三頁 至る水



 さやまの森。

 住宅街付近に広がる森林地帯がそう呼ばれ始めたのは、いつ頃からか。

 実のところ、その辺りはよく分かっていないらしい。


 語源は不明、由来も不明。

 気づけば民間の中でその名称が広まっており、誰も疑問を持たないまま今に至る。

 一説では、開拓民の指導者や、当時の村長の名を取ったとも言われているが――まぁ数々の事故事件の逸話から考えるに、そのような真っ当な理由とは考え辛い。


 ――さやまという名には【何か】がある。

 それも、善くない【何か】がだ。


「…………」


 夕焼けが沈み、辺りを宵闇が包み始めた頃合い。

 一度帰宅し態勢を立て直した僕は、意気もそこそこに再び小路へ向かっていた。

 目的は単純明快。直接さやまの森に分け入り、直接その【何か】を調べ回るためだ。歌倉女学院の時とほぼ同じシチュエーションである。


「……うう、気が重い……」


『まだ言ってんのかい。しっかりしなって、ね?』


 ……まぁ、前回と違って今回は花子さんが主導であり、僕は嫌々なのだけど。

 鬱々と下を向く僕を見て、壁の中から手を出した花子さんが、励ますように背中を叩く仕草をした。


『森に気になるもんがあるってんだろ? なら行ってみようよ、早い内にさ』


「それはそうなんだけどさぁ……」


 刻限が何時なのかは分からないが、決して余裕ある状況じゃないのは確かだ。

 それに歌倉とは違い人目を盗んで不法侵入する必要もない。逆に率先して行うべき方法の筈である。


 ……しかし、昔からこの辺りに住む僕らは、さやまの森に入る事を幼少時より強く禁じられている。

 これまでの事から最早犯罪的な意味での抵抗は小さいが、記憶に刻み込まれた禁忌感まではどうしようもないのだ。


 おまけに昼に見た、森に潜むもの。

 これで「わーい行きたーい☆」とか宣うアホウが居たら僕は迷わずビンタする。


「あのぅ、花子さん? もしよろしければ僕の代わりにあんた一人で……」


『あ? 尻蹴っ飛ばしてくれって言ったのはどちら様でしたっけなぁ』


「はい、この眉目秀麗かつ清廉潔白な優等生様です。クソが」


 肩を落とし、観念する。

 自分の言った事には責任を持たねばなるまい。それが良い子という物だ。


「――よし、分かった、分かりました。ちゃんと頑張るから、これまで以上に周囲の警戒しておいてよ。近所の人にバレたら村八分なんだから」


『態度も言葉遣いも遠慮なくなったねぇ……』


グレ気味ですんでね。


『……あの森に入るってなァ、そこまでの事なのかい?』


「ちょっと調べた限りでは、それに足る理由はあった。当然と言って良いとは思うよ」


 めいこさんを開いて、以前軽く調べた時のメモを呼び出せば、一番新しい事件の日付は二十年程前の事。

 無断で森を伐採しようとした業者が多数事故死したらしく、当時は呪いだ何だと結構な話題になっていたそうな。

 それに、もしかしたら表沙汰になっていないだけで、近年も森に入って不幸な目に遭った人が居た可能性もある。


『……はっ。ひ、ひょっとして、本書達も入ったらまずい、のではっ?』


「だろうね、きっと」


 流石に入った瞬間に即死という事は無いだろう。

 しかし、それでも『事故』と表現できる何かは起こる可能性は高い。


 以前の僕ならば鼻で笑うような眉唾予想だが、これまで幾つかのオカルトと出会ってきたのだ。

 過去の事例を迷信や偶然と切り捨てられる程、愚鈍であるつもりは無かった。

 するとめいこさんは慌てたようにわたわたとページの端を振り、取り乱す。


『な、なにを、おちついている、のであります。あぶない、でありますよ。まずい、でありますので、ありますがっ』


「……落ち着いてる訳無いだろ。怖がってるんだ、これでも」


 嘘じゃない。現在進行形で緊張し、横隔膜は慢性的にぴくぴく痙攣中である。

 だが可能性があるなら、例え危険でも最短距離を突っ切らねばならない。

 華宮に追いつかれる前に、早く。


『うう、どうして、どうして、そんな……』


「僕にとって、華宮に捕まるのはこれ以上無く避けたい事なんだ。それこそ最悪死んだ方がマシってくらいにはね」


『だ、だめ。だめっ。そんなこと、いわないで』


「……?」


 その何時になく強い言葉に違和感を抱いたが、そういえば彼女の目的は『存在し続ける事』だったと思い出す。

 成程。持ち主である僕が死んだ方がマシと言うなんて、確かに怒りたくもなるだろう。

 しかしそれは紛う事なき本心であり、撤回する気は無い。


「……まぁ、あんたには悪いと思ってるよ。もしそうなったら、花子さんに頼んであんたを持って逃げて貰えるよう何とかしてみるからさ」


『ちがう! わたしは、本書より、あなたの方が――』




『――めいこ、隠してッ!』




「っ!」


 突然右眼に声が響き、すぐ横の壁から突き出した腕が眼前を掠った。

 反射的に小さく身体が仰け反り、息を呑む。

 混乱しつつよく見ると、それは会話から外れていた花子さんの物だった。


「い、いきなり何。驚かさないで――」


『良いから。黙ってめいこをしまって自然体を装いな、早く!』


 早まる脈拍を抑え抗議の声を上げようとすれば、彼女は焦った様子でめいこさんを懐に戻すよう訴える。

 その剣幕といったら只事では無く、気圧された僕は戸惑いながら指示に従い、静かに歩みを再開させる。

 胸ポケットの中でめいこさんがカサリと揺れた。


(……あの、何かあったの)


 流石に不審に過ぎる行動だ。

 小声で壁の中の花子さんに問いかけると、彼女は半身を露出し背後を強く警戒しながら、僕に真剣な目を向けて――。


『――暗くて見えないかもだけど、すぐ後ろの道角に男が居る。アイツ、この前トイレで華宮の娘と一緒に居た奴だ』


「……、へ」



 ――ギチリ。

 胃袋が強く拗じられるような音が、鼓膜を揺らした。


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