十頁 不可逆



「ど、どうだ……?」


 何が変わったのか、最初は分からなかった。

 周りの木々も塀も、視認出来る部分には何一つ変化が認められない。

 失敗か?

 僕は焦りつつ周囲を見回し――そして、気付く。


(……見えない範囲が、増えてる)


 道の先。本来ならば別れ道となっている筈の景色が、闇の靄に埋没していた。

 それは夜の黒よりも更に深く、濃く、冥く。確かな異常としてそこにある。

 初めて目撃するめいこさん以外のオカルト現象に一滴、嫌な汗が流れ落ちた。


「怯えるな……!」


 強く首を振り、萎縮しそうになる心を膨らませる。

 大丈夫だ、めいこさんを持っている以上、僕はこの怪談の主という事になる。襲われる筈がない。

 そう自分に言い聞かせ、僕は見えない誰かに向かい、大きく声を張り上げた。


「す、すいません! あの、近くに居ますか! この怪談に……宿ってる? 込められてる? そんな……感じ、の……れ、霊魂……」


 ……何やってるんだろう、僕。

 幽霊に語りかけるなんて完全に痛い人だ。疲れとは違う理由で、頬がより赤く染まった。


「……くっ! お願いします! どうか居なくなった人を元の場所に――こっちに返してください!」


 ええい、もうどうにでもなれば良い。

 交渉だなんだと言っても、僕には相手の姿も声も認識できないのだ。

 だったら必要な事だけ叫ぶしか無いだろう。


「あなたが連れて行った人達を返して貰いたいんです! 全員……は、時間が経ち過ぎているから無理でしょうけど! せめて、まだ生きてる人だけは……!」


 最早ヤケクソの境地で叫ぶも、反応は無い。

 手応えの無さに舌打ちを鳴らし、何か変化は無いかと改めて辺りを見回して――。


「……あ?」


 暗闇が、近付いている。

 少しずつ、少しずつ。懐中電灯で照らされた血の筋が、徐々に短くなっている。


 じわじわと視界が狭まり、少しずつ暗闇がこちらに躙り寄ってくるその光景に、寒気が背筋を撫で上げる――嫌な予感が、する。


「……こ、この前の! そう、最悪、一昨日くらいに連れってった人だけ返してもらえれば良いですから! それ以上は何も言いません、から……ッ!」


 暗闇が波打ち、『何か』が射出された。

 何も見えない、けれどそう直感したのだ。

 触手か、槍か、靄の塊か。

 全く想像は付かないけれど、あの暗闇から伸びる『何か』は、確実に僕に狙いを定めている……!


 ――それに捕まればどうなるか。山原の悲鳴が脳裏をよぎり、身が竦んだ。


「……ねぇ、待って。分かった、分かったから……」


 怖い、怖い、怖い……!

