七頁 対峙(下)



「――炎の樹。焔の大灯ッ!」


 力強き詠唱。

 一際大きな霊力が脈動し、灯桜の持つ栞が燃え上がる。

 それを媒介として現れた巨大な火球が、直線上にあるものを須らく焼き尽す。


 壁も、その先にある森も。

 霊力で編まれたまやかしは皆蒸発し、後に残るのは焦げ跡で出来た道。


 灯桜と冬樹は未だ煙を吹くそれを渡り、小瓶が示す方角へと一直線に走る。

 さやまの森に霊力が散らされ、まともな探知が出来ない今、唯一の信用できる道標だ。


「えーと、次は右――いや、逆。左に変わりました、反対!」


 灯桜は再び栞を取り出すと、冬樹の指示した方角に火球を放ち、強引に道を作り出し、渡る。その繰り返し。


 どうやら、少年が操る怪異は、常に変化を続ける迷路のようなものらしい。

 しかも道筋と同時に彼我の位置関係までも変化しているようで、どれ程追いかけても彼の姿を捉える事が出来ないでいた。


「黒幕ならどっしり構えてて欲しいもんですが。あっちこっち居場所を変えてグルグルグルグル、本当いやらしい」


 今まさに示す方角を変えた小瓶を見ながら、冬樹はうんざりしたように愚痴を零す。

 単に異界へ誘われただけならばいざ知らず、地形まで変化させこちらの妨害をし続けている辺り、少年の用心深さと性根の悪さが伺える。

 今まさに開けた壁の穴が修復されていく光景を見ながら、灯桜も眉を顰めた。


(さて、どうする?)


 このまま異界を焼却し続ければ、怪異は直に消滅するだろう。

 どれほど少年が異界の復元を続けようと、彼の持つ霊力が極めて微量である以上、例え怪異法録の補助があろうとも必ずどこかで破綻が起きる。

 重なる負担はそう遠くない内に彼の許容量を超え、やがて異界の維持すら出来なくなる。

 そうなれば後は容易く追いつき処理できる筈……なのだが。


(それはきっと向こうも分かっている筈。なのに、何故留まっている……?)


 そう、少年が本当に逃走を主目的に置いているのならば、既に現状に見切りをつけ、この怪異を足止めに何処かへと逃げ去っているべきなのだ。

 しかし、彼は異界内に留まり目立った攻撃すらしてこない。

 抵抗の方法が無いのか、それとも何か狙いがあるのか。

 疑念が加速度的に増していく。


「あー、何かヤな予感しますよネェ。こう、あからさまに時間稼ぎされますと」


「……やはり、水端さんも引っかかりますか」


「そりゃまぁ。絶対に逃げ切ってやる、なんて大見得を切ってこれですもの」


 冬樹は周囲を注意深く観察しつつ、肩を竦めた。


(……一度、立ち止まるべきでしょうか)


