四頁 誘手



 ――歩く、歩く、歩く。


 靴底を鳴らし、小石を蹴飛ばし。

 決して急いでいる事を悟られぬよう、出来得る限りの自然体で住宅街を進む。


『……離れないよ、あの男』


 壁に身を潜める花子さんの声に、懐中電灯を回すフリをして背後に意識を向ける。

 レンズを通さないぼやけた世界。それも闇に覆われているため、よく見えなかったけれど――微かに。本当に微かに、靴で砂利を擦る音が聞こえた。

 花子さんから教えられなければ、絶対に気づけなかっただろうそれは、確かに人間の放つ音。

 ぞっとして、血の気が引く。


(……あの、本当なの? その、今つけて来てるのが……)


『多分ね。アタシもあん時にチラッと見えた程度だけど、あのキツネ目はそうだった筈さ』


 確かに、歌倉女学院から逃げる際、髪飾りの少女を助け起こしていた男が居た。

 僕と違って視力の良い花子さんの言う事だ。まず間違いないと言って良いだろうし、実際につけられている以上否定する材料は無い。


(くそ、何でバレたんだ。確かに顔は見られてたけど、それだって……!)


 いや、むしろ今までよくもった方と言うべきか。

 しかし、いきなり火の玉が飛んで来ない所を見る限り、あちらもまだ完全には僕の情報を把握していないのかもしれない。

 だとすればまだ、希望は潰えていない筈だ。


『でもどうする? 何とかして撒かないとかなりヤバいよ』


(分かってますよ……!)


 姿の見えない男の気配に怯えつつ、考える。

 まず撒くとしても、僕はどう動けばいい。

 家には戻れないとして、街中まで行って人ごみに紛れるか?

 いや、それには街まで続く無人の道を通らなければならない。

 住宅街と違って完全に人の気配が無い場所だ、襲いかかられない自信は無かった。


 では当初の予定通り、さやまの森に入って隠れて――いや、それもダメだ。

 あの華宮の少女が言っていた「サヤマの怨念」と、さやまの森に本当に関係性があったとしたら、逆に煽る事になりかねない。

 どうすれば逃げられる。切迫した状況に脂汗が滲み、思考が空転し始めた。


《……足、止めちゃダメだよ。自然に、考えが出るまで時間を稼いで歩くんだ》


 男の様子を見る為に離れているのか、花子さんの声が脳内に響く物へと切り替わる。

 動かす足は酷く重たく、不自然の無いよう歩く事に苦労した。

 そうして男の気配を張り付けたまま 、十分程歩いただろうか。とうとう小路の前まで辿り着く。

 ……そう。人気の無い、細く昏い道の前に、だ。


(畜生、どっか行ってくれよぉ、頼むから……!)


 これ以上の引き伸ばしは不可能に近い。

 良い考えは未だ浮かばず、身が震える。


《……こうなったらもう、一か八か賭けるしか無いかもしれないね》


(……走れ、って?)


《ああ。この小路、蜘蛛の巣みたいになってんだろ? でもアンタには土地勘があるんだ。逃げ切るのは決して不可能じゃない……と思うよ》


 まぁ、土地勘に関しては地元民としてそれなりに持っていると自負している。

 しかし動くと同時に、男はこちらが逃げようとしている事を確実に悟るだろう。

 そうなれば命がけの鬼ごっこの開幕である。正直、体力的には不安しか無い。


(でも、他に有効な方法は……)


 大体にして、既に仲間を呼ばれているのかもしれないのだ。

 花子さんによれば追いかけてきているのは一人だけのようだが、それも何時増えるか分かったものじゃない。

 それでもし髪飾りの少女が召喚されでもしたら、その時点で終了。

 オカルト組は焼かれ、記憶を失った僕は元の糞メガネとなり山原の居ない日常を謳歌する。


「…………」


 一瞬、『異小路』を使って男を異界に葬る事も考えたが、それでは何も変わらない。

 深呼吸を一度すると右眼を抑え、花子さんへと呼びかける。


《……やるかい?》


(失敗したら一生恨むぞ……)


《いやそん時ゃ全部忘れるだろ……上からキツネ目の動き見て伝えるから、頑張んな》


 ポン、と頭に手を置かれた感覚がした。当然、錯覚だろうけど。

 僕は無理して口角を歪めると、痙攣する腹底に力を込めて抑え込む。

 懐中電灯を握り直し、眼鏡をかけ、前方をしっかり照らして進路オーケー。


(やる、やる、やる。逃げ切るしかない、僕には……!)


