おきに会議室を訪ねてきた。


 穴間も最初こそそんな彼女を丁重に扱っていたが、さすがにウザくなって明日また来いと言ったら、ノックもなしにこんな時間にやってきた。■■だ。終業後タスクが終わってからならまだしも、彼にはこれからもうひと仕事ビジネスあるのだった。美味しいコスパのいい、できれば日時変更リスケしたくない案件ビジネスだった。


 約束の時間はきちんと守る。社会の常識。当然のマナーだ。


 お前と違って俺は忙しいんだ。ヤリたいなら俺の都合に合わせるのがマナーだろ。


 って、■■■相手にそんなこと言ってもしかたない。そう思って、穴間がサキュバスの秘部を隠す黒くて細い名称不明の紐に指を絡めると、それはなんの面白みもなく足元に落ちた。


 だからTバックがマナーなんだよ!


 穴間はげんなりした。


 彼の講座セミナーは大盛況で、彼は“ミスターマナー”なる通称、二つ名までもらっていた。彼が思いつきで作った“マナー”は“ルール”となった。


 突発的に休講になっても授業料の返還を求めないのが大人のマナー。

 新規会員を勧誘できなかった月には心付けを渡すのが生徒のマナー。

 先生には仮想通貨ウォレットの秘密鍵を教えるのが社会人のマナー。


 どんな無茶なマナーにもカモたちは従った。従わないものは勝手に去っていくので必然的にカモイエスマンだけが残り、穴間はそれこそ王様の気分を味わっていた。


 それゆえ、彼は自分に従わない人間に虫酸が走った。


 キスする前にあえぐな。触りやすいように誘導するな。


 最低限のルールも守れない■■■はしっかり■■するしかない。サクッとヤッて、サクッと金づるカモに変えてやる。


 そう考え、再び彼女と目が合った瞬間、穴間はサキュバスからすっと離れた。


「ヤる前に写真撮らせてよ」


 写真をネタに金銭を脅し取ろうと、ニヤつく穴間が机に置いたスマホに手を伸ばしたところで、ギャゴォォォッ、この世のものではない雄叫びが轟いた。


「は?」


 驚く間もなくサキュバスがものすごいスピードで飛びかかってきて、穴間は壁に叩きつけられた。同時に、ピ、という電子音。背中がエアコンのリモコンに押し付けられていた。


「え? なになになに?」


 半端ない力だった。突き放そうにも両肩をがっちり押さえつけられ、穴間の腕はまるで上がらなかった。


「ギュフフッ」サキュバスは笑っていた。


 笑いすぎて口が裂けていた。そこには二本の鋭い牙も生えていて、


「なんだぁっ!?」


 心臓が一瞬止まって、穴間は目を見開いた。サキュバスの両耳の上あたり、ピンク色の髪の隙間からはヤギのような角も生えていた。


「化け物ッ!!」


 今度は鼓動が痛いほど速くなって、穴間の体はカッと熱くなった。逃げようと必■にもがくも、両肩にかかる圧は凶悪で、腕がピクリとも動かなかった。


「クソっ、なんだお前は!?」


 穴間はパニックに陥った。なんで■■■が悪魔みたくなってんだよ?


