五頁 追憶
3
捏ねた血肉は糊となり、砕いた臓腑は墨となる。
■
――あの子が、死んだ。
村を困らせる悪質な怪異――それは、あの子の事を指していた。
そうさ、彼女は嵌められたのだ。
私達が村を去った後も、村人共は変わらず私達を貶し続けていた。
天候の荒れを、起こった飢饉を、己の不幸を、他人の悪事を。都合の悪い事全てをあの子に擦り付けていた。
そして奴らはあの家に、あの女に討伐を依頼した。あの、あの……ッ!!
……あの子の、身体には。焦げ跡一つ無かった。
おそらく、それがあの女のせめてもの情けだったのだろう。
そう、呑ませた花弁を媒介とし、正確に魂だけを焼き屠り、私の目の前であの子を殺したのだ。
事実を承知の上で。
ただ怪異の血が入っていたというそれだけの事で、あの子を騙し、殺した!
――認められるか、こんな事が。
あの子の欠片。唯一掴み取れた霊魂の焦げ粕を胸に、慟哭した。
嗚呼、私はこんな結末を認めない。
許される訳が無いだろう。
あんな優しい子が、何故殺されなければならない?
魂を焼かれ、訳が分からなかっただろう。
自分が殺される事を理解出来なかっただろう。
認めない、認めて堪るものかよ。
私は。絶対に、絶対に、絶対に――。
「――――絶対、に……ッ!!」
■
……死体が。
「――許してくれ、私は、お前の、為なんだ。お前、の……」
死体が、目の前にあった。
年の頃は十代の中頃と言ったところか。
涼やかに整った顔立ちに色素の薄い長髪を垂らした、一糸纏わぬ少女の肢体。
「何、心配はするな。痛いだろうが、無駄ではない。お前の身体は余す所無く呼び水と、そして媒介となる」
そして、その傍らに傅く影がある。
先程まで語り部であった、白衣を纏った老人だ。
彼は祭壇に横たわる少女に愛おしそうに手を這わせ、両手から流れ出る血液と、零れ落ちる涙と唾液を肌の上に刷り込んでいた。
それは時間を経る毎に激しく、そして激情を帯びていく。
……狂っている。
そう、狂っていたのだ。ここへ至った時には、もう。
「――……ぃッ……!」
――狂気が、高らかに渦巻く。
老人は全身を震わせながら、自らの体液に塗れた指でメスを握り締め、何度も何度も死体を刻む。
皮を剥ぎ、肉を削ぎ、臓腑を抉り、骨を外し。美しかった少女の躯が次々と解体されていく。
石壁に囲まれた地下の部屋、その隅にある書物に血液が飛び散った。
それは怪異法録と題されていたようにも見えたが、今この時に置いては些末事。
ただ、只管に、ずっと。ずっと、ずっと、ずっとずっとずっと。
「め、いごぉぉ…………ッ!!」
そう呼ばれた彼女が加工される光景を、ずっと。僕は、見続けていた――。
■
「――――が、っご。ぼ」
『! 大丈夫かい、ちょっと!』
意識を取り戻した僕が感じたのは、息苦しさと苦味。そして鼻奥を抜ける悪臭だった。
「ぐ、ぼおぇッ」
何か生暖かい物で口内が満たされ、呼吸する度に気道を逆流する。
見なくても分かる、それは強い匂いを放つ吐瀉物だ。
どうやら僕は、気絶しながら吐いていたらしい。
吐瀉物の匂いが嗅覚を内外から刺激し、定まらない意識を強制的に覚醒させ――そして、再び嘔吐。
ビチャビチャと、下品な音が木霊した。
「ぐ、く、ぅ……ッ」
気持ち悪い。
消化液と、溶けかけた食物の匂いだけじゃない。
今まで見ていた誰かの夢、老人の行為、凄惨な光景。
その結果出来上がった「それ」。
全てが気持ち悪くて堪らない。
『とりあえず落ち着きな。ほら、深呼吸して……』
「は、っぐ。ぁ……?」
感触は無いが、背中を擦っているらしき花子さんの声に幾分落ち着きを取り戻し、そこで初めて自分の置かれた状況に考えが及んだ。
暗緑の中だ。前後左右を見回せば、深く生え揃った濃緑の葉々が夜闇の中に浮かんでいる。
どうやら僕は今、どこかの森の中――おそらくは、さやまの森の中――に居るらしい。
「う、あ。ぼく、何が……?」
『そりゃこっちのセリフだって。いきなり森ン中に引っ張られて、やっと見つけたらこんな……何があったのよ』
「何、て……」
