アンダーカバー・エクソシスト

与田 八百

一限目 不適切表現は伏せ字にするのがマナーです

第1話 食われる男のマナー

「僕はやってない!!」と、男が言った。


 彼に思い切り突き飛ばされて、サキュバスはよろめいた。


「そ、それ以上近づかないでくださいっ!!」

 淡い緑色のネクタイをしたその男は甲高い声で叫び、サキュバスは面食らう。


 え、なんで?


 そう思った彼女が再び前に出ようとすると、彼はのけ反り、両手を突き出して拒絶の意思を示してくる。その眉間にはしわが寄り、目には涙が浮かんでいた。


 まるで意味がわからなかった。


 たしかにサキュバスは男の精気を主食とする悪魔であり、この男を食らうつもりであった。


 が、まだ食おうとはしていなかった。数秒前、彼女は性的興奮を高める目的で、彼に勢いよく抱きつき胸をぎゅっーと押し付けた。それだけだった。牙を剥くどころか、キスする仕草すらしていなかった。なのに、こんなにも強く拒否されたのである。


 こんなことは生まれて初めての経験であった。


 もしかして?


 サキュバスは急に不安になって、自らの肉体に意識を集中した。もしかして、人間への擬態が十分じゃなかったのでは?


 いや、そんなことはなかった。


 羽根は当然として、角や牙、尻尾だってしっかり体内に収納されていた。彼女は■ラダのドレスを着て、ピンクの髪も綺麗にセットして、■レンシアガのハンドバッグを持つ手にはネイルだってあつらえていた。完璧に人間の女子に擬態できていた。


 なら、なぜ? サキュバスは首を捻る。


 不可解なのは目の前の男だけではなかった。


 だだっ広い貸会議室の中央に立つ薄緑のネクタイとサキュバスを遠巻きに囲むようにして、数十人の男たちが怪訝な表情を浮かべていた。


「信じてください。僕は悪くないっ!」

 薄ネクタイは周囲の男たちに震える声で訴える。

「そこの女の人がっ、勝手に、む、胸を押し付けてきたんです!」


 彼が指差す先にはサキュバスがいた。そして、この場の女性は彼女だけであった。


 無言の男たちは、彼女らに気まずい眼差しを向け続ける。


 スーツもしくは小綺麗なビジネスカジュアルといった装いの彼らは、ひとりいい思いをした薄ネクタイに羨望を抱いているわけではなく、戸惑っているようだった。彼らのなかには憐れみの表情を浮かべているものすらいた。


 いや、だからなんで?


 本当にわけがわからなかった。


 サキュバスは自らの容姿に自信があった。そこいらの美女よりはるかに可愛いと自負していた。これは思い上がりではなく事実であった。活きの良い精気を吸うためには男を虜にする美貌が不可欠であり、不細工だったら彼女は現代まで生き残れなかったことだろう。


 しかも今日の彼女は胸元を強調する漆黒のドレス、背中の大部分が丸見えなミニドレスを着て、薄ネクタイの耳元に熱い吐息を吹きかけていた。「カッコいいね」「体が疼くの」「■■■したいなぁ」などと囁いてもいた。つまり彼女はうっかりデスクに躓いて、偶発的に男に抱きついてしまったのではなく、私の胸を揉んでいい、キスするなり愛撫するなり、なんなら押し倒してもいい、という意思表示として抱きついていた。


「そんなぁ。こんなのあんまりだー!」


 部屋を埋める沈黙と憐憫に耐えきれず、ついにぼろぼろと泣き始めた薄ネクタイにサキュバスは、あんまりなのは私じゃん、と思った。相変わらずリアクションの乏しい周囲の男たちには怒りすら覚えた。


 薄ネクタイを含め、部屋にいる男たちは、下は大学生くらいから、上は四十代くらいまで。思春期真っ只中ほど漲っているわけではないだろうが、性欲が減退しているとは考えづらい。


 加えて今は五月である。年中発情期の人間には関係はないが、適度に温かく、性行為をするのに適した時期には違いない。そこに痴女同然の格好をした女が紛れ込んだのである。いや痴女そのものが現れたのである。ノーブラで乳首を浮かせ、大きなおっぱいを揺らし、オフショルダーのミニスカートからむっちりとした手足を露出して、「触って欲しい」とか言って、男好きな感じをこれでもかとアピールしているわけである。


 普通なら有無を言わさず乱交が始まる。獣のような性欲に入れかわり立ちかわり犯されて、くんずほぐれつ。むちゃくちゃになってしまうのが当然だとサキュバスは想定していた。そうして男たちの血中テストステロン濃度が限界まで高まったところを一斉に捕食、エナジードレインを行い、久々に満腹になれるプランを立てていた。


 なのに……


 これ、もっとダイレクトにいかなきゃダメなやつ?