 そうして僕は一際強く歯を食いしばり――その一歩を、震える足で踏み込んだ。





「――!」


 背後で一際大きく砂利を擦る音が聞こえた。が、気にせずダッシュ。

 僕の走力なんて見られたもんじゃないけど、それでも歩くよりはマシだ。

 軽く息を上がらせ、枝分かれする道を走り進む。


『向こうも追ってきたよ! 左の道を走ってるから右寄りな!』


 花子さんの指示に従い右の細道へと舵を切り、高揚する脳に地図を開き逃走経路を構築する。

 どう進む。

 このまま街に出るか。

 それとも裏を突いて住宅街に戻る道を行くか。

 僕は懐中電灯を握り直すと、次の分岐を更に右へと――。


《っ、ダメだ! そっち迂回! アイツ先回りしようとしてるよ!》


「は、はぁッ?」


 花子さんの言葉に急ブレーキをかけ、咄嗟に進路を変えた。

 その際転びかけ足を挫きそうになったが、ぐっと堪えて立て直し。

 走りながら顔を上げ、闇空に紛れ見えない彼女へ抗議の視線を送る。


《知んないよ! 何かアイツ、ピンポイントにアンタを察知してるんだ! 今だって迷いなくそっち向かってる!》


「くそッ!」


 最早隠す事無く悪態を突き、小路のより深い場所へと全力で走る。

 森が深まり道が入り組み始めるが、何故か男を振り切れない。

 どれ程イレギュラーに動こうとも、花子さんの警告が降ってくるのだ。


「っな、なん、だよっ! は、発信機でも、付いてるって、のかッ……?」


 もしくは、そういった追跡の為の超能力があるのかもしれない。

 何だよその反則、考えが甘かった事を後悔したがもう遅い。


《右の道、次左! まずい、どんどん距離が……!》


 そうこうしている内にすぐ近くから足音が聞こえ、咄嗟に背後を振り向いた。

 そこに男の姿は無かったが、しかし近くに居る事は確かだろう。

 どうすればいい、どうすれば。

 焦燥に灼かれる頭で考えるも意味は無く、逆に疲れと緊張で思考が働かなくなっていく。

 そして弾けそうな程に心臓が脈打ち、激しい運動の所為もあり強い吐き気が押し寄せて。


《早く角を曲がって! もう見えるよ!》


「――ッッ!」


 その悲鳴のような声を聞いた瞬間、気づけば僕はめいこさんを取り出していた。

 本当に、無意識の行動だった。

 きっと何らかの怪談を再現させ、窮地を脱しようとしていたのだろう。

 どの怪談の条件も満たしていない事も忘れてだ。


 後悔や罪悪感は消え失せ、ただ逃げる為だけにそれを行おうとする本能。

 何と浅ましい。結局は、それが僕の本質だったのかもしれない。


《――――!》


 そうして、何もかもがスローモーションになった世界。

 花子さんが某かの叫び声を上げ、振り向いた視線の先、石壁の影よりゆっくりと男の姿が現れる。

 もう駄目だ。嫌だ、失いたくない、捕まりたくない。

 僕はバランスを崩しつつも必死に、思い切り、右手を振り下ろし、そして、




「  ぇ  ……い、こ    っち にぃ ……!」




 ――瞬間。圧倒的な存在感を、背に感じた。


「ッ、ひ」


 度を越した悪寒が全身を包み込み、振り下ろそうとした手が強制的に停止する。

 そして怯えるまま咄嗟に振り向き――ガチリと強い力で頭を捕まれ、勢い良く背後へと引っ張られた。


「がッ!?」


 首が嫌な音を立てて、同時に声が漏れ。

 そのまま崩れかけたアスファルトに全身の肉を強く打ちつけた。

 頭の中に星が散り、激しい痛みと共に感覚がブツリと切れて。

 何が起こったのか、何が居たのか。

