五頁 追憶



 捏ねた血肉は糊となり、砕いた臓腑は墨となる。





 ――あの子が、死んだ。


 村を困らせる悪質な怪異――それは、あの子の事を指していた。

 そうさ、彼女は嵌められたのだ。

 私達が村を去った後も、村人共は変わらず私達を貶し続けていた。

 天候の荒れを、起こった飢饉を、己の不幸を、他人の悪事を。都合の悪い事全てをあの子に擦り付けていた。


 そして奴らはあの家に、あの女に討伐を依頼した。あの、あの……ッ!!


 ……あの子の、身体には。焦げ跡一つ無かった。

 おそらく、それがあの女のせめてもの情けだったのだろう。

 そう、呑ませた花弁を媒介とし、正確に魂だけを焼き屠り、私の目の前であの子を殺したのだ。


 事実を承知の上で。

 ただ怪異の血が入っていたというそれだけの事で、あの子を騙し、殺した!


 ――認められるか、こんな事が。


 あの子の欠片。唯一掴み取れた霊魂の焦げ粕を胸に、慟哭した。

 嗚呼、私はこんな結末を認めない。


 許される訳が無いだろう。

 あんな優しい子が、何故殺されなければならない?

 魂を焼かれ、訳が分からなかっただろう。

 自分が殺される事を理解出来なかっただろう。


 認めない、認めて堪るものかよ。

 私は。絶対に、絶対に、絶対に――。



「――――絶対、に……ッ!!」





 ……死体が。


「――許してくれ、私は、お前の、為なんだ。お前、の……」


 死体が、目の前にあった。

 年の頃は十代の中頃と言ったところか。

 涼やかに整った顔立ちに色素の薄い長髪を垂らした、一糸纏わぬ少女の肢体。


「何、心配はするな。痛いだろうが、無駄ではない。お前の身体は余す所無く呼び水と、そして媒介となる」


 そして、その傍らに傅く影がある。

 先程まで語り部であった、白衣を纏った老人だ。

 彼は祭壇に横たわる少女に愛おしそうに手を這わせ、両手から流れ出る血液と、零れ落ちる涙と唾液を肌の上に刷り込んでいた。

 それは時間を経る毎に激しく、そして激情を帯びていく。


 ……狂っている。

 そう、狂っていたのだ。ここへ至った時には、もう。


「――……ぃッ……!」


 ――狂気が、高らかに渦巻く。

 老人は全身を震わせながら、自らの体液に塗れた指でメスを握り締め、何度も何度も死体を刻む。

 皮を剥ぎ、肉を削ぎ、臓腑を抉り、骨を外し。美しかった少女の躯が次々と解体されていく。


 石壁に囲まれた地下の部屋、その隅にある書物に血液が飛び散った。


 それは怪異法録と題されていたようにも見えたが、今この時に置いては些末事。

 ただ、只管に、ずっと。ずっと、ずっと、ずっとずっとずっと。


「め、いごぉぉ…………ッ!!」


 そう呼ばれた彼女が加工される光景を、ずっと。僕は、見続けていた――。





「――――が、っご。ぼ」


『! 大丈夫かい、ちょっと!』


 意識を取り戻した僕が感じたのは、息苦しさと苦味。そして鼻奥を抜ける悪臭だった。


「ぐ、ぼおぇッ」


 何か生暖かい物で口内が満たされ、呼吸する度に気道を逆流する。

 見なくても分かる、それは強い匂いを放つ吐瀉物だ。


 どうやら僕は、気絶しながら吐いていたらしい。

 吐瀉物の匂いが嗅覚を内外から刺激し、定まらない意識を強制的に覚醒させ――そして、再び嘔吐。

 ビチャビチャと、下品な音が木霊した。


「ぐ、く、ぅ……ッ」


 気持ち悪い。

 消化液と、溶けかけた食物の匂いだけじゃない。

 今まで見ていた誰かの夢、老人の行為、凄惨な光景。

 その結果出来上がった「それ」。

 全てが気持ち悪くて堪らない。


『とりあえず落ち着きな。ほら、深呼吸して……』


「は、っぐ。ぁ……?」


 感触は無いが、背中を擦っているらしき花子さんの声に幾分落ち着きを取り戻し、そこで初めて自分の置かれた状況に考えが及んだ。

 暗緑の中だ。前後左右を見回せば、深く生え揃った濃緑の葉々が夜闇の中に浮かんでいる。