 ふと思いついたサキュバスは、うなだれ震える薄ネクタイを一瞥し、ハンドバッグを近くのテーブルに投げ置いた。かわりにそこにあったボールペンをひっつかみ、取り巻く男たちに思わせぶりな視線を送りながら、ゆっくりその先端にしゃぶりついた。


 ざわめきがあがった。


 サキュバスは濡れたペンをいったん口から出すと今度は、あぁーん、とか、うふーん、とか官能的な声を出して、ペンの下から上へ舌を這わせた。次いで、わざとらしく音を立てて口に含み、美味しそうに上下にしごいた。


 ざわめきが悲鳴に変わった。


 ダメであった。どう見てもドン引きであった。


 サキュバスはペンを床に叩きつけた。


「お前ら■■か!!」

 ドスのきいた声が会議室に響き渡り、男たちがすくみ上がる。

「それとも■■■か? おい答えろや!」


 もちろんサキュバスの問いに答えはなく、部屋はすっかり凍りついていた。あーもう、とこらえきれず、サキュバスは背中のファスナーに手をかけた。それをジリジリ押し下げて、流れるような手つきで彼女はドレスを脱ぎ捨てた。


 黒いドレスがねずみ色のカーペットに落ちると、ほんのわずかな沈黙があった。


 サキュバスは黒い紐みたいなパンツしか身につけていなかった。


 男たちの視線が裸体に集中し直後、会議用の長机が倒れる激しい音がした。


「助けてー!」


 後は阿鼻叫喚だった。


「こんなの聞いてない!」「■にたくない!」

 男たちは我先にと一つしかない出入り口へ■到する。

「あ痛っ、ちょっと痛い痛い痛い!」「おいどけ、まだ家のローンが残ってんだ!」


 デスクや椅子がなぎ倒され、悲鳴に次ぐ悲鳴。入り口のドアに詰まった男たちが将棋倒しになって、怒号と罵声が部屋中に響き渡る。


 そして、ほぼ全裸なサキュバスは途方に暮れた。


 自分のプライドがここまで傷つけられるとは思わなかった。


 なにが駄目なのか、まったくわからなかった。


 服装がいけなかったのか。化粧がいけなかったのか。エロさが足りなかったのか。


 などと考えるも結局、


 違う。私は悪くない、と彼女は舌打ちしながら結論づけた。


 ■■のくせに、■■っぽくない格好で、■■っぽくない場所で群れているこいつらが悪いんだ。■■なら小綺麗な格好をするな。日没後のオフィス街にたむろするな。■丁目に行け!


 最後までドア前で詰まっていた男が、つんのめりながら部屋から消えた。


 がちゃん、とドアが閉まると、後にはぐちゃぐちゃになった長机とパイプ椅子、打ち捨てられた通勤カバンなどしか残らなかった。


 サキュバスは脱ぎ捨てたドレスを拾った。


 小さなため息を吐いて、いつものようにドレスを上から被って着ようとした。が、今はメイクとヘアセットをばっちりキメていたことを思い出し、慌てて下から穿こうとしたところでバランスを崩し、思い切りすっ転んだ。


 泣きそうになった。


 もうフラフラだった。ここ一週間、まともに男にありつけていなかった。


 このままじゃ■ぬ。早く次のエサを見つけなきゃ。次の狩場に移動しなきゃ。


 壁にかかった丸時計が、19:45を指していた。


 彼女は焦っていた。もうすぐ夏が来る。日が沈むのが日に日に遅くなって、自由に活動できる夜の時間が短くなってきていた。


 立ち上がろうと手をつき腰を浮かせた瞬間、扉が開き、彼女は再び尻もちをついた。


 扉の向こうにはふたりの男が立っていた。


 薄ネクタイと、もうひとり。


「そ、その女性がいきなりわいせつ行為を!」薄ネクタイが言った。

「なるほど」隣の男が答えた。


 大柄なその男はライトグレーのスーツを着て、片手に金属製の大きなアタッシュケースを持っていた。


「だ、ダメです、ミスターマナー、近づいちゃダメです!」


 薄ネクタイにそう言われても、ミスターマナーと呼ばれたその男は気にしなかった。彼はアタッシュケースを脇に置き、サキュバスの前に片膝つくと、手を差し伸べ言った。


「大丈夫ですか? お怪我はありませんか?」


 低く伸びやかな声だった。イケメンだ、とサキュバスは思った。


 下品すぎないツーブロック。すらりとした鼻筋に切れ長な瞳。首元に浮かんだ喉仏の盛り上がりがセクシーだった。見るからに高そうなジャケットを羽織り、暗色のネクタイをきちんと締めているにも関わらず、彼はどことなく涼しげに見えた。


「さぁ立って」


 ミスターマナーはサキュバスの腰に手を回し、手慣れた手付きでドレスのファスナーを引き上げると、ジャケットを脱いで彼女の肩にかけ、ニコリと笑った。


「“大人女子のエレガントマナー”は金曜日ですよ?」


 サキュバスは、ぽややー、となった。


 大人女子がどうだとか、彼が発した言葉の意味を彼女はまるで理解できなかった。うわの空の頭のなかで、声のトーンだけが反響していた。ジャケットから匂い立つ男のフェロモンに身も心も崩れ落ちそうだった。