 彼も同じ疑問を抱いているとなれば、決して自分の考え過ぎという訳では無いだろう。

 そう判断した灯桜は足を止めると、周囲に霊力を籠めた栞をばら撒いた。

 それらは瞬時に陣を成し、悪意を弾く簡易的な結界を展開する。


「おや、作戦タイムですか?」


「はい。このままでも少年は捕らえられるでしょうが、時間稼ぎの目的が気になります。……彼の狙いについて、何か思い当たる事はありませんか?」


 灯桜には、事あるごとにすぐ冬樹を頼る癖がある。

 高位の霊能力者とはいえ未だ年若い彼女にとって、経験豊富な警察官である彼の見識や技術は得難い物だ。

 長年の付き合いによる深い信頼もあり、彼の肩へもたれ掛かる事に遠慮は無かった。


「うーん、そう言われましてもネェ。経験上この手の物は私らを返り討ちにしようとしてるか、協力者との合流を図っていたってのが大抵のオチですが……」


「……逃げる事も攻撃する事もしていませんし、彼に仲間が居るとも思い辛いのですけれど」


「まぁ後は怪異法録を用いたオカルト作戦の内ってのが有力ですが、灯桜さんが分からないんなら私にもお手上げですよ。お手上げ」


 ばんじゃーい。

 情けない顔で両手を上げる冬樹に、しかし灯桜は眉の一つも顰めない。彼の言葉がそれで終わる筈は無いと信じているのだ。

 そんな真摯な信頼に冬樹は苦笑を漏らし――上げた両手の指を曲げ、とある一点を指し示す。


「でもまぁ、気になるものはありますよ。ホラ、そこの壁」


「え……?」


 咄嗟に示された場所に視線を向ける。

 そこにあったのは最早見慣れた石壁と、その先に続く森林。霊力で編まれた、まやかしの異界だ。

 疑問に思いながらも、冬樹の言った事だと深く注視し――そして、気づいた。

 壁の下方。雑草に隠れるようにして、『界』の文字が小さく書き記されている。


「……落書き、でしょうか」


「さぁ、詳しい事はよく分かりません。でもそれ、よくよく見れば色んな所にあるみたいで」


 冬樹の言葉に改めて周囲を見回すと、確かに様々な場所に『界』が散らばっている。

 同じ落書きは以前にも一つ見た事があるが、どう見ても不自然な光景だ。


(……この、インク。森の所為で霊力が散らされて、上手く探知できないけど、もしかして小瓶の……)