 どうやら僕は今、どこかの森の中――おそらくは、さやまの森の中――に居るらしい。


「う、あ。ぼく、何が……?」


『そりゃこっちのセリフだって。いきなり森ン中に引っ張られて、やっと見つけたらこんな……何があったのよ』


「何、て……」


 ……そう言えば、何かに強く首を引っ張られた気がする。

 自覚した瞬間、思い出したように全身が痛みを訴えた。

 察するに、僕は気絶した後そのままこの場所へと引きずり込まれたのだろう。

 何が、何の為に。

 考えるのが怖い疑問は多々あるが、頭を振って先の夢ごと強引に振り払う。

 今考え始めたら、何もかも訳が分からなくなりそうだった。


「……う……?」


 そうしてある程度落ち着くと、身体を支える掌に伝わる感触が土の物では無い事に気がついた。

 ざらりとした、硬い石の感触。僕の吐瀉物に塗れたそれは、森の中と居場所には似合わない石床のようだ。

 ……いや、縁にある取っ手のような突起をみる限り、床というよりは、むしろ。


「地下、扉……――っ、う、うわぁッ!」


 地下、暗室、老人。

 連想ゲームの如くあの凄惨な夢が蘇り、転がるように飛び退いた。

 そうしてついでとばかりにポケットのめいこさんも投げ捨て、無様に距離を取る。


『……本当にどうしたの、アンタ。大丈夫かい』


「っど、どうしたも、だって、こんな、こんなッ……んぶ、ぐッ」


 ……老人が、少女の死体を加工する。

 唾棄すべきその光景を鮮明に思い出し、再び吐き気が喉元を塞いだ。

 幸い今度は吐き出す事は無かったものの、団子虫のように身体を丸め、ただ耐える。


「……ふーっ……ふーっ……!」


 酷く荒い呼吸音が夜の森を木霊し、土と草の匂いが鼻の粘膜をくすぐった。


「……び、尾行、は。あの男は、どうなって……?」


『……分からない。今無事って事は、追ってきてないんだと思うけど』


 のろのろと目線を上げ、腕時計を見れば深夜帯。

 どうやら僕が気絶してから結構な時間が経っていたようだ。

 それでも捕まっていないのだから、おそらく一時は凌げたと見て良いのだろうけど――しかし、状況は悪化している。


 僅か一週間足らずで僕を見つけた手際の良さ、こちらを追尾し続けた謎の技術。

 完全に特定されるのも時間の問題なのかもしれない。


「っぐ、く……」


 脱力感に苛まれる身体を起こし、手近な樹の幹に背を預ける。

 確実に詰んでいるとしか言えないこの状況。既に頭の大部分は諦めで支配されていたが、しかし不思議と絶望は無かった。

 それはまだ夢の事を引きずっているのか、頭が追いついていない所為なのか。

 多分そのどちらでもあるのだろう、フラフラと心の置き場が定まらない。


『……吐いたって事は、頭。さっき引っ張られた時に強く打ったみたいだったから、病院で診て貰った方が良いよ。逃げらんなくなるかもだけど、命には代えられないだろ』


「いや……そういうんじゃ、ない……。気分の悪さは、さっきの、夢の……」


 心配そうな花子さんへそう返し。一瞬の躊躇の後、足元に転がり中身を晒すめいこさんを視界に捉える。


『――――』


 ワインレッドの革表紙、そしてその中に挟まる黄白色の紙束。

 彼女は確かにそこにあり、ただ沈黙していた。

 ひょっとすると、森に入った事で記憶が刺激され、何かを思い出したのかもしれない。

 例えば――さっき僕が見たものと同じ情景、とか。


「……あんた、は」


 投げ出したいと、強く思った。

 でもそれをやったら負けなのだ。

 必死に、詰まりそうになる言葉を絞り出す。


「あんたは、人間だったのか。その……そうなる前は」


『――――』


 反応は無い。

 花子さんが何かを聞きたげな表情を浮かべたが、空気を読んだのか声はかからなかった。


「み、見た。見たんだよ。本当なのか分かんないけど、どこか冷たい場所で、綺麗な女の子の、し、し死体が……本に、加工されてた」


『――――』


 反応は無い。