 押し寄せる濃い気配に体と視界が震え、腹の底から冷たい物が湧き出してくる。


「待って、嫌だ、待っ――!」


 そして、それは逃げる事を忘れた僕の眼前に広がった。

 本能的な恐怖に従い、目を瞑り腕を顔の前に掲げる。

 様々な罵倒と懇願が胸の内で荒れ狂い、瞼の裏にお婆ちゃんと暮らしていた日々が走馬灯として流れ、消え――。


「…………?」


 ……何も、起きない。

 刺される事も、引きずり倒される事も無く、ただ不気味な沈黙だけが続く。


「っあ……」


 目を開けば、僕の手にはしっかりとめいこさんが握り掴まれており、気配は盾とされた彼女の手前で立ち止まっているようだった。


「……へ、へへ。やっぱ、手ぇ出せないんだ……!」


 そうだ、やはり僕は怪談の主なんだ。

 緊張に固まっていた体が弛緩していく。こちらの方が立場が上だという稚拙な優越感を感じ、図に乗った。


 これならば、この怪談を管理できる。

 根拠もなくそう思い、散々怖がらせてくれた目に見えないそいつに命令しようとした――けれど。


「が、っ――?」


 瞬間、突然胸部に強い衝撃を感じ、世界がぶれた。

 見る物全てが下方に吹っ飛び、暗闇に覆われた空が視界いっぱいに広がった。

 そこに星一つ見られない事に「曇ってんのかなぁ」と場違いな疑問を抱き――後頭部を地面にぶつけ、星が散る。


「っが、は……!? っぁ、ぇ……?」


 頭を抑えながら視線を落とせば、シャツの胸部がボロボロに解れていた。

 それは人の掌の形にも見え、『何か』に突き飛ばされたのだと少し遅れて理解が及ぶ。


「な、なに……? 何で、こんな……い、痛い……」


『推察。異小路に封入されていた霊魂が、貴方を、』


 そんな僕の疑問に応えるかのように、手の中でカサカサとした振動が生じた。

 反射的にめいこさんに目を向ければ、歪み開いたページの隙間に文字が見える。


『――推察。異小路に封入されていた霊魂が、貴方を言霊の管理者と認めず、変質した霊力を持って、反抗したものと考えられます』


「……は? な、何でだよ!? 僕はあんたの所有者で、その霊魂とかを従わせる立場だろう!? それなのに……」


『貴方の持つ霊力が、一定水準を満たさず、彼を隷属させるだけの力を有していなかった事が原因と、』


「ふざけるなよ!? そんなアホな事認められ、っぉ、あああッ!?」


 一時的に痛みと状況を忘れめいこさんに噛み付いていると、彼女を持っていた手首を『何か』に掴まれ、体ごと振り回された。

 懐中電灯が手を離れ、宙を舞う。


「や、やめっ、ろッ! いや、だぁ! 痛い、痛い……ッ!」


 上に、下に、右へ、左へ。

 それはまるで、めいこさんを力尽くで引き離そうとしている風にも感じられた。

 必死になって腕に力を込めるが、見えない『何か』はピクリとも動かない。


「いぎぃあッ!? あぐっ……やだ、やめッ――」


 ――ぼぐん、と。

 右肩の関節が酷い音を立て、ズレた。


「――っぎぁ、ぁぁぁあああああああああああああッ!!」


 そうして半ば空中に体を浮かされ、振り子のように揺られた勢いのまま、塀に側頭部を強打させられる。

 あまりの痛さに再び涙が溢れてくるが、『何か』は僕を解放してくれない。

 何度も、何度も、何度も、何度も。同じ勢いで壁に叩きつけられる。


「ぐぁッ――ぎっ!――グッ。――かはッ……!?」


 二回目で舌を噛み。

 三回目で唇を切り。

 四回目で額から血が飛び散り。

 五回目で眼鏡のフレームが歪み。

 そして六回目で右側のレンズが割れた。欠片が幾つか目の中に入り、眼球が傷付き痛みが走る。


 聴覚が鈍くなり、意識がぼやけてきたけれど、必死の思いでめいこさんだけは手放さない。

 それは下らない意地だった。

 これまで培ってきた反骨精神が、このまま『何か』の思う通りにさせたくないと駄々を捏ねたのだ。


 しかし、それもすぐに後悔した。

 手首を掴む『何か』はそんな僕に業を煮やしたのか、一際大きく僕を振り回し――そしてぶん投げ、叩き飛ばしたのだ。

 一転、二転、三転。僕は鈍い音を立てながら道を転がり飛び、塀に激突。

 血と唾液を撒き散らし、力無く地面に崩れ落ちた。


「っあ、ぎぁ……ぅぐ、ぃッ……!!」


 痛い、痛い、痛い……!!

 呻き声とも、吐息とも付かない音が漏れる。

 流れた血液が右眼に入り込み、世界の半分を赤黒く染め上げた。


(ひ、ぎ。くそ、死ぬ、やだ、死にたく、ない……!)


 落ちようとする意識を繋ぎ、重い瞼を無理矢理こじ開け――その途端、視界に飛び込んできた光景に血の気が引く音を聞いた。


 変な方向にひん曲がった腕が、先程まで『何か』に掴まれていた部分が、醜く溶け爛れている。

 皮と肉が一つに溶け、ピンク色のペースト状になっていた。


「あ、ぁあ……ッ!!」


 明らかに大怪我だ。

 しかし痒みも痛みも何一つ感じられず、それが一層の吐き気を誘う。


 ――何だこれ、聞いてない、こんなの!


 右手を見ないようにして、カサカサ蠢くめいこさんを見る。

 そして指示を仰ごうと、無事な左手で開こうとするが、指が震えて上手くいかない。


「……っ!」


 僕は彼女を開くことを諦め、素早く辺りを見回した。

 激痛が体を蹂躙するが、歯を食いしばりそれを無視。

 無様に這いつくばり、壁へ向かう。


 早く。

 また『何か』が飛んでこない内に、まだ動ける内に。

 血でも何でも使って、怪談の大本たる『界』の文字を消さなければ――!


