八頁 卑怯者の策



 助けてくれ、今、ストーカーに追われているんだ――。


 ……彼がそんな助けを受け取ったのは、そろそろ眠りにつこうかという頃合いの事だった。


 携帯電話から繋がる先は公衆電話で、電話の主はまだ声変わりもしていない少年の物。

 最初はイタズラ電話の類と思っていた彼だったが――その聞き覚えのある名前と、少年の酷い焦りようを聞き、事実であると認識するのにそう時間はかからなかった。


 少年とは付き合いの浅い、それこそ友人と呼べるかどうかも定かではない関係であった。

 しかし知った顔である以上、聞かない振りをする訳にも行かない。

 彼は咄嗟にバットを手にして家を飛び出し、電話で指定された場所へと走りだした。


 友情、義務感、焦り、興奮。当時の彼の心には、幾つもの感情が渦を巻いていた。

 その中でも一際大きく存在を主張していたのは、やはり「申し訳無さ」であろう。


 かつて彼は電話の主を見捨てた事がある。

 率先してそうした訳では無かったものの、その過去は小さくない刺として心を苛んでいたのだ。


 ――しかし、ここで助ける事が出来れば、少しは救われるかもしれない。


 彼は無意識の内にそう思い、夜の闇を駆ける。

 ストーカーとは、警察への連絡より先に自分へと助けを求めたのは何故か。

 そんな疑問は浮かばなかった。例え浮かんだとしても、自分の都合の良いように考えただろう。


 同年代よりも数段大柄な体躯と、それに伴う高い身体能力。精神的に脆い彼であったが、肉体的には少しばかりの自信があった事も手伝った。

 彼は力の限り足を動かし、電話の主の想像を上回る速度で現場へと到着し――結論として、これ以上なく鮮やかに利用されたのだ。


 ――彼、桜田竜之進。


 完全なる一般人であった彼は。

 何一つとして委細を理解しないまま、怪異の中へと放り込まれていた。





(今ッ! これが最後の……!)


 ようやく訪れた、最大にして最後のチャンス。

 その隙を逃さず、指先に肉液をこびりつけ後ろ手に文字を書く。

 逆さまになろうが『界』は『界』。そしてズタボロではあるが花子さんも健在だ。ならば――!


「っ、貴方、何を!」


 不審な僕の動きに気づいたのか、それとも霊力の流れでも感じたのか。

 声に気を取られていた髪飾りの少女は、今度こそ指を下ろす。火球が僕へと走るが、もう遅い。


「……え? な、何だ、景色が……」


「くっ!?」


 ガラスの割れるような音と共に空間が揺れ、火球のすぐ前に人影が出現した。

 咄嗟に火球を掻き消した彼女を他所に、僕の意を汲んだ花子さんが無数の青白い腕を用いてその人影を素早く拘束。

 叫び声を上げる彼を見せつけるように、中空へと晒し上げる。


 丁度、僕の盾となる位置。

 髪飾りの少女とキツネ目の男は動きを止め、強くこちらを睨みつけた。


「う、うわぁッ! 何だ、手が、何なんだよ、おい!」


 そんな中、状況が分からず花子さんの拘束を外そうと藻掻く少年が一人。


 桜田竜之進、リュウ君。

 ひょっとしたら、僕と良い友達になれるかもしれなかった少年だ。

 現状把握が満足に出来ていない彼は、酷く混乱し怯えた表情を見せている。


(……ごめん。けど、こうでもしなきゃ僕は死ぬんだ)


