第44話 後ろ向きに歩く

 瞼を開けると、そこはモルタヴァではなかった。

 多分、現実世界ですらなかった。

 

「ここは……?」

 

 懐かしい香り、懐かしい風、懐かしい草木のざわめき。

 ああ、そうだ。

 ここは俺が逃げ出した、ピクトスカイ村だった。

 

 昔、三人で遊んだ小さな草原。

 俺は立ち上がり、記憶の隙間を漂い始める。

 結局俺の心は、ここに取り残されたままだったのか。


 ……俺は後ろ向きに歩く。

 

 誰もいない村の中心では、ある二人の男女が剣を取り合って甲高い音を立てていた。

 俺と、エルーシャだ。

 女の方は悲壮な面持ちで、容赦なく男を切り刻んでいた。

 目に映っていた俺は、腕を斬り落とされていた。

 斬り落とされた腕は、回復する事によってまた芽生えていた。

 その時の俺も、今の俺も、空しい表情をしている。


『これはあなたの為なの……! あなたの為を想って言っているの! あなたが私のいない間に、テルースみたいに殺されたら……!』


 繰り返された常套句。

 まるで昨日の事の様で、俺には当たり前だった。


 ……俺は後ろ向きに歩く。


 テルースの墓の前に着いた。

 まだ新品の十字架を前に、また二人の男女。

 二年前、15歳のエルーシャと、14歳の俺。

 その後ろ姿を見つめていると、記憶通りの会話を二人は始めた。

 

『俺は君の傍から離れない。俺がいる』


『……じゃあお願い。あなたは死なないで。永遠に私の隣にいて』


『俺はずっと、お前の隣にいる。いなくならない』


『約束だよ……守れるように私、あなたを最強にするわ』


『分かった。俺は君の隣で、死なない存在になる』


 それが、嘘つきの始まりだった。

 そう約束しなければ、エルーシャという人間まで壊れてしまうような気がしたんだ。

 どうして壊れてほしくなかったんだろう。

 ……俺にとっても大事な人だったから。最後の人だったから。

 結局俺達は、一人になるのが怖かったんだ。

 トゥルーに言った通り、俺達は失ったものへの悲しみ方を間違えてしまった。

 

 ……俺は後ろ向きに歩く。


 俺はかつて住んでいた孤児院の扉を開く。

 俺達が世界の約束を知った、惨劇の夜だった。

 

『俺が……守るって……!』

 

 俺が扉を開けると、足元にテルースが転がっていた。

 死んでいた。守れなかった。

 本当に一瞬で、頸動脈から命が散っていった。


 そんな風に冷たくなったテルースを抱き上げながら、俺は泣いていた。

 同時に初めて殺した敵を、後ろに置きながら。


「…………」


 ……俺は後ろ向きに歩く。

 ……俺は後ろ向きに歩く。

 ……俺は後ろ向きに歩く。


 俺は気付けば、最初の草原で座り込んで耐えていた。

 

 痛い。

 体中が、過去に喰われていく。

 嘘にできない過去に、蝕まれていく。

 耳を塞いでも、目を覆っても、口に蓋しても。


 結局間違ってしまった過去は清算できないし、消化できない。

 全部、俺のせいだ。

 全ては俺から始まって、俺で終わったんだ。

 走馬燈として繰り広げられている紙芝居は、そんな三人の哀しい夢だ。

 

 でも。

 俺が帰りたかったのは、虚しい後の祭りじゃない。

 まだ、何も知らなかった、無知な頃の自分だ。

 

「待ってー! エルーシャ!」


「男のくせに情けないよぉ! あはは!」


「またエルーシャお姉ちゃんの勝ち―!」


 草原を見渡すと、幼いころの俺が駆け回っていた。

 時間は追いかけていた二人から鮮やかさを失っていなかった。


 まだ剣聖ではなく、ただの女の子だったエルーシャと。

 もう最近では顔も声も、遠く思い出せなくなり始めていたテルース。

 そんな二人を家族の様に愛して育ってきた俺。


 

「そんなので私達を守る戦士になるなんてぇ」


「うるさい! 俺はこの村を守る英雄になるんだ! エルーシャと一緒にテルースを守る!」

 

 これから待ち受ける悲劇も知らず、世界の裏側も知らない。

 青空でも雨模様でも星空でも、俺達三人はいつまでもずっと遊んでいた。

 無邪気で、純真無垢。

 