「――ひっ……」


 ざり、と。僕の目の前に、誰かの足が一本落ちた。


 健常な左眼には何も映らず、血の染み込んだ右眼でのみ認識できる足。

 上手く焦点を合わせられず服装までは分からなかったが、何か黒い液体で濡れているようだった。

 みるみる内に地面へと粘り気のある水溜りが広がって、中から幾本もの真っ黒い腕が、茸のように伸びていく。


「…………」


 眼球が腕に追い従い、上を向いた。


 脛から太腿、腹から胸に視界が開くにつれ、その細身の身体は男性の物だと分かった。加えて時折体を震わせており、その度に濁った水滴が飛散する。

 酷く粘り気のある、黒い雨。

 触れるもの全てを犯し尽くす、醜悪な気配を放つそれが――目の前に立る男の顔面から垂れ流されている物だと理解した時、途轍も無い恐怖が膨れ上がった。


「っあぁ、ああぁあ、うわあああああああッ!」


 眼孔、口腔、鼻腔、耳穴。人の持つ全ての穴から際限なく溢れ出る嫌悪の塊。


 それを直視した僕は総毛立ち、本能のままに距離を取ろうと必死に這いずる。

 しかし相手はそれを許さない。僕に覆いかぶさるように身を倒し、黒い体液に塗れた腕を差し向けた。


「やめろ! やめろぉッ!」


 泣きそうになりながら身を捩り、役立たずの右腕を盾とする。


 狙いはやはり、めいこさんのようだった。

 男は右腕の上からのしかかり、激痛と共に黒い粘液を塗りつける。

 それに触れた衣服が瞬く間に溶解し、その下に着込んでいたシャツと一体化してペースト状となっていった。


 このままでは、肌や骨、内臓も――強い恐怖を感じ醜く泣き叫ぶものの、男は気にした様子も無く、その顔面をすぐ目の前にまで近づけた。


「ひ、ッぁ、ぁぁあああ……!」


 右眼だけに映る彼の顔は、最早人の物ではなかった。

 よく見れば丸眼鏡をかけているのが分かったが、その他の全ては湧き出している黒い粘液で何も見えない。

 人相も表情も、何一つ把握する事が出来なかったけれど――男が持っている感情だけは痛い程に伝わっていた。


(憎まれている……? 僕は、憎まれているのか……?)


 真っ赤な右目の視界から脳の奥へと突き刺さるそれは、殺意に至った憎悪と、狂ってしまう程の嘆き。

 人の領域を突破したそれらが、僕にとめいこさんに向けられている。


 その理由を、僕は推察できない。

 否、きっと誰にも分からないのだろう。

 文献による情報に感情は乗らず、それを伝える人は消え、核となる者は狂っている。そんな中で、誰が知る事が出来るというのか。


「……何、で。あんた、そんなっ……!」


 めいこさんは言っていた。言霊に霊魂を封入し、編集した文面を認識させ続ける事で現実世界に法を敷くと。

 僕はそれを互いに了承した末の物だと思っていた。

 もっと穏やかな物だと、雇用主と従業員のような関係だと、そう思っていた。


 しかし、目の前の彼はどうだ。

 望まぬままに縛り付けられ、汚らしく淀み、濁り、穢れ。おぞましい呪いを撒き散らしている。


「……ぁ……あ、んた、なに、何が、したい……?」


 めいこさんを持つ左手に力を入れ、男の前に掲げる。

 彼は少し身動ぎした様子だったが、今度は逃げる様子は無い。


「ぼ、僕を嬲って、殺したいのか。異界って場所に連れて行きたいのか。それとも、この手帳か……! どれだ、どうすれば気が済む!」


 それは間違いなく命乞いだった。

 恐怖が許容量を超え、自棄になった上での開き直り。

 けれど、それに付随して胸の奥から湧き上がる物がある。

 いつもの黒い粘つきとは別の、もっと高い熱を持った、曖昧なもの。


「何をすればいい! 僕はこのまま死にたくない! あ、あんただってこんな事したくないんだろ!? だったら、助けてくれよ! して欲しい事、聞いて欲しい事、全部、僕が受けてやるから!」