 そうして、灯桜が軽く文字に触れた――その瞬間、ぱちりと指先に衝撃が弾けた。

 儚く、薄い、霊力の迸りである。


「……成程」


 幾ら霊力の散らされる場と言っても、直接触れれば察知は容易だ。

 そしてたった今感じ取った物は、数日前に夜の歌倉女学院でこの身に感じたものと同じそれ。

 灯桜の口端がうっすらと上がり、瞳が鋭く細められる。


「やっぱり何かしらありましたか、霊的なアレソレ」


「ええ。彼らの目的はさておいて、手段に関しては、少し」


 そう言って冬樹にも笑いかけ、服の袂から新たな栞を一枚摘み、霊力を込める。

 和紙の繊維に染み込ませるように、深く、静かに。

 糸を手繰るような精密さを持って意識を研ぎ澄まし――そして。


「――桜火、葉脈照らし」


 パン、と。

 言葉と共に栞が弾け、現れ出たる無数の閃火が黒のインクへと殺到した。





『――ッ、ぐ』


 ふと、くぐもった声が背後で聞こえた。


「……花子さん?」


『い、や。何でもない、何でもないよ。それより早く文字書きな』


 振り向き花子さんを見てみれば、彼女はニヒルに口の端を上げ作業の先を促す。

 見た限りでは、何も異常は無さそうであはあったが――鼻先に嘘の匂いを感じた。

 今更花子さんを疑うような事は無いが、自然と眉間に皺が寄る。


「あの、本当にどうしたんですか。何か気になる事があったら言ってよ」


『はは、大丈夫、だって。ホント、何も無い……から』


「でも様子が……、?」


 カサリ。途中でめいこさんが揺れた。

 花子さんへの追求を続けるべきか一瞬迷ったが、それは後でも出来ると手早くめいこさんに視線を落とし。


『たいへん。「異小路」に何者かの、たぶん、はなみやの干渉を、受けています。核となる花子さんが、危ない――!』


 勢い良く顔を上げ、再び花子さんを見た。

 その顔はやはりすまし顔だったけど、今なら分かる。

 あれは、苦痛を内に押し殺した表情。昔に鏡を通してよく見た顔だ。


「っ、花子さん! あんたまさか、」


『――っぐ、うぁぁッ!』


 ――慌てて近寄ろうとした途端、彼女の二の腕から火が吹き上がる。

 それは決して大きな炎ではなかったが、その身体を確実に焼いて行く。

 花子さんは取り繕う余裕もなく、顔を大きく苦痛に歪めていた。


『た、たぶん、書き残した文字を通し、直接怪談に、霊魂へ攻撃を……! ああ、はなこさん。はなこさん!』


『……平気、平気さ。ちょっとヤケドしただけだからさ……アタシの事はほっといて、早く文字を……』


「そ、そんな事出来る訳無いだろ! くそ、今すぐに怪談から外して……!」


 作戦の事なんて頭から消えていた。僕はめいこさんに『解放』の二文字を念じ、後先を考えないまま右手を振り上げ――その手を誰かに掴まれ止まる。

 焼け焦げ、ボロボロになった腕。

 怪談の再現に伴い実在化した花子さんの指が、手首の粘液に絡まっていた。


『馬鹿な事するんじゃないよ……! 今怪談が消えたら、アンタなんてすぐに捕まっちゃうだろうが!』


「で、でも、こんなになってるのに!」


『忘れたのかい、アタシはめいこが居れば頭ァふっ飛ばされても元に戻る! だから、こんなもん屁でも無――い、っぎ!』


「花子さんッ!」


 言葉を遮るように、今度は背中から炎が飛び出す。

 彼女の言う通り霊魂の復元能力が働いているのか、手首を掴む指が徐々に綺麗な物へと戻って行く。

 しかし、だからと言って放っておけるものか。

 僕は必死に腕を動かそうとしたけど、万力に掴まれたかのように動かない。


『……アタシがこうなってるのは、怪談自体が燃やされてるからだ。書き記した「界」の文字が、片っ端から無くなってる感覚がするんだよ』


 そして今の状態が長く続けば、やがて『界』は全て無くなり空間の入替えも出来なくなるだろう。

 時間稼ぎどころか、逃げる事すらままならなくなる。

 ……炎に巻かれながら、彼女は必死にそう伝える。


『い、今だって、華宮の居るとこは文字が燃えて動かせなくなってるんだ。そしたらあの娘らが追いつく前に、文字増やして備えなきゃいけないだろ!』


「…………」


『心配しないでも、これが終わったら埋め合わせは求めるさ。だから――ぐぅッ、ち、ちょっとくらい我慢しておくれよ……!』


「……く、そッ!」


 今、一番我慢している花子さんにそう言われてしまったら、もう何も言えないではないか。

 僕は自分自身に対する悪態を吐き捨て、彼女の手を振り払い壁に向き直った。

 背後に響く苦痛の声は一先ず無視。現状を乗り切れたら、後で土下座でも切腹でも何だってしてやる。


「めいこさん、今あいつらはどこに居て、どこの文字が消されてるか分かる?」


『え、ええと。地図に表すと、こんなかんじ、であります』


 そうして手帳に映しだされた地図は、かなり酷いものだった。

 華宮の周囲には尽くバッテン印が付けられ、離れた位置の文字の多くまでもが焼滅済み。

 これでは花子さんの言う通り、空間の入替は出来そうになかった。

 完全に怪談の絡繰がバレている。

 焦燥、怒り、嘆き、憤り。溢れ出そうになる負の感情を歯を食いしばって抑え込み、地図上の華宮を強く睨みつけ。


「……?」


 ふと感じたのは、強烈な違和感。

 気の所為だろうか。先程からずっと、華宮は一箇所に留まったまま動いていないように見える。

 いや、現に動いていない以上、気の所為ではない。

 文字を消す為に何かをしている最中なのか、単に休憩しているだけか。それとも。


(何だ、何か変だ……!)


 重大事に気付けていないような、そんな引っ掛かり。

 僕は壁に文字を記す事も忘れ、僕達の位置を、華宮の位置を、バツ印の位置を何度も何度も確認し――。


「――ッッ!」


 ――印の多くが僕へ向かって一直線状に並び、今この瞬間すぐ近くに一つ増えた。

 その意味に気付いた瞬間、僕は花子さんへと跳びかかっていた。


『っぐ、何をッ――!?』



 ――轟!