 答えのかわりに、またしても不穏な唸り声。


 ぶわり、とサキュバスの両肩から生えた大きな黒い羽が穴間の両サイドへと広がって、彼の顔に陰が落ちる。


 なにこれ? ヤバいヤバいヤバいって。


「助けてぇっ!」


 叫んでから穴間は思い出した。この時間、このフロアにいるのは彼だけで、しかも会議室の出入り口には鍵をかけていたということに。


 終わりだった。


 穴間の目から涙が滲んだ。腰が抜けて、膝ががくついた。だが、強く壁に固定された穴間には、へたり込むことすら許されなかった。


 サキュバスの右手が穴間の肩から襟元へと素早く移動する。


「うっ!」

 シャツを激しくつかまれ首がしまる。


 軽々とボタンが二つ引きちぎられて、穴間は■を覚悟して目を閉じた。


「……、……、……っっ!!」


 しかし、彼は■ななかった。


 張り裂けそうな沈黙があった。十秒ほどかけて穴間がおそるおそる目を開けると、サキュバスがシャツの襟首をつかんだままの姿勢で固まっていた。


 彼女は赤い目を丸くして、彼の胸元を凝視していた。


 ごくり、と喉を鳴らし、穴間がサキュバスの視線を追ってみると、彼の胸元でシルバーのネックレスが揺れていた。そのトップには小さな十字架クロスのモチーフが輝いていた。


 穴間の全身から、ぶわっと冷たい汗が吹き出してきた。


 起動したエアコンから生暖かくカビ臭い風が流れてきた。サキュバスの力が明確に弱まっていて、穴間が軽く体を前傾させると、彼女の両手はあっさり離れた。


「ハァハァ……ハァハァ……」


 小さな十字架クロスが荒い呼吸に合わせ上下していた。穴間は慎重にネックレスを外し、指先で十字をつまむと、サキュバスの鼻先へと突きつけた。


「ヒィィッッ!!」


 サキュバスは整った顔を醜く歪め、面白いほどうろたえ後ずさった。コウモリのような二枚の羽根が後ろに退いて、LEDの人工的な明るさが戻ってきた。


 穴間は再度叫びだしたくなるのを抑え言った。


「……お前、これが怖いのか?」


「ヤメッ、ヤメロッ……」


十字架クロスが怖いとか、……お前、マジで悪魔か?」


「キャッ……ギャヒィッッ!!」


「どうやらそうみたいだな……」


 サキュバスをホワイトボードまで追い詰めて、穴間はこわばった表情を緩ませる。


 悪魔の体重を受けてボードが回転し、マーカーとイレイザーがぼとぼとと床に落ちる。サキュバスはネイルをしつらえた手で両目を覆い、嗚咽を漏らしながらずるずるその場にへばりこんでいく。


 ネイルと角の対比が怖ぇよ、と穴間は思った。


 よく見ると、彼女の尻の上あたりからは黒くて細長いものが伸びて揺れていた。


 尻尾だった。


 くにゃくにゃと蠢く矢のようなそれは、矢じりの部分がスペードの形をしていて、テンプレートのような悪魔の姿であった。


 だけど、なぜ?


 若干の冷静さを取り戻した穴間は小首を傾げた。悪魔なんてものがいること自体驚きだが、それがわざわざ女に化けて、俺に近づく意味がわからない。


 もしかして、“副業サイドビジネス”を嗅ぎつけられたのか?


 誰かがこいつを雇って俺を消しに来たのか?


 それとも……


「お前、誰に雇われた?」

 穴間はサキュバスに尋ねた。

「答えろ。お前の目的はなんだ?」


 しかしサキュバスは答えない。顔を伏せ縮こまり震えているだけだ。


「いいかよく聞け■■■悪魔。ここじゃ俺が規則ルールだ。答えないとぶっ■すぞ!」


 言いながら、穴間はじわじわとサキュバスから距離を取る。


 ぶっ■す、と言うには言える。けれど、どうやら十字架クロス程度ではこの悪魔を退治することはできないようだ。となると、逃げるしかない。一刻も早く商品ブツを持って逃げなくては、と穴間は十字架クロスを掲げたままサキュバスの側面へと回り込む。


 穴間はどうしてもアタッシュケースを回収したかった。


 部屋の奥、ホワイトボードの後ろに床と壁とを繋ぐ六連のパーティションが立っている。その一番左はドアになっており、向こう側には穴間が倉庫兼事務所として使っている小さな空間があって、ケースはそこに置いてあった。


 商品ブツは命より大事だ、とドアの前に立った穴間は思う。いや普通に命のほうが大事だけど、商品ブツを奪われたら俺の命はないから、売って稼げるだけ商品ブツには価値がある。


 利き手と違う慣れぬ手付きでノブを回しながら、穴間はハッとした。


 ケースを回収するためにはドアを開け裏に回り込む必要があった。だがパーティションの向こうに行くと、悪魔の前から十字架クロスが消える。見えなくなってしまう。するとどうなる? こいつは復活して背後から俺を襲うに違いない。そうなると今度こそ間違いなく■される。


