信じぬものは救われぬ

一軸 透色

信じぬものは救われぬ

「お化けがいるって信じていないと、連れていかれちゃうんだって」

 二席分離れた向こう側で、やだよ怖いね、とクラスメイトが椅子の背に縮こまるようにして、首を振っていた。向かい側には喋り好きな友人が前のめりになって座り、仕入れたネタをぺらぺらと話している。

「歩いているとね、真っ黒なお化けが追ってくるんだって。暗黒小道は、絶対行っちゃだめなんだよ」

 最近、教室の話題は怖い噂話で持ちきりだった。誰も通学路として使わない道の話だ。暗くて誰もいないから通っちゃいけないという話は、この地域で生まれ育ったお母さんからもよく聞いていた。

 学校のどこから始まり、誰がクラスへ持ち込んだ噂話なのだろう。一人でその道を通る時、後ろから突然うめき声と泥の匂いがするんだとか。真っ黒なお化けが、小さい山の中を歩き回っては、何かを探しているらしい、とか。

 本当に見てきた人がいるのなら、話を聞いてみたい気もする。

「しおちゃんも、帰るときに通ったら食べられちゃうかもよ」

「もう、やめてよ。怖いってば」

 喋り好きのきーちゃんは、怖がりのしおちゃんをからかっているようだった。喋った相手が話を聞いてくれて、その上で怖がってくれるのが嬉しいんだろう。

 結局は、よくある話のネタになっているだけ。学校に一つくらいはある、ありがちの怪談ってわけだ。

「ねぇ、すみちゃんも怖くない?」

 きーちゃんが声を張って私を巻き込んできたけど、怖くなんてなかった。さっきから自分を抱きしめて、両手でよしよし宥めているしおちゃんと、私は違う。ホラー映画だって、小説だって読めちゃうし、噂なんて信じていなかった。


 その日の帰り道にぼうっと歩きながら、お化けの噂についてもう一回考えた。暗黒小道だ、ってみんなは怖がるけれど。おどろおどろしい名前をつけられるくらい怖い道じゃないと思うんだ。

 絶対、真っ黒なお化けなんかいない。怪奇なんて、物の中にしかいないんだもんね、と馬鹿にしていた。だって、幽霊がテレビ画面から出て来たりしないし、不思議な物事は文章から現実になることなんてない。

 いいから信じて聞いてよと、しつこく言うんだったら、お化けを連れてきてみてほしい。本当に目の前に出てきてみれば良いじゃないか。夜しかでないんだよ、なんて言い訳だ。

 一人だった私は興味本意で、噂の暗黒小道を通ることにした。誰も入らない道を歩く時、始めての場所にちょっとだけ肩が強ばった。畑の奥へ続く道から入り、少し山なりに細道を上がって、木がたくさん並ぶほんのりと暗い場所を通り抜けると、なだらかに下った先はいつもの通学路に抜ける。

 皆が怖がっている道には何にもなかった。生き物の気配がほとんどなくて、道を外れると雑草ばかりが生えている。田舎の道を絵に描いて、と言われたら皆が揃って描くような道だった。

 暗黒小道の正体は、学校から住宅街までの道を直線で突っ切った、山を抜ける近道でしかない。

 空を埋める木々がある暗い場所を、怖がる子もいるだろう。しおちゃんなんて、木の表面のごつごつが顔みたいに見えた瞬間に、叫び声を上げて逃げていってしまいそうだ。だけど暗黒、なんて呼べるのはその薄暗い一ヶ所だけだった。道を通り抜けるのに、長い時間は掛からない。

 もしかすると、良いことばっかりじゃないかな。私は計算して気がついた。山と言うほど上り下りはないし、なんといっても家に五分は早く帰れる。

 五分もあれば、荷物を下ろして支度をして、友達の家に遊びに行けてしまう時間だ。たった五分、でも一日に五分ずつ遊ぶ時間が長くなるってすごいじゃないか。なんて嬉しいんだろう。