 圧倒的な劣勢に置かれ死にかけておきながら、この上から目線。

 自分でも呆れる程に見苦しいが、これが性根なのだから仕方がない。

 そして僕は、黒い涙を流す男を睨みつけ――腹の底から、熱い何かを吐き出した。




「――言え! あんたの望みを! 僕が、僕がやってやるッ――!」




 ――引き金を、引いたのだ。


 カチリというその音を聞いた瞬間、視界一杯に黒い火花が散った。

 撒き散らされた粘液が弾け、赤黒い世界に黒い桜吹雪が舞い踊る。

 無色の衝撃波が男を中心として炸裂し、僕とめいこさんを真正面から呑み込んだ。


「う、ぐ……わぁああああッ!?」


 当然、その不可思議の力に対し抵抗が出来る訳も無く。

 僕は地面に転がり身を削り、より一層の痛みを塗り付けられた。

 眼鏡もめいこさんも吹き飛んだが、決して右眼だけは閉じず、逸らさない。

 意地を総動員し、歯を食い縛る。痛みと恐怖が消え、心音だけが煩く響いた。


「――――」


 彼は、立っていた。

 身を反らし激しく体を震わせながらも、倒れる事無く僕を見つめていた。


 そこに最早、憎悪や嘆きの気配は無い。

 未だ続く衝撃波が、その原因たる黒い粘液を引き剥がしているのだ。


 溢れる悪意全てが宙に散らされ、徐々に彼の素顔を覗かせる。

 片眼しか見えず、朧げにしか確認出来なかったけれど。それでも――。



 ――――たすけて。



 彼の唇が紡いだその言葉は、決して気の所為じゃ無かった筈なんだ。


「――ッくぅおおおおおああああああああああああああっ!!」


 瞬間、泣けなしの体力全てを使い、視界の端を飛ぶめいこさんへと駆け出した。

 圧力に逆らい、足を地面に噛ませ、強引に体を前に持っていく。


「と、ど――けぇ!!」


 伸ばした手が、めいこさんを掴んだ。飛ばされそうになるが、離さない。


『、縁……の相反する霊……鳴……を認、感情の発露が、』


 彼女に噛みつき無理矢理開けば、浮かぶ文字列は所々が虫食いの様に消えていた。

 紙面のインクが泡立ち弾け、文字の欠片が血飛沫の模様を描いている。

 明らかに異常な様子だったけど、慮る事はしない。強い言葉で怒鳴りつける。


「ねぇ! あの男を怪談から解放するには、どうしたら良い!? 教えろ!」


『霊、、、……にて、。かし、貴方……不可……。、、、ありま』


「ああもう! 使えねぇ!」


 文面は途切れ途切れだったが、良い答えでない事は分かった。

 どうする、どうする、どうする……!

 霊力は無く、体力も無く、ペンも無く、インクも無く、めいこさんも役立たず。

 こんな詰みかけた状態で、どうすれば僕は彼の願いを叶え、山原達を取り戻す事ができる……?


 必死に脳を回転させるが、良い案などすぐには出てこない。

 段々と立っているのも辛くなり、踏ん張る足から力が抜けて膝をつき――。


「……ッ!」


 目を、見開く。

 頭が下がり、視線が向いた先。未だ泡立ち弾け続ける右手首が、気味の悪い気配を放つ黒色に染まっていた。

 肉と血の面影など、最早微塵も無い。ブクリと弾ける黒い泡が糸を引き、黒い火花と弾け散っていく。

 延々と止まる事なく溢れ続けるその様は、まるで倒れたインク瓶のよう。


 ――僕には、それが男が吐き出す物と非常に似ているように思えた。


「これ、なら……!」


 利用できる。体の異変に怯えるより先に、そう思った。


 僕が怪談を編集する事が出来ない理由は、自身の霊力が極端に低く、墨に霊力を込められられないからだそうだ。

 ならばこの粘液を使えばどうだ?

 吹き荒れる霊の力に晒された、めいこさんの主である僕の血肉の成れの果て。

 要素だけを見れば、インクとして用いるに足り得るのではないのか――?