 うっわー、どうすんだよこれ、むっちゃ致命的クリティカルじゃねーか。


 と、ノブをつかんだまま穴間は悩んだ。


 中に入ってケースを回収するまでせいぜい三秒。いや二秒あればいけるだろう。だけどその二秒がむちゃくちゃに怖かった。


 なら、ここに十字架クロスを置いておくのはどうだ? ドアノブにチェーンを引っ掛けておくとか? でもそうなると俺の手から十字架クロスが消えてしまうわけで、一瞬でも自衛手段をコントロールできなくなるのもまた怖い。


 ■■、どうしたら?


 マナー。穴間の脳内で、■し屋ヒットマンは対象が逃げ切るまで待たねばならない、という新たなマナーが生まれるも、そんなものが悪魔に通用するわけがなかった。


 やるしかなかった。


「ウオォォォッーー!!」


 やけになって叫んだ穴間は、十字架クロスを持ったままパーティションの裏へ突入した。


 壁側に積まれたダンボールとパーティションとの隙間を駆けて、奥のデスクの下に置いたアタッシュケースに手を伸ばさんとする。


 が、


 案の定、サキュバスの怒号が轟いた。


 直後、破裂音がして天井の固定が外れ、折れたパーティションが彼の方へと倒れてくる。


「ぎゃーっ!」


 ケースを抱え絶叫しながら、穴間は体を丸めかがみ込んだ。


 頭から背中にかけて激痛が走った。パーティションのパネルが思い切り直撃していた。


 埃臭い床に伏すと、すかさず、なにかが崩壊する音が近くで鳴って、彼は思わず閉じたまぶたを開く。


 暗くなった視界、床一面に、ハンコとタオルの在庫が散らばっているのが見えた。


 ただ、頭を上げる程度の余裕はあった。六つ並んで倒れたパーティションは積み上げられたダンボールに引っかかり、そのいくつかが崩れ落ちる程度で済んだようだ。


「■■!」


 とはいえ、彼と悪魔を隔てるのは薄いパネル一枚のみである。


 バサリバサリ、悪魔の羽音がする。猛烈な勢いでパーティションのアルミ枠が揺さぶられ、不快な奇声が耳をつんざき、脳にこびり付く。


 ■にたくない■にたくない■にたくない。


 四つん這いの穴間は、震える指先でなんとかネックレスを首に巻きつけると、パーティションとダンボールでできた長細い三角形のトンネルの奥へと向かう。右手でアタッシュケースをつかみ、左手で空のダンボールを払いのけ、散らばるタオルの山を押しのけて、ドアへと向かう。カーペットに擦りつける膝にハンコの側面が食い込むが、ずるずると進んでいく。


 あと少し。もう少しでドアを抜けられる。


 落ちていたガムテープにアタッシュケースの角がぶつかり、ガムテープはコロコロ前に転がっていく。穴間の胸元で十字架クロスが心もとなく揺れている。■■、あと少し、あと少しなんだ。