 私は当然のように、皆に怖がられる道を、一人で帰るときの近道に決めていた。


 あれから、何度かこの道を通ったことがある。皆に噂されているせいで、当たり前のように人の気配がないこの道には、噂のお化けの気配もなかった。同じ学校には百人くらいの生徒がいるけれど、皆はこの道へ寄ろうともしない。たった一人、私専用の抜け道だ。

 委員会の用事で学校を出るのがとても遅くなったその日も、遅くなったからこそ迷わずに細道を選んだ。空が染まり始めた夕方だったが、早歩きで抜けてしまえばすぐに帰れる。

 畑の奥から、道を上がる。足元が夕陽の赤色に染まっている。白地のスニーカーが、染め抜かれたように赤い。

 道をそれてしばらく後に空を見てみると、火傷しそうな赤だった。

 夕陽はこんなに赤かっただろうか。

 異様な赤に気がついた瞬間、周囲からぞっとするような違和感が襲ってきた。生暖かい風に腕をなぞられ鳥肌がたち、まくっていた上着の袖を下ろす。頬を撫でる、空気の質が明らかに変わった。

 乾いていた空気が、滑りと粘り気を含む。じっとりと舐めあげるように、肌に触れていく。実体を得て生きているような風に、先までなかった臭いが混じり始めた。

 どぶの匂いだ。鼻の下に濡れた土を塗りつけられたかのように、匂いは私から離れない。鼻を擦っても、つまんでも匂いは消えない。自分の内側から臭いが漂っているようだった。

 背中の方で私と同じ歩調の音がしだしたのは、そこからだった。小石の混じる細道を踏みしめる音は、私を真似するように、同じ速さで追ってくる。

 私はさらに歩みを速めた。着いてくる音も速くなる。踏みしめているのは乾いた地面のはずなのに、どぶの匂いが強くなる。

 後ろを確認しよう、と何度も考えた。一回だけでいい。もしかしたら足音は自分の気のせいで、後ろには何もいないかもしれない。何もいないって信じている。誰も見たことなんてないのに。

 向けと念じても、自分の首が言うことを聞かなかった。足はひたすら逃げようと足掻いている。冷静さはとっくに失っていた。

 脚がもつれて止まりそうになると、気配がぬっと強くなった。腕を突然、くるりと包む何かに、出かかった悲鳴も止まった。

 何かの手だった。後ろから伸ばされた腕は指先まで冷たく、隙間なく真っ黒な泥にまみれていた。指をうごめかせ、強く掴もうとしている相手には、十分な力がない。ぬるり、と腕の上で手のひらが滑る。

 腕を振り、真っ黒ななにかを振り払うと、私は必死に走り出した。何かが吐瀉した液体が地面をびしゃびしゃと叩く音がして、具合が悪くなりそうだった。

「ゔあああああぁぁぁぁ」

 不気味な唸りが後ろから聞こえる。走っても走っても、唸り声は追ってきた。何度も何度も、同じうめき声を繰り返す。

「ゔあああああぁぁぁぁ」

 単語のない叫びには、ごほごぼと、溺れたような音が混じる。声を聞くたびに、体の芯が揺さぶられる感覚と、吐き気をもよおした。

 足の先まで震えが伝わる。木の枝や、小石に何度かつまづいた。両足がもつれ、走り方を忘れそうになる。恐怖にふらふらと体が揺れた。木の幹や地面に手をついて、反動をつけて立ち上がる。

 逃げなきゃ。でも、どこへ。どこまで行くのだろう。

 行っても行っても音がない。人の気配はどこだろう。誰でもいい。誰でもいいんだ。早く助けて。


 走り続けて、平たい大岩が倒れている場所に出た。下にはくぐれそうな隙間がある。私は後ろの気配が消えたことを確認して、その隙間に潜り込んだ。

 何も見たくない。何も、嗅ぎたくない。何も、聞きたくない。何かがいるんだという事を、信じたくなんてない。

 しゃがんだ私は、両手で顔を覆った。これが夢だったらいいのに。起きたら家にいるんだ。それか、まだ授業中の教室で眠っていて、「次の問題、当てられちゃうよ」と隣の席の子に起こされるんだ。