……そう言えば、何かに強く首を引っ張られた気がする。
自覚した瞬間、思い出したように全身が痛みを訴えた。
察するに、僕は気絶した後そのままこの場所へと引きずり込まれたのだろう。
何が、何の為に。
考えるのが怖い疑問は多々あるが、頭を振って先の夢ごと強引に振り払う。
今考え始めたら、何もかも訳が分からなくなりそうだった。
「……う……?」
そうしてある程度落ち着くと、身体を支える掌に伝わる感触が土の物では無い事に気がついた。
ざらりとした、硬い石の感触。僕の吐瀉物に塗れたそれは、森の中と居場所には似合わない石床のようだ。
……いや、縁にある取っ手のような突起をみる限り、床というよりは、むしろ。
「地下、扉……――っ、う、うわぁッ!」
地下、暗室、老人。
連想ゲームの如くあの凄惨な夢が蘇り、転がるように飛び退いた。
そうしてついでとばかりにポケットのめいこさんも投げ捨て、無様に距離を取る。
『……本当にどうしたの、アンタ。大丈夫かい』
「っど、どうしたも、だって、こんな、こんなッ……んぶ、ぐッ」
……老人が、少女の死体を加工する。
唾棄すべきその光景を鮮明に思い出し、再び吐き気が喉元を塞いだ。
幸い今度は吐き出す事は無かったものの、団子虫のように身体を丸め、ただ耐える。
「……ふーっ……ふーっ……!」
酷く荒い呼吸音が夜の森を木霊し、土と草の匂いが鼻の粘膜をくすぐった。
「……び、尾行、は。あの男は、どうなって……?」
『……分からない。今無事って事は、追ってきてないんだと思うけど』
のろのろと目線を上げ、腕時計を見れば深夜帯。
どうやら僕が気絶してから結構な時間が経っていたようだ。
それでも捕まっていないのだから、おそらく一時は凌げたと見て良いのだろうけど――しかし、状況は悪化している。
僅か一週間足らずで僕を見つけた手際の良さ、こちらを追尾し続けた謎の技術。
完全に特定されるのも時間の問題なのかもしれない。
「っぐ、く……」
脱力感に苛まれる身体を起こし、手近な樹の幹に背を預ける。
確実に詰んでいるとしか言えないこの状況。既に頭の大部分は諦めで支配されていたが、しかし不思議と絶望は無かった。
それはまだ夢の事を引きずっているのか、頭が追いついていない所為なのか。
多分そのどちらでもあるのだろう、フラフラと心の置き場が定まらない。
『……吐いたって事は、頭。さっき引っ張られた時に強く打ったみたいだったから、病院で診て貰った方が良いよ。逃げらんなくなるかもだけど、命には代えられないだろ』
「いや……そういうんじゃ、ない……。気分の悪さは、さっきの、夢の……」
心配そうな花子さんへそう返し。一瞬の躊躇の後、足元に転がり中身を晒すめいこさんを視界に捉える。
『――――』
ワインレッドの革表紙、そしてその中に挟まる黄白色の紙束。
彼女は確かにそこにあり、ただ沈黙していた。
ひょっとすると、森に入った事で記憶が刺激され、何かを思い出したのかもしれない。
例えば――さっき僕が見たものと同じ情景、とか。
「……あんた、は」
投げ出したいと、強く思った。
でもそれをやったら負けなのだ。
必死に、詰まりそうになる言葉を絞り出す。
「あんたは、人間だったのか。その……そうなる前は」
『――――』
反応は無い。
花子さんが何かを聞きたげな表情を浮かべたが、空気を読んだのか声はかからなかった。
「み、見た。見たんだよ。本当なのか分かんないけど、どこか冷たい場所で、綺麗な女の子の、し、し死体が……本に、加工されてた」
『――――』
反応は無い。
「出来た物は、不格好な大判ノートみたいで、間違っても手帳じゃなかったよ。でも、多分あれはあんただ」
『――――』
「……だって、それをやってたお爺さんは、その娘を『めいこ』って呼んでたんだ。分かるだろ。前の、前の、前の――最初の、あんたなんだよ、きっと」
反応は。
「初め、名前を決める時に感じた違和感、あれは気の所為じゃなかったんだ。そう呼ばれる事を望んだろ、意識的か無意識かは知らないけど」
『――――』
反応は――。
「――そろそろ何とか言えよぉッ!」
ダン!