 ハンコの海に阻まれ、みるみる減速したガムテープが、奥の壁にぶつかり力なく倒れた。


 そのときだった。


 にゅーっ、とドアからネイルを施された手が伸びて、穴間の首元をぐいとつかんだ。


 あ、という間もなく、穴間は会議室へと引きずり出された。右手からあっけなくケースが離れて落ちる。足がパーティションに引っ掛かるも、強引に投げ飛ばされる。


「ぐえっ!」


 長机の側面に体がぶつかり、車にはねられたかのような衝撃が穴間の全身を貫いた。


 受け身も取れず、彼は床に転がり落ちた。うつ伏せに倒れ込み、体勢を立て直すこともできぬまま、背中からサキュバスにのしかかられる。


「びゅぶっ」


 穴間の肺から空気が漏れた。見た目以上のその重さに、骨がしなり音を立てて軋んだ。


 ヤバい■ぬ。


 十字架クロスがみぞおちに食い込んでいるのがわかり、穴間は恐怖した。このままでは間違いなく■される。


 ネックレスを取り出そうと胸の下に手を滑り込ませようとするも、手首をつかまれ捻り上げられる。泣き叫びながら残った手で抵抗するも、圧倒的な力にまるで歯が立たない。


「うぐっ……」


 サキュバスに髪の毛をひっつかまれ、穴間は息を飲んだ。


 軽々と首を真横まで捻じ曲げられると、人間のときとほとんど変わらぬ美しい女の顔が彼のすぐそこにまで迫ってきた。


「助け――」


 穴間の叫びはかき消され、血のように赤い唇が穴間の唇に接触した。


 全身が総毛立った。


 唇を介して彼の全身に電流が走り、彼はぶるりと大きく身悶えし目を閉じた。


 なにやら熱いものが吸い取られていく感覚があった。昂ぶった脈に合わせ、一拍ごとに身体から力が抜けていき、その奇妙な虚脱感に穴間は、


 気持ちいい。


 と、なぜか快感を覚えた。■ぬかもしれないのにエクスタシーを感じるという矛盾。それを深く考えさせないためだろう、すぐさま甘くかつ生臭くもある春先のような匂いとともに、サキュバスの舌が穴間の口内に差し込まれる。それは火傷しそうに熱い。なのに穴間の胸は弾み、こわばる体に反し、ふわふわと浮かび上がりそうな心地になった。


 彼はバキバキに■■していた。


 キスによってこの女に同化してしまう、そう思った。


 身体も心も、商品ブツもパーティションも、記憶も恐怖も、すべてがドロドロに融解していく喜びに彼の細胞は喜んでいた。白く恍惚とした意識だけが残されて、ふにゃふにゃになって、ぐちゃぐちゃになって、


 あー、イく。


 気を失いかけたとき、コンコン、ドアをノックする音が聞こえ、穴間は我に返った。


 クライアントだ。カモだった。すっかり忘れていた。今日はまだ仕事ビジネスが残っていた。


 それを糸口に穴間はまともな思考を取り戻した。彼の血中でテストステロン濃度が下がり、プロラクチン濃度が上がり始めた。いわゆる賢者モードというやつであった。


 ■■、ダメだ。まだ逝っちゃダメだ。カモに助けを求めるんだ。


 彼は叫ぼうとした。


 しかし、声は出なかった。全身が脱力して力が入らず、まぶたすら重く開けなかった。


 当たり前だった。


 なぜならサキュバスの唇はいまだ彼の唇に接触しており、エネルギーの吸収が続いていたからである。


 でも、今日の俺は無茶苦茶ツイてる、と彼は思った。


 悪魔がいるなら、アレだってたぶん実在する。あのアレ、なんだっけ? あのエから始まるやつ。多少賢者になったところで、依然思考回路のぐずついた穴間にはその単語を思い出すことができない。

 けれど、

 きっとそうだ。と彼は確信する。扉の向こうにいるのはエから始まる悪魔の天敵に違いない。


 コンコン。もう一度ノックの音。


 二回のノックはマナー違反ギルティだ。四回が正解、略式でも三回。もうそんなことはどうでもいい。今が予約アポの十分前か十五分前か知らないが、予約アポより早く来てくれた彼らのマナーに感謝する。


 早く。早く俺に気づいてくれ。俺を助けてくれ。


 どうやっても穴間の体に力は入らない。声も出せない。それに、


 あ、ヤベ。また高まってきた。


 予期せぬ訪問ビジターに気づいたのはサキュバスも同じだった。彼女もここぞとスパートをかけてきて、穴間の口中は秩序を失う。どのような動きをしているのか、悪魔の舌は穴間の舌を絞るかのように蠕動し、とても耐えられそうになかった。


「すみませーん」


 今にも幕が下りようとしている穴間の世界の片隅から、若い男の声が聞こえてくる。


「二十三時で予約してる日本エクソシスト高校なんですけどー」


 そしてそこで、穴間の意識は完全に途絶えた。

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