 指と指の間から、外の様子を見る。相変わらず、暗い山の中でこれは本当に起こっていることだった。

 私を追ってくるあれは、一体何なのだろう。

 想像していたのは、低い大人の声だったけれど、泥に沈んでも分かる。あれは私くらいの、子供の声だ。私を掴んだ手も、ほとんど私と同じ大きさの、小さな手のひらだった。

 私は入ってきた入り口から後ずさって、何かを踏んだ。この岩に結ばれていたのかもしれない。古くなってちぎれた、汚れたしめ縄だった。

 後ろに気を取られていると、入ってきた方向からぴちょん、と滴の垂れる音がした。ぴちょん、ぴちょん、という音は近づいてくる。口を塞いで、息を殺した。

 突然、音がしなくなる。ほっとして手を下ろすと、入り口の真上からこちらに向けて、黒い腕が伸びた。

 私はとっさに反対方向へ逃げ出した。しめ縄を蹴り飛ばしてしまったけれど、構っていられない。

 あれは、どうしてここにいるって分かったのだろう。

 いくら逃げようが、どこまでも黒い影は追ってくる。叫び声を上げながら、私とほとんど同じ早さで追ってくるものだから、逃げても逃げても距離が離れない。

 ほんの数分で抜けられてしまうはずの山を、どれだけさ迷っていただろう。山の中に入るほど、泥臭い香りが強くなる。自分の心臓の音ばかりが聞こえる。頭がへこたれそうなのに、足は諦めないまま勝手に、出口を探している。

 私は何度も転びそうになった。家から遠く、どこまでも行ってしまいそうだった。


 上がった息が苦しいことさえ忘れた頃に、行く先に光が見えた。夕闇の暗さに慣れてしまった目には、息をのむほど眩しい光景だった。木々の間から、道を示すように光が延びている。

 こっちへおいで。

 気のせいだろうけれど、声がした。木々の向こうには誰も立っていないのに、手招きされていると感じた。思わず足を止め、見惚れてしまった。

「ゔあああああぁぁぁぁ、ゔあああああぁぁぁぁ」

 後ろの呻き声は私を引き留めるように、一層大きくなる。繰り返される叫びは、さっきよりも早くなる。

 ここまで走らせておいて、まだ私を逃がしてくれないなんて。気味が悪い叫びなど、これ以上聞きたくもない。耳をふさいで、私は光の方へ向かって走った。

 光の先は、崖だった。こんなに高い場所、この山にあったかな……私は足を止めるしかなかった。ぎりぎりに立ち、下を覗き込んだが、飛び降りられる高さではなかった。

 どうしよう。もう、逃げられない。

 地面の遠さにおののいて後ずさりすると、耳元でささやく声がした。

「ゔぁ……」

 瞬くのも恐くなった。ここにいる。後ろの息づかいが分かるくらいに近い。自覚した瞬間、動けなくなった。

 目線だけを動かして、自分の肩元を見ると、黒い影が伸びてきていた。ぽたりと、溶けた指先から泥が落ちる。白い上着が、黒く染まる。

「触らないで!」

 私は黒い何かから体を逸らした。泥の匂いが鼻を満たす。走り続けたせいか、すり減ったスニーカーが地面を捉えきれず滑り、バランスがくずれた。

 落ちちゃうなんて、やだ。

 崖から離れたくて振り返ると、黒い物体は私の腕に手を伸ばしていた。ぐちゃぐちゃの泥にまみれていて、それがどんなお化けなのかは一瞬では分からなかった。私が崖にずり落ちるよりも、黒い手はずっとずっと遅く動いているように見えた。それでもなんとか、弱々しい手のひらで、私の腕を掴みとる。