 胸裡に盛る罪悪感と自己嫌悪。

 それらを必死に堪え、非情の仮面で心を覆った。





 ――僕が立てた作戦。それは無理矢理にでも交渉の場を作る事だった。


 華宮と相対する前に、予め小路の中に設置されている公衆電話で彼を呼び、逃げ回りつつ時間を稼いで到着を待つ。そして今のように人質に取り、盾とする。

 徹頭徹尾行き当たりばったり。そもそも髪飾りの少女達を善性と仮定し、人質が効く前提での作戦だったが――結果的には成と出た訳だ。

 落ちた眼鏡を拾い、改めて彼女を見れば、その瞳には嫌悪の激情が揺れていた。


「……動くな、なんて言わなくても分かってるよね」


「貴方は、一体どこまで卑劣なッ……!」


 呼吸を整え口を開けば、想像以上に低い声が出た。

 そしてそれに反応したのか、リュウ君は即座にこちらに視線を向け、安心したような笑顔を見せる。先程の会話は意識の外にあったようだ。


「あ、お、お前ここに、ああ、無事で。いやそれより助けてくれよ! 頼む! この何か変な腕、俺掴んだまま離れねぇんだ!」


「…………」


 当然、それには応えない。

 助けを求める彼の顔をまともに見れず、歯を食いしばりながら視線を外した。


「お、おい? 聞いてんのか? おい、おいって――ッガ!」


 突然火花が弾ける音が響き、彼は唐突に意識を失った。

 見れば、道端に転がる花子さんが再生した左腕をひらひらと振っている。

 気を利かせて、十八番の気絶技をかけてくれたらしい。


「ッ! 分かりました、言う通りにしますから、その方に手を出さないで!」


 そしてその光景をどう見たのか、髪飾りの少女は眦を釣り上げ栞をくしゃりと握り込む。

 彼女の傍らに立つキツネ目の男も銃を捨て、苦い顔で口を開いた。 


「しかし、おかしいですネェ。そこの方……君の知人のようですけども、小路周辺に張らせた者からの報告は無かったんですが……?」


「あんたら、この怪談の絡繰はもう粗方分かってるんでしょ。ならどっから入ってきたか予想できると思うけど」


「……あぁ、成程。文字があったのはここだけでは無かったと。こりゃ盲点」


 そう、実を言えば、リュウ君を呼び出したのはここでは無い。

 歌倉女学院の前――以前僕達が侵入の為に『異小路』の条件を揃えた道だった。

 相手が組織と仮定する以上、僕をこの小路から逃がさないように、或いは他者を巻き込まない為に人員を配置する事は目に見えていた。その対策だ。


「この怪異は空間を操るみたいですからねぇ、別の印を付けた場所からご招待した訳ですか。それも、わざわざ肉盾にする為に」


「……心底呼び出しといて良かったと思ってるよ。彼が来るまで、他に代わりになるような人は通らなかったからね。正直、焦ってた」


「ははぁ、そうですか。では一つお聞きしたいのですが……何故、君はそれを使ってここから逃げなかったんでしょうかね」


 すぅ、とキツネ目が更に細まり、僕を射抜く。

 髪飾りの少女の視線と合わせて恐怖に震えそうになるけど、おくびにも出さない。出して堪るものか。


「それどころか、君はこちらに攻撃らしい攻撃もしてこなかった。前にここで起こした怪異では、人を肉の粘液へと変えていたと記憶しとりますが」


「大方、私達の手からは逃れられないと悟ったのでしょう。だから人質などを取り、脅迫をする……!」


「……まぁ、目的としてはそれで間違っちゃいないよ。でも、それは……」


 でも?

 でも、何だ?

 これは理由があればやっても許される事なのか?


 否、断じて違う。

 人の想いを踏みにじる行為は、絶対に許されてはならないもので――だからこそ、僕は今に至っている。決して、飾ってはいけない。


「……いや、そうだね。僕は今から、あんた達に命乞いをするんだ。彼を死なせたくなければ僕達を見逃せと、情けなく、無様にね」


「……人質を離すのならば、命は助けましょう。記憶と怪異法録、そしてそこの霊魂に関してはその限りではありませんが」


「だから、ダメなんだよ。それじゃ」


 もう何度か聞いたその選択肢に対し、僕は今回も首を振った。

 少女の怒りが更に激しく燃え上がる。


「……貴方は、それ程に手放したくないのですか。怪異法録、人を不幸に陥れる力を、そこまで……!」


「手放したくないね。最もそれは怪異法録じゃない、めいこさん達の方だけど」


「めい……? 何の話ですか?」


 僕は息を一つ吐き、頭の中を纏める。

 そうだ、僕が彼女達に要求する事は――目的を叶える道は、ただ一つ。


「――単刀直入に言う。どうか僕を。僕達『三人』を、あんた達の保護下に置いて欲しい」


 ……深く、頭を下げる。

 空気が凍てついた音を、聞いた気がした。

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