「今すぐ食わヤラせて!」


 気づいたときには飛びかかっていた。がっしり広いミスターマナーの背中に手を回すと、彼女の肩からジャケットがずり落ちた。


 薄ネクタイの絶叫が聞こえた。


 無視して、サキュバスは硬い胸板に顔を擦り付ける。シャツ越しに感じる男の熱、濃厚な香りに脳がしびれる。彼女はそのまま背伸びして、彼の唇に自分の唇を合わせようとした。


 けれど、


「なんだって!? 今すぐ吐かせて? それは大変だ」


 叶わなかった。


 ミスターマナーの顔はサキュバスの顔とスレスレで交差して、それに合わせ体もくるりと反転し、しがみつく手がさりげなく振りほどかれた。彼は床に落ちたジャケットを拾い、サキュバスにもう一度かぶせると、彼女の肩に手を回し囁いた。


「行きましょう」


「きゃ」


 サキュバスはふやけた。焦らすのはともかく、焦らされるのは慣れていなかった。


 そうか。ここじゃなくて、トイレでヤろうってことか。


 サキュバスは彼の発言をそのように解釈した。


 ■■と■■■どもに見られながら、っていうシチュでも別に私は構わないんだけど、わざわざふたりきりの時間を作ってくれるなんて、と彼の気配りになおさら胸がきゅんとなった。


 サキュバスのハンドバッグを手にしたミスターマナーと一緒に出口に向かい廊下に出ると、狭い廊下には逃げ出した男たちがたむろしていた。


 ふたり並んでそこを歩くと、男たちはぎょっとして、両脇の壁にへばりつくようにしてサキュバスを避けた。


「ミスターマナー、正気ですか!?」「訴訟が怖くないんですか!?」


 ■■どもはゴチャゴチャとわめいたが、サキュバスは、けっ、お前らは一生セミみたくそこに張り付いてろ、としか思わなかった。むしろどうやって彼を食おうか、どこから精気を吸い取ろうか、はやる気持ちを抑えることができなかった。


「え?」


 しかし、廊下の角を曲がったところでサキュバスは思わず声を出した。


 ミスターマナーが向かった先はトイレではなく、エレベーターだったのだ。


 状況を把握できぬまま、小さな箱の中に乗り込むと、彼は一階のボタンを押して、サキュバスの肩から手を離し言った。


「また連絡して」


 ハンドバッグとともに名刺を手渡され、まるで予期せぬ言葉に驚いたのもつかの間、サキュバスひとりを残し無常にも扉が閉まっていく。


 なんで??


 ガクン、とエレベーターが下がり始めると同時に、サキュバスは底なしの穴に落ちていくかのような気持ちになった。彼女はよろめき壁に身を預け呆然とした。


 なんであいつもヤらせてくれないの!?


 気が遠くなりそうだった。空腹も重なって、うまく頭が回らなかった。目の前がぼんやり暗くなって、体が震え始めた。心臓が爆発しそうで、胸を切り裂き投げ捨てたくなった。


 なんでなんでなんで??


 エレベーターが一階について、むわっとした外気が入り込んでくると、サキュバスの困惑は徐々に怒りへと変わり始める。


 どう考えてもおかしいでしょ!?


 いつしか握りつぶしていた名刺を床に投げ捨てる。


 ありえない。私は女の中の女だぞ。男を魅了し骨の髄までしゃぶり尽くす悪魔の中の悪魔だぞ。いや悪魔の中の悪魔というのは言い過ぎだけど、サキュバスなんだぞ!


 そう思うがいなや、サキュバスは九階のボタンを連打した。


「うがぁー!」


 ゆっくりと閉まる扉がもどかしかく、ハンドバッグを壁に叩きつけ地団駄を踏んで、やっと箱が上昇し始めると、今すぐヤリたい。彼女はミスターマナーのジャケットを鼻先に押し付け息を荒くする。微粒子レベルのテストステロンじゃとても足りない。こうなったら無理矢理にでも押し倒ししゃぶり尽くしてやる、と彼女は鼻の穴を膨らませた。


 九階に戻ると、彼女は誰もいなくなった廊下を駆けて、奥の会議室へと直行する。


 扉の前まで来ると、


「私からの特別講座サプライズ、皆様お楽しみエンジョイいただけたでしょうか?」


 薄い扉の向こうからあの美しい声が聞こえてきて、サキュバスはうっとりした。


 だが、


「え、怖すぎって? いやいやー」


 ドアノブに手をかける直前、男たちの盛大な笑い声が聞こえ、彼女は体を硬くした。さっきのビビりようはなんだったのかという■■どもの大爆笑だった。


 ドアの向こうでミスターマナーが続けて言った。


「で、す、が。最後までしっかり講座セミナーを受けていただければ、先のような対応アジャイル自由自在イージーですのでご安心リラックスしてくださいね。では『男の電車マナー~痴漢冤罪被害に遭わないために~』の第三回。さっそく始めて参りましょう!」

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