 それらのたった一つとして理解する事無く、意識は暗闇へと飲まれ、深い闇へと落ちていく。


 ……ただ、一つだけ。

 白い何かが、視界の端を擽った気がした。





「おっかしぃなァ、何で気付かれたんでしょ……!」


 煩雑に、複雑に。

 大樹の細枝が如く分岐する小路を走りながら、水端冬樹は愚痴を零す。


 追いかけるのは、自らの追う怪異法録の所有者――の、可能性がある少年だ。

 とある道具によりその姿を発見したは良いのだが、聞いていた特徴の眼鏡も無く、加えて話に女幽霊の姿も無かった為、一先ず尾行してその住居を確かめようとしていたのだ。


 しかし、どういった訳か看破されていたらしい。

 ストーキング技術にはかなりの自信があっただけに、割とショックな冬樹であった。


「次は……右!」


 彼は掌に握る何かに目を落とすと、的確に少年の居る位置へと走る。

 視線の先にある物は、澄んだ液体と黒い粘液が入れられた小さな瓶。


 以前、この小路で灯桜が採取した黒い粘液と、霊力を豊富に含んだ神酒だ。

 粘液はまるで生き物のように神酒の中を泳ぎ蠢き、コンパスのように少年の居場所を指し示している。それの持つ霊力と同質の存在を追っているのだ。


 少ない手がかりから生み出した苦肉の術。

 小路の一件で粘液となった、怪異法録の被害者達の一欠片であるという可能性もあったのだが――。


「ま、当たりですよね、この反応は……!」


 必死とも言える少年の逃げ様から言って、何らかの関係が有る事は確実だろう。

 尾行がバレた事はさておいて、プラスに考え追う事暫し。


(示す方向……この角の先か)


 尽く先回りを回避されたが、ようやく追いつめたようだ。

 カタカタと小刻みに揺れる小瓶を一瞥し、速度を落とす。

 油断なく懐から取り出した拳銃を構え、冬樹は勢い良く少年の下へと突入した。


「……、?」


 ……が。飛び出した先に人影は無し。

 あるのはT字路を形作る石壁と、その先に広がる鬱蒼とした森だけ。

 姿どころか足音までもが忽然と消えていた。


「……もしもし、少年くーん? 投降すれば命までは取りませんよー……?」


 決して警戒を解かないまま、ゆっくりと道を進む。

 立ち去る足音も聞こえない、少なくともそう遠くない場所に潜んでいる筈だ。

 否、もしや既に自分は法録の操る怪異に呑まれているのだろうか。

 心の隅に不安が過り、拳銃のグリップを握り直し辺りを見回した。


 何も無いT字路。唯一『界』と書かれた落書きが目を引いたが、それだけだ。

 再び小瓶を見ると、粘液は直ぐ目の前――石壁の向こう側を指し示し、カタカタと強く振動していた。


「…………ふむ」


 冬樹は徐ろに灯桜の霊力が込められた御霊華の花弁を取り出すと、足元の小石をその中に包み込み塀の内側へと弾き入れ、


「――っ」


 バチン!!

 小石が塀を越えようとしたその瞬間大きな炸裂音が轟き、花弁ごと木っ端微塵に砕け散る。

 ……冬樹の額から一滴の冷や汗がれ落ち、アスファルトに染み跡を生んだ。


「……ちょっと、無理っぽいですかね」


 これ以上深追いすれば、自分はおそらく死ぬだろう。

 冬樹は瞬時にそう判断し、身を翻すと脱兎の如く離脱した。


 怪異から生還するコツは、退き際を見誤らない事だ。

 灯桜への連絡は既に済み、最低限の役は達している。無茶をする理由はどこにも無い。


 ――後に残るのは、不気味な静けさを湛え広がる森の蒼。それだけであった。

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