強く足を踏み鳴らし、めいこさんを風圧で揺らす。
八つ当たりだったのかもしれない。だけどもうウンザリだった。
オカルトなんて趣味じゃない物を調べる事も、追われる事も、逃げる事も、何もかもが分からない事も――あんな光景を見せられた事も、全部。
「何なんだよあんたは! 一々意味深な態度取りやがって! 何で知らないんだよ! 何で曖昧なんだよ! もう書物なんだろう、その身体はッ!」
『ちょ、ちょっと落ち着きなって。言ってる意味はよく分かんないけどさ、頭冷やしなよ。ね』
激高し、花子さんに抱き締められた。
その感覚なんてあるべくもないが、多少なりとも血は下がる。
そうして何度も深呼吸を繰り返し、気を落ち着かせていると――めいこさんのページに、ゆっくりと文字が浮かんだ。
『――ごめん、なさい。わからない、のです』
「はぁ……?」
やっと反応が返ったと思えばその一文。
怒気が再燃しそうになり、再び花子さんに押し留められた。
めいこさんはそんな僕に怯えるかのように、震える筆跡で続きを紡ぐ。
『ほんしょには、わたしの記憶が、ないのです。おもいだそうとしても、きさいされておらず。わからない、のです』
「……それはもう、何度も聞いた」
『はい、違う、是。でも、ほんとなんです。わたし、いえ、本書も。わたしのきおく、見た夢とか、検索したい、のに。思い出したい、のに。説明項には、なにも、なにも……』
「…………」
その文面は不安に満ち溢れ、泣きそうでもあり、彼女自身も考えが纏まっていないように見えた。
……何というか、気弱な女の子を苛めているような気分だ。
こちらをジト目で見る花子さんの視線と合わせ、ちくちくと罪悪感が突かれる。
『ごめん、なさい。ごめん、なさい……』
『ええと、まぁ、アタシにはさ、めいこの気持ちも分かる気がするよ。記憶が思い出せないってなァ、何か収まり悪いんだよ。ねぇ?』
そうして終いには子供が泣きじゃくるような雰囲気を出し始め、慌てて花子さんが飛び寄り宥めすかす。
これでは完全にこちらが悪者だ。そっと目を逸らし、舌打ちを鳴らした。
(……いや、でも。もしかしたら本当にそうなのかもしれないのか?)