「お……っく、ぐ!!」


『むぎゅ』


 僕はめいこさんを膝で踏んづけ、地面に固定。

 そして――右腕を強引に持ち上げた。肩関節が異音を発し、激痛が走る。


「ぎっ……い、異小路の文面ッ!」


『了、……ありま、』


 そして右手首を浮かんだ『異小路』の怪談に叩きつけ、願う。

 霊力とは人の意思。

 その胡散臭い言葉に縋り、『解放』の一念を、強く。強く。


「うぐっ……!」


 途端、広がった粘液が勢い良く紙の奥へと吸収された。


 ズルズルと、ジュルジュルと。

 まるで餓鬼が泥水を啜るかの如き浅ましさ。女性の人格だと仮設定した事を酷く後悔する程だ。

 そして霊力とやらを補充したのか、みるみる内に文字の虫食いが修復されていく。


『――解放、その対象は?』


 浮かんだのは、何一つとして僕の意図を察しない簡素な文章。

 僕はそれに激昂しかけながら――ありったけの声量でもって、叫んだ。



「――全部に決まってるだろ! 怪談も、あの男も、山原達も、今まで消えてった人達も、僕だって! 関わった奴全てのあらゆる意味での解放だッ――!」



 ――了解であります。

 紙面にその返答が刻まれた瞬間、怪談の下から湧き出した『解放』の二文字が文面を塗り潰した。


「――ぅ、ぐぁッ!?」


 パキンと『異小路』の記述が砕け散り、紙面の中から黒い欠片が飛び散った。

 紙の燃え粕にも、黒いガラス片のようにも見えるそれらは、眼前に広がり月明かりを反射し、輝き――そうして描き出された光景に、僕は息を詰まらせる。


「は……」


 それは舞い散る桜吹雪のように、或いは降り落ちる灰のように。

 音も無く、風も無く。くるくると、瞳の中で墨が渦巻く。

 闇の黒と光の白。左右の視界を跨ぐその光景は、一種異常と言える程に美しい。

 それこそ今まで見たどんな物よりも綺麗に思え、僕は痛みも忘れ、ただ見入った。


「……あ!」


 ふつり。柔らかな音を立て、景色が欠けた。

 それに伴い黒い欠片も次々と消滅し、周囲は平静を取り戻していくのだ。


 惜しかった。

 切なかった。

 意味も分からぬまま、胸が張り裂けそうになる。

 衝動的に黒い欠片を掴みとろうと手を伸ばしかけ、直後に右眼の奥でガシャンという何かが割れる音を聞いた。それは視神経を走り抜け、直接脳に突き刺さる。


「ッ……、え?」


 そうして我に返った時、既に世界は塗り変わっていた。

 左右の眼球に映る世界に色以外の差異は無く、闇の靄や嫌な気配もまた同様。

 完全に、元の不気味で狭い小路の姿を取り戻している。


 ――めいこさんの中から、悪辣に改変された言霊が消えた。

 よく分からないが、そういう事なのだろうか。


「っ、そ、そうだ。あいつは……」


 咄嗟に顔を上げ、丸眼鏡の男が立っていた場所を見る。

 右眼に映る彼は動いていなかった。

 衝撃に身を反らした姿勢のまま、身動ぎ一つせず、まるで人形のように沈黙していた。

 黒い粘液は残滓すら残さず吹き飛び、新たに湧き出す気配は無い。

 否、それどころか。


(……消えて、いく)


 彼の姿が崩れていく。

 手が、足が。先ほどの墨と同じ、黒い欠片となり天へと昇っていくのだ。


 成仏、という物なのだろうか。

 僕には分からなかったけど、恐怖とは別の意味で目を逸らす事は出来なかった。


「――――」


 そうして身体の端から徐々に崩れ、天へと昇って行く彼の口が微かに動いた。

 それは朦朧とした意識が見せる都合の良い幻覚か、それとも単なる錯覚か。

 幾らでも否定の理屈は捏ねられるけれど、見間違いとは思いたくは無い。


 