「出来た物は、不格好な大判ノートみたいで、間違っても手帳じゃなかったよ。でも、多分あれはあんただ」


『――――』


「……だって、それをやってたお爺さんは、その娘を『めいこ』って呼んでたんだ。分かるだろ。前の、前の、前の――最初の、あんたなんだよ、きっと」


 反応は。


「初め、名前を決める時に感じた違和感、あれは気の所為じゃなかったんだ。そう呼ばれる事を望んだろ、意識的か無意識かは知らないけど」


『――――』


 反応は――。




「――そろそろ何とか言えよぉッ!」




 ダン!

 強く足を踏み鳴らし、めいこさんを風圧で揺らす。


 八つ当たりだったのかもしれない。だけどもうウンザリだった。

 オカルトなんて趣味じゃない物を調べる事も、追われる事も、逃げる事も、何もかもが分からない事も――あんな光景を見せられた事も、全部。


「何なんだよあんたは! 一々意味深な態度取りやがって! 何で知らないんだよ! 何で曖昧なんだよ! もう書物なんだろう、その身体はッ!」


『ちょ、ちょっと落ち着きなって。言ってる意味はよく分かんないけどさ、頭冷やしなよ。ね』


 激高し、花子さんに抱き締められた。

 その感覚なんてあるべくもないが、多少なりとも血は下がる。

 そうして何度も深呼吸を繰り返し、気を落ち着かせていると――めいこさんのページに、ゆっくりと文字が浮かんだ。


『――ごめん、なさい。わからない、のです』


「はぁ……?」


 やっと反応が返ったと思えばその一文。

 怒気が再燃しそうになり、再び花子さんに押し留められた。

 めいこさんはそんな僕に怯えるかのように、震える筆跡で続きを紡ぐ。


『ほんしょには、わたしの記憶が、ないのです。おもいだそうとしても、きさいされておらず。わからない、のです』


「……それはもう、何度も聞いた」


『はい、違う、是。でも、ほんとなんです。わたし、いえ、本書も。わたしのきおく、見た夢とか、検索したい、のに。思い出したい、のに。説明項には、なにも、なにも……』


「…………」


 その文面は不安に満ち溢れ、泣きそうでもあり、彼女自身も考えが纏まっていないように見えた。

 ……何というか、気弱な女の子を苛めているような気分だ。

 こちらをジト目で見る花子さんの視線と合わせ、ちくちくと罪悪感が突かれる。


『ごめん、なさい。ごめん、なさい……』


『ええと、まぁ、アタシにはさ、めいこの気持ちも分かる気がするよ。記憶が思い出せないってなァ、何か収まり悪いんだよ。ねぇ?』


 そうして終いには子供が泣きじゃくるような雰囲気を出し始め、慌てて花子さんが飛び寄り宥めすかす。

 これでは完全にこちらが悪者だ。そっと目を逸らし、舌打ちを鳴らした。


(……いや、でも。もしかしたら本当にそうなのかもしれないのか?)


 以前、花子さんの記憶喪失の原因は、焼かれた霊魂が完全に復元し切れなかった為だと聞いた。

 そして、その上でめいこさんの事を考えると、どうだ。

 僕はめいこさんに何も情報が記載されていない事を、単にそういう仕様の道具だからと思っていた。けれど彼女が元が人間であったとするならば、それは。


(――そうか。焼かれた事で、全部無くした。だからこその、存在理由……)


 夢での出来事、老人の嘆き、狂気、その真意。

 一部の事情の裏を朧気ながらに察せられた気がして、両目を閉じる。


(そもそも、めいこさん自身の怪談が記載されてないって時点でおかしいんだ)


 異小路も花子さんも、近寄った際に自動的にその怪談が収集されていた。

 なのに、一番近くに再現されていためいこさんの怪談だけが、書に載らない。

 それはつまり、怪談としての再現条件自体が存在しないという事になる。


 されど現実として、めいこさんは告呂市のあちこちに再現され続けている。

 彼女だけが、彼女自身の提示した怪談を巡るルールから外れ、独立しているのだ。


(……そして、その矛盾を成り立たせる理屈は、一つしか無い)