以前、花子さんの記憶喪失の原因は、焼かれた霊魂が完全に復元し切れなかった為だと聞いた。
そして、その上でめいこさんの事を考えると、どうだ。
僕はめいこさんに何も情報が記載されていない事を、単にそういう仕様の道具だからと思っていた。けれど彼女が元が人間であったとするならば、それは。
(――そうか。焼かれた事で、全部無くした。だからこその、存在理由……)
夢での出来事、老人の嘆き、狂気、その真意。
一部の事情の裏を朧気ながらに察せられた気がして、両目を閉じる。
(そもそも、めいこさん自身の怪談が記載されてないって時点でおかしいんだ)
異小路も花子さんも、近寄った際に自動的にその怪談が収集されていた。
なのに、一番近くに再現されていためいこさんの怪談だけが、書に載らない。
それはつまり、怪談としての再現条件自体が存在しないという事になる。
されど現実として、めいこさんは告呂市のあちこちに再現され続けている。
彼女だけが、彼女自身の提示した怪談を巡るルールから外れ、独立しているのだ。
(……そして、その矛盾を成り立たせる理屈は、一つしか無い)
カチリ、カチリと。
頭の中で、これまでに得た情報の欠片が継ぎ接ぎながらも組み上がる。
脳の奥が明滅し、腹の底が重くなり。知らず、大きく吸った息が震えた。
追い詰められた状況が生んだ、都合のいい妄想かもしれない。
だけど、その時の僕はそれを真実としか思えず――。
『ああもう、ほら。アンタも機嫌直しなよ。大体喧嘩してる場合でもないだろ、今はさぁ』
「…………ふん」
花子さんの言葉に従った訳じゃないけれど。
僕はゆっくりと目を開け、めいこさんを見つめる。
視線を受けて、ビクリという擬音が聞こえそうな程に手帳が揺れたが、無視。
静かに近づき「……っ」必死に嫌悪を堪え、拾い上げる。指先の汗と革の表紙が擦れ、湿った音を上げた。
『ひっ。あのう、その。ごめん、なさい。わたしは、ほんしょは、やくたたずで、その、えっと……』
「……何も分からない、知らない。それは理解できた。だから、一つだけ聞く」
もう、グダグダ言うのは止めだ。
最後に一つだけ確認し、その後の事を決めようと思った。即ち。
「――あんたは、どうしたい」
――沈黙。
この場の誰もが黙り込み、手帳に浮かぶ文字を待つ。
彼女が道具でなく人であったとするならば。
形は違えど、丸眼鏡の男や花子さんと同じく、縛られた存在だとするならば。
僕は聞かなきゃいけない。その義務を、感じた。
『……ほ、ほんしょは。本書の目的は、唯一つ。存在するし続ける事、だけで』
「そういう事じゃない。分かるだろ、それくらい」
『ぁ、え……』
返るテンプレートを切り捨てると、彼女は一瞬戸惑った様子を見せて。
そして暫くの沈黙の後――意を決したように、その身体を小さく揺らした。
『……いたい、よ。まだ、あなたと、いたい』
それは器物ではなく、人の声。
震える線の集合体で発せられる、感情の波。
『いろんなことが、分からないけれど。でも、分かる。いまのわたしは、ここにあるけれど。燃えてしまえば、わたしは別の本書になって、またどこかにいく。全部が、きえてしまう」
「……うん」
『いや、だよ。わたしは、もっともっと、ここにいたい。あなたと、れいこんと……いいえ、はなこさんと、お話して。あなたのおみそしるを、たべて。いろんなことを、感じたい……!」
――おねがい。もっと、いっしょにいたい、いさせて、ください。
その叫びは空気を震わせる事は無い。
けれど、確かに僕の耳へと届いた。
夢で見た、誰かも分からぬ少女の姿を伴って。
そして、それに返す言葉なんて、考えるまでも無いんだ。
「――分かった。僕が、やってやる」
声に出した瞬間腹が座り、意識がしっかりと定まった。
『は、い』
そしてその言葉を最後にめいこさんは文字の羅列を止め、安心したような雰囲気を纏った。
心なし手帳の重量が増した気がしたが、それは思い上がりだろうか。
……思えば、この言葉に真っ直ぐな意味を籠めたのは初めてだ。
かつて同じ言葉を放った二つの場面を思い出し、思わず苦笑が零れ落ちる。
『……話、纏まったっぽいのは良いんだけどさ。展望あるのかい、これから』
会話が終わった頃合いを見計らったのか、背後から花子さんの声が掛かる。
まぁ自信満々にやってやるとは言ったが、現状は詰んでいるに近い。
希望なんて無いに等しいと言って良いだろう――けれど。
「そうだね……まぁ――」
諦観とも、覚悟とも言えない粘ついたもので心を固め、めいこさんのページを弄り、そして。
「――僕に相応しいやり方で、やってみようかなって」
自棄、或いは自嘲と共に。
彼女から引き抜き翳したその指には、数字の羅列された紙切れが一枚。ひらりと風に揺れていた。
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