 そうだ。

 戻らないと知っていても、こうやって思考も無く駆け巡る毎日。

 俺が帰りたかったのは、この草原だったんだ。

 

「お兄さん、誰?」


「知らない人?」


「うん、お兄ちゃんもお姉ちゃんも知らないなら、私も知らない」


「でもライに似ているね」


「うん、ライお兄ちゃんに似てる」


 三人は俺の存在に気付き、声を駆けてきた。

 記憶が、過去が、三人の手が俺を掴む。

 

「じゃあ大人の俺、一緒に俺達と遊ぼう」


「……ああ、子供の俺」


 俺は久々に鬼ごっことか、かくれんぼとかを、いつまでもやった。

 捕まって、捕まえられて。見つかって、見つけて。

 その単調な繰り返しが、ただ愛おしかった。

 ここが、俺の終着駅。やっと辿り着いた、安息の地。

 

 多分、エルーシャもテルースもこんな笑顔だったはずだ。

 村は何一つ壊されていなくて、平和そのもので、これから先三人を引き裂く出来事も無かった筈だ。

 

 一瞬という永遠だけが、俺の安らぎ。

 みんなを引っ張る、優しくも強いリーダーだったエルーシャ。

 みんなを心配する、優しくて守りたかったテルース。

 そしてそんな二人にとって、もう一人の家族だった俺。


 俺はこのまま遊んでいれば、自分がどうなるか分かっている。

 あの気持ちの悪い空が沈んで、俺達を潰せばどうなるか分かっている。

 だけどその先の世界も、俺にとってはやっと訪れた安らぎだ。

 もうこれで、俺の周りで誰も死ななくて済む。



 ……それにしても一つだけ記憶にない音がある。

 左腕に巻きついて離れない、腕時計。

 

 こんなもの、エルーシャとテルースの記憶にあったっけ。

 もういいでしょ。

 時間よ回るな。止まれ。

 このまま時間が存在しないような、ゆっくりとした眠りに着かせてくれよ。

 

 ライという嘘は、もうこれでおしまい。

 後はこうやって四人で草原に横たわりながら、醒めない夢の中で眠り続けるだけ――。


「ねえ、三人は仲良しだね」


「うん」


 頷いたのは、幼いエルーシャだった。


「このまま二人を守れる、物凄い騎士になるの。そうしたら三人で、見たことのない世界に行けるから」


「……テルースは、何になりたいの?」


「私はエルーシャみたいに体は強くないけど……料理が大好きだから。いつか店を出したいな」


「食事は体を作るもんね」


「テルースの料理、美味しいからな……!」


 今日の夕食も楽しみにしていた、誰よりも食べる事が好きだった子供の頃の俺にも、聞いてみた。


「子供の頃の俺は、何になりたいの」


「……俺もエルーシャみたいに強くなる」


「えー、ライじゃ無理だよ。私に一回も勝てないじゃん」


「でもエルーシャみたいに、毎日遊んで、テルースの料理を食べていたいなぁ……このままこの日常がずっと、続けばいいなぁ」


「……」


 無邪気に、素直に、屈託なく綴る幼い頃の自分から目が背けられなかった。

 他の二人も、だ。

 この三人の夢は、叶うことが無くなったんだ。


 エルーシャは最強でも、もう二人を守るという夢を果たせなくなった。

 テルースは永遠に料理を作る事が出来なくなった。

 俺は何も味わえず、ましてやその日常から逃げ出した。


「そうだね。ずっとそんな風に夢見る時が、永遠に続くといいね」


「でも、大人の俺はそれを壊したんでしょ」


「うん。君達の未来は……」


 そう言いそうになった時には、俺は血の海に揺蕩っていた。

 テルースの首から溢れた血。その中にテルースは揺蕩っていた。

 エルーシャが復讐してきた血。返り血でエルーシャは彩られてきた。

 俺が意味もなく殺してきた血。その中心に、怪物が立っていた。

 ギロチンにでもかけられた死刑囚の様に、三人が冷たい眼で見てくる。


「俺達の未来は……ずっと、このままだ」


 そうか。

 もう俺に、帰る場所なんてなかった。

 だって俺の村はもう、血生臭さで終わっている。


 まあでもいいや。

 このまま眼を閉じれば、死と言う概念すら忘れられる。



「ライお兄さん、みーつけた!」


 それでも腕時計の針はくるくると回っていて。

 まるでそれを足掛かりに来たかのように、二人の少女は立っていた。


「まったくもう、まったくもうなのですよ。捕まえたって奴なのですよ」

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