苗字争奪戦




 初めに親が子に与えるのが生であるのならば、国が子に与えるのは苗字であった。




 一苗字一人。



 

 自立と日本語を尊ばんとする風潮からこの仕組みが始まって長い月日が経った。

 親子であれ、夫婦であれ、同じ一派であれ。

 もはや日本人の中で同じ苗字を名乗る者は居なくなっていた。

 

 


「まさかあなたと競う日が来るなんてね」

「まさか、な」


 一組の夫婦は互いに不敵な笑みを浮かべた。

 結婚してそう間もない時期である。


 一方の苗字は緋村であった。

 一方の苗字は米山であった。


「悪いが、俺の苗字をやるつもりは毛頭ない」

「悪いけど、諦めるつもりは毛頭ないわ」


 妻は別段己の苗字に不満などなく生きてきたのだが、今は違った。

 夫の苗字が切に欲しくなった。

 己が崇拝すると言っても過言ではない映画の主人公と同じ苗字が、喉から手が出るほど欲していた。


 現実では許されない苗字の重複も、虚構。映画やテレビ、本の中では許されていた。

 奇しくも、夫婦の憧れる相手は違えど、苗字は一緒。

 譲れはしない。

 諦めはしなかった。


 己が憧れを抱く相手とお揃いのものを持ちたい欲求はいつの時代も変わらないものであった。




「では、準備はよろしいでしょうか?」

「「はい」」


 審判員がどちらから始めますかと尋ねると、いの一番に妻が手を上げた。

 妻は夫にやる気を殺がせてやるわと言わんばかりに挑発的な視線を向けた。

 夫はお手並み拝見と言わんばかりに不遜な態度で腕を組んだ。


 勧められた位置に立った妻は審判員を見た。

 審判員はストップウォッチに不具合がないかすばやく確認をして今一度妻を見て、では始めますと静かに言った。

 三、二、一、はじめ。

 電光掲示板の数字が動き始めたのを確認してのち、妻は淀みなく、大声で、憧れの君への想いを空を突き破らん限りに放った。


 制限時間は一分。

 勝負はその時間内に放たれた声量で決まる。

 より大きい声を出せた者が、欲する苗字を得られるのだ。

 敗者は勝者の苗字を与えられることになる。


 終わり。

 審判員の声で妻は口を閉じる。


 妻が電光掲示板を見ていたのは、最初だけ。

 あとはどれだけ伝えようと伝えきれない想いを放つのに必死で時間など気にしてはいなかった。


 妻はすれ違いざま目を細めて夫を見た。

 夫もまた目を細めて妻を見た。


 定められた位置に着いた夫は審判員にどうぞと告げた。

 夫婦ともに準備万全の二人に口の端を上げながら、審判員はまた静かに始めますと言った。

 三、二、一、はじめ。


 夫もまた電光掲示板の数字が動き出してから、口を大きく開けた。

 声の大きさは甲乙つけがたく。

 けれど、決定的な違いがある。

 妻が様々な日本語を以ていたのに反し、夫は一単語。

 好きだ。

 好きだ。

 好きだ。

 語尾を伸ばすことなく、キレのある発音で、ただ好きだを連呼した。

 視線は電光掲示板。

 妻が時間を忘れるくらいに想いを放っていたのに反し、夫は己の手で時間内に留めようとしていた。


 二、一、零。の、零、と同時に、夫は好きだ、の、だを言い終わった。


 


「あなたの気持ちよくわかったわ」

「おまえの気持ちもな」


 椅子に座っていた妻は立ち上がって、己の眼前に立った夫と両の手で以て熱い握手を交わした。

 お互い力を尽くした。

 あとは、結果を待つのみ。


 では、結果を発表します。

 副審判との協議を終えた審判員が夫婦の前に立って、そして、告げたのだ。

 

 妻の勝ちです。


 夫は目を片手で覆った。

 妻は一筋の涙を流した。




「来年は負けないぞ」

「受けて立つわ」


 一人一年に一回しか苗字争奪戦はできない。

 一方が争奪戦を受けていれば、他の者は一年待たなければならない。

 今回。苗字争奪戦に参加したのがたまたま夫婦の二人だけであったが、五百人の時もあった。

 無論、虚構に憧れるものばかりではない。

 文字そのものに惚れて参加する者も居る。




「くくく。来年は」


 夫婦の競合を見ていた人物は背を向けて歩き出した。

 

 


 来年も。

 否。

 次に瞬きする間でさえ、熱い勝負はあちらこちらで行われていた。




 時代は苗字争奪戦に突入していた。







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