 直後、極大の火炎球が僕達の居た場所を通過した。

 壁を抜き、地面を焦がし、荒れ狂う灼熱の暴風を必死に耐える。

 もう少し察知するのが遅れていたら、一瞬でお陀仏だっただろう。


『……っ、早く起きな! この辺り、さっきので文字が……!』


「全滅だってんでしょ!? 分かってるよそれくらい!」


 打ち付けた膝を擦りつつ身を起こし、痛みを堪えてひた走る。


 今の一撃の余波で、付近にこしらえていた『界』は全てお釈迦だ。

 既に壁の穴から足音は聞こえているし、こうなれば新しく書くより文字のある場所まで走った方が早い。そう、思ったのだが。


「! ひ、うわああぁッ!」


 しかし、またもや火球が壁を突き抜け足元に着弾。堪らずバランスを崩し、無様に地面と抱き合った。

 どうやら最後の追い込みをかけてきたらしく、その後も連続して華炎の雨が飛来する。

 すぐ頭上を通る無数の熱が恐怖を煽り、頭を抱えたまま動けなくなった。


「……っく、クソ、クソ、クソッ!」


 いや、駄目だ。

 まだだ。まだ諦めない、諦めてたまるか。

 這うようにして手近な壁へと縋りつき、手首を擦り付け大きく「界」の文字を引きずった。


『もう片方も早く! 残ってる場所とすぐに入れ替える!』


 花子さんが手を引いて反対の壁に引っ張ってくれるが、返事をするのももどかしい。

 僕は半ば投げられるようにして道を横断。いつかのように壁に頭を強打し、眼鏡が落ちて――そこで、時間切れだった。


「――見つけたッ!」


「!」



 ――耳朶を打つのは、鈴の転がるような澄んだ声。


 咄嗟に視線を向けると、壁の穴から飛び出した髪飾りの少女の姿があった。

 その整った顔は僕の視力ではハッキリとは分からなかったが、疼く右眼は強くそれを感じている。

 そう――強烈な、敵意をだ。


『チッ、もうちょっとだけ迷っててくれりゃ良かったのにさァ!』


「――桜の火、焔の灯ッ!」


 花子さんが大きく手を広げた途端、夜闇の中から無数の青白い腕が伸びる。

 自らの世界へと連れ去り、跡形もなく消し去るという『異小路』の末文、その顕現だ。

 彼女の合図に従いそれらは鋭く空を裂き、華宮を捕らえんと殺到する。

 しかし同時に放たれた火球によりその尽くが焼却され、霊力の欠片へと還ってしまう。


(足止めにもならないのか……!)


 その様子を音で把握しながら、僕は肉液を壁に押す。

 そして、もう少し。

 界の介の人、その払う一角を加え『界』を完成させようとしたその瞬間、前触れ無く壁が爆ぜ、『界』の一部が抉られた。


「なッ――!」


 反射的に振り向けば、華宮の影から一人の男が何か黒い物を向けていた。

 当時眼鏡を外していた僕には分かるべくもなかったが、キツネ目の男が拳銃による狙撃をしたのだ。


『ぐ、うあぁぁぁあぁぁぁッ!』


「花子さん!」


 花子さんも押し寄せる炎を押し止められず、左半身を焼かれ崩れ落ちる。

 そして、倒れた彼女の身体の向こう。そこには当然炎があった。

 長い長い年月をかけ、幾人もの僕の前任者達を焼き殺した、慈悲の熱。

 そしてそれは今度は僕を燃やすべく、少女の指先で踊っている。


(――死ぬのか、僕は)


 命の危機を直接視覚に収めた影響か、流れる時間がとても遅い。

 動向が収縮し、毛穴が開き。体の芯から熱い何かが吐き出されていく。


 死にたくない。


  死にたくない。


    死にたくない……!


 極度の緊張、極度の恐怖。


 僕が見ている中で、彼女は。


 単なる的でしかない僕目がけ、炎を纏うその指を、振り下ろし――――。





「――お、おーい! 誰か居ないのかぁ……?」





「!!」


 ――この場に居る誰のものでもない、一つの声。

 それが響いた瞬間、二つの事が同時に起こった。


 一つは、声に気を取られた少女が一瞬動きを鈍らせた事。

 もう一つは手に持つめいこさんが僅かに震えた事。


 そしてその余白の数秒の中で、とある一文が彼女の内に記された。即ち。



『――まちびと、とうちゃく、ですっ――』

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