 ――ありがとう。



 最後の瞬間、彼がそう紡いでくれたのだと、僕は信じたかったのである。





「……終わ、った?」


 キョロキョロと落ち着き無く辺りを見回し、ぽつり。


 先程は調子に乗った直後に地獄へ叩き落されたため、しばらく緊張を解く事が出来なかったが、何も起きない。

 それを確信した瞬間、安堵のあまり腰が抜け、へたり込んだ。


「は――――、っあぉ、ッぐ……!」


 右肩に鈍い痛みが走り、ようやく僕は自分の肩がいかれている事を思い出した。

 腕がプラプラと揺れる度に嫌な刺激が脳の奥まで走り抜け、肺が引きつり情けない悲鳴が溢れ出る。


「……く、ふ、は、ははは」


 けれど、何故か嬉しかった。

 達成感か、満足感か。胸に温かい物が注がれ、満たされていく。


「暴力を奮われた、ってのに。馬鹿かよぉ……」


 まぁ、あの男にも同情できる部分はある。

 長い間縛られ続け、望まぬ犯罪の片棒を担ぎ続けた挙句に狂ってしまうなんて、あまりにも酷な話だ。


 それを成した奴と同じ道具を持っていたのなら、感情が爆発し襲いかかるのも理解出来る。

 僕だって同じ立場だったら、絶対そうする筈――って。


「……くそ」


 ならしょうがないと、納得してしまった。

 大きく深呼吸し、僅かに残った蟠りを息と一緒に吐き出す。

 痛みを堪えつつ立ち上がり、すぐ傍に転がっているポンコツ手帳を手に取った。


「……ほ、他の人達は。山原達はどうなったんだ。姿が見えないけど」


『ええと、過去、異小路に取り込まれた物ならば、あと数十秒後に回帰予定。量が多いために、こちらに流れ着くまでに時間がかかっている模様、であります』


「……?」


 少し文章に違和感を感じたけど、安心感が勝った。

 ここまで頑張ったのに、誰も帰って来ず目的失敗とか勘弁願いたい。


 出来れば全ての人が生きて帰ってきて欲しいと思うけど、それが望み薄である事は察している。

 僕の両親を含めた十二年前の人達は、多分もう――。


(……今更考えたってしょうがない。それより、山原達だ)


 あれから二日、人が死ぬには十分な時間が経っているように思える。

 本音を言えばさっさと病院に駆け込みたかったけど、彼らの安否を確認してからにしたかった。

 壁に背をつけ、彼らが帰ってくるまで待つ事にする。


 にしても酷い有様だ。

 額から出血、右眼は傷つき右肩は外れ、至る所に擦過痕。

 これほど凄まじい怪我は経験が無い。骨折しなかっただけ幸運……なのかなぁ。


「いや、そうだ……」


 骨折よりも酷い有様になった箇所があった事を思い出す。コールタールのように溶けてしまった右手首だ。

 怪談が無くなった事で戻っただろうが、痕になってたらどうしよう。

 軽い気持ちで右手首に視線を向け――思考が、止まった。


「あ……?」


 ……手首が、未だ溶けたままだった。

 どろどろ、どろどろ。相も変わらず、真っ黒な粘液を吹き出し続けている。


「あ、あれ、なん……え?」


 あの男を解放したのだから、全て元に戻った筈じゃなかったのか?

 景色だって戻ったし、消えた人も戻ってくる。なのに何で、こんな――。



 ――過去、異小路に取り込まれていた物ならば、あと数十秒後に回帰予定。量が多いためにこちらに流れ着くまでに時間がかかっている模様であります――



「……物? 量? 流れ、つく……?」


 悪い、悪い、予感がした

 致命的な何かを見落としている。気付くべき何かを無視している気がする。

 それは――いや、ああ、駄目だ。これは、考えてはならない事だ。


「……あ、ああ。病院、ケガ、診て、もらわないと……」


 帰ってくる人を待っていよう、なんて殊勝な気持ちは失せていた。


 ここまでだ。

 ここまでなら、終われる。


 色々な事に気づかなければ、ベターエンドを迎える事が出来る。

 それは決して逃げじゃない。負けじゃないんだ。


 だって、知らないんだから。知らなければ、何もない。

 僕は疼くプライドと罪悪感から目を背け。涙を堪え立ち上がり、歩き出し。


 ――カサリ。脈絡無く蠢く手帳に、咄嗟に目を向けてしまった。



『到着、しました』


 書かれていたのは、何時も通りの無機質な一行だ。

 その文字列を見た瞬間――ぼとりと、僕の背後で何かが落ちるような、鈍い音が聞こえた。

 ……何かが現れた。何かが落ちたのだ、そこに。


「ひ……」


 ああ、あ。


 知りたくない。

 見たくない。

 理解したくない。のに、どうして。


「……あ、やだ……ああああ、あぁ……ッ!」


 拒否できなかったんだ。

 嫌だ、意思とは無関係に、何で、首が回る。

 回る。

 回る。

 回って、回り――。



 ――映る。薄い月明かりに照らされた宵闇が。


 ――映る、映る。薄汚れたブロック塀と、その背後にある木々の姿が。


 ――映る、映る、映る。アスファルトに垂れ落ちた黒い粘液が。



 そして……ああ。そして、そして……。



「……ぁ、ぁ」



 ……僕、は。


     ゆっくり、と。


          背後に……ある、そ……れ、を――――。


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