 カチリ、カチリと。

 頭の中で、これまでに得た情報の欠片が継ぎ接ぎながらも組み上がる。

 脳の奥が明滅し、腹の底が重くなり。知らず、大きく吸った息が震えた。


 追い詰められた状況が生んだ、都合のいい妄想かもしれない。

 だけど、その時の僕はそれを真実としか思えず――。


『ああもう、ほら。アンタも機嫌直しなよ。大体喧嘩してる場合でもないだろ、今はさぁ』


「…………ふん」


 花子さんの言葉に従った訳じゃないけれど。

 僕はゆっくりと目を開け、めいこさんを見つめる。

 視線を受けて、ビクリという擬音が聞こえそうな程に手帳が揺れたが、無視。

 静かに近づき「……っ」必死に嫌悪を堪え、拾い上げる。指先の汗と革の表紙が擦れ、湿った音を上げた。


『ひっ。あのう、その。ごめん、なさい。わたしは、ほんしょは、やくたたずで、その、えっと……』


「……何も分からない、知らない。それは理解できた。だから、一つだけ聞く」


 もう、グダグダ言うのは止めだ。

 最後に一つだけ確認し、その後の事を決めようと思った。即ち。


「――あんたは、どうしたい」


 ――沈黙。

 この場の誰もが黙り込み、手帳に浮かぶ文字を待つ。


 彼女が道具でなく人であったとするならば。

 形は違えど、丸眼鏡の男や花子さんと同じく、縛られた存在だとするならば。

 僕は聞かなきゃいけない。その義務を、感じた。


『……ほ、ほんしょは。本書の目的は、唯一つ。存在するし続ける事、だけで』


「そういう事じゃない。分かるだろ、それくらい」


『ぁ、え……』


 返るテンプレートを切り捨てると、彼女は一瞬戸惑った様子を見せて。

 そして暫くの沈黙の後――意を決したように、その身体を小さく揺らした。


『……いたい、よ。まだ、あなたと、いたい』


 それは器物ではなく、人の声。

 震える線の集合体で発せられる、感情の波。


『いろんなことが、分からないけれど。でも、分かる。いまのわたしは、ここにあるけれど。燃えてしまえば、わたしは別の本書になって、またどこかにいく。全部が、きえてしまう」


「……うん」


『いや、だよ。わたしは、もっともっと、ここにいたい。あなたと、れいこんと……いいえ、はなこさんと、お話して。あなたのおみそしるを、たべて。いろんなことを、感じたい……!」



 ――おねがい。もっと、いっしょにいたい、いさせて、ください。



 その叫びは空気を震わせる事は無い。

 けれど、確かに僕の耳へと届いた。

 夢で見た、誰かも分からぬ少女の姿を伴って。

 そして、それに返す言葉なんて、考えるまでも無いんだ。



「――分かった。僕が、やってやる」



 声に出した瞬間腹が座り、意識がしっかりと定まった。


『は、い』


 そしてその言葉を最後にめいこさんは文字の羅列を止め、安心したような雰囲気を纏った。

 心なし手帳の重量が増した気がしたが、それは思い上がりだろうか。

 ……思えば、この言葉に真っ直ぐな意味を籠めたのは初めてだ。

 かつて同じ言葉を放った二つの場面を思い出し、思わず苦笑が零れ落ちる。


『……話、纏まったっぽいのは良いんだけどさ。展望あるのかい、これから』


 会話が終わった頃合いを見計らったのか、背後から花子さんの声が掛かる。

 まぁ自信満々にやってやるとは言ったが、現状は詰んでいるに近い。

 希望なんて無いに等しいと言って良いだろう――けれど。


「そうだね……まぁ――」


 諦観とも、覚悟とも言えない粘ついたもので心を固め、めいこさんのページを弄り、そして。


「――僕に相応しいやり方で、やってみようかなって」


 自棄、或いは自嘲と共に。

 彼女から引き抜き翳したその指には、数字の羅列された紙切れが一枚。ひらりと風に揺れていた。


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