 真っ黒なお化けは、滑つく手で私を引っ張った。

 次の瞬間、勢い良く足が引かれた。

 下を見ると、足首に絡まっていたのは白い腕だった。木々の間から差していた光を思わせる、血の気のない真っ白な腕が、崖下の空間から生えている。

 こっちへおいで。

 はっきりとした声と、笑い声がした。私を捕まえた冷たい腕からすり抜けて落ちていく瞬間、噂を信じておけば良かったなと、ふと考えた。


 目が覚めると、頭が空っぽになっていた。追ってくるお化けの気配も消えていた。

 体を起こすと、肩から湿った葉っぱの屑が剥がれて、水浸しの地面に落ちた。疲れはいつの間にか失くなっていた。

 体の重みを感じないのに、足を縛り付けられているような気がした。頭の上からつま先まで泥だらけになっているからだろう。私はゆっくりと座り、真っ黒になった腕を擦った。左手も右手も、泥まみれだった。絞り出すように擦っても擦っても、泥が落ちない。自分が地面と一緒になってしまったみたいだ。皮膚の裏からは血が流れ出すように、延々と泥が吹き出している。

 咳をすると、ごぼりと泥がこぼれた。舌の上がざらざらとして、腐った水の匂いが鼻の奥をいっぱいにする。気持ちが悪い。嫌な臭いに、喉の奥に詰まったものがどろどろとまた溜まっていく。息が上手くできなかった。肺の奥まで、ざらざらと泥を詰め込まれているのかもしれない。積もった葉っぱの残骸や、虫の死骸や……生きた芋虫だのが混じっているかもしれない。

 胃の中がぞわぞわと泡立つ。手で口を塞いでも、気持ち悪さを抑えきれなかった。力を込めても、いくら喉の奥から吐き出しても泥ばかりが流れていく。苦しくて目の前が滲んだ。

 家に帰りたい。

 木と木の間から見える、真っ赤な空を眺めながら考えた。夜になったら、お母さんもお父さんも家に帰ってくる。私がいないと気が付いて、探しに来る前に、帰らなきゃ。

 あったかいお風呂に入って、おいしいご飯を食べたい。ゆっくり寝て、こんな怖いことは忘れよう。

 動く気力はほとんどなかった。夏の暑さが残っている生暖かい風が吹いている。人の声はせず、風の音しかしない。

 体の芯まで、凍えてきた。

 地面に縛り付けられたような足をなんとか動かして、私は山道を彷徨い歩いた。行っても、行っても、道が続いている。

 雨が降り、カエルが鳴きだした。私を馬鹿にしているみたいだ。

 泣きたくなった。出てくる涙も、もう泥と同じ色をしていた。

 うす暗い中から見上げる空はどれだけ歩いても真っ赤に染まったままだった。夜にもならない。どれだけ時間が経ったか分からない。自分の体が泥臭くて当然になってしまった日から、私は家に帰る道をすっかり忘れてしまった。

 人もいない、生き物の気配さえ消えた山の中で、どうしてあるいていたのかも忘れかけた頃だった。私はやっと、私と同じくらいの年の女の子を見つけた。白の上着を着て、髪を肩で切り揃えた女の子が、茶色の鞄を背負っている。

 茶色の鞄、あの鞄に見覚えがある。かわいい金具が、だんだん夕焼けの赤に染まっていく。

 思い出した。あれは私の鞄だ。

 運良く見つけた女の子は、家に帰れなくなったあの日の私本人なのだ。私は直感で理解した。地面を染める日差しにも見覚えがある。見上げると、火傷しそうな色の空に、煙のような雲がかかっていく。あの日と寸分違わない空だ。

 目の前にいる私は、これから何が起こるのかを何も知らない。少し後には、家に帰れなくなるなんてこれっぽっちも思っていない。

 あの時の私を引き留められたなら、自分も家に帰れるかもしれない。ほんの欠片の期待が、冷たくなった胸の中を温めた。

 だから私は、いつものように山道を行こうとするあの時の私を引き止めようと、一生懸命叫んだのだ。行っちゃだめ、と。ぐるぐると喉の奥で泥が詰まる。溺れたような叫び声は、私に届くのだろうか。

 声が出た瞬間に肺の中で、ごぼりと泥の混ざる音がした。

「ゔあああああぁぁぁぁ」

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信じぬものは救われぬ 一軸 透色 @tsk1chi

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