八頁 縁



 学校終わりの帰り道。

 落ちかけた陽光を反射する桜吹雪の中を、ゆったりと歩く。


 あれ程煩わしくて堪らなかったこの桜の雨も、今では心地良く感じられた。

 憂いが一つ無くなっただけで現金なものである。


「――にしても、お前すげぇな。自分から委員長に立候補するなんてよぉ」


 そんな風に浸っていると、横合いから能天気な声がかけられる。何故か一緒に帰る事になった星野君だ。

 どうも未だにカラオケの件を気にしているらしく、何かにつけて絡んでくるのだ。

 ありがた迷惑とは正にこの事。


「そうかな。一年生だし、大した事はやらないと思うけど」


「いやいやいや、何かアレ、ツキイチの集会とか出んだろ。面倒くせぇって」


 星野くんが首を降る度に髪が揺れ、ワックスの香りが鼻腔に張り付く。

 思わず山原を想起したものの、すぐに頭から放逐した。


 チャラ男はチャラ男でも、アイツと違って害の無いチャラ男だ。

 有害廃棄物と比べるなんて、相当な失礼に当たる。


「まぁお前メガネだし、ハマり役ではあるよな。イーンチョー」


「……眼鏡?」


「おお、だってメガネとか頭よさそ―じゃんよ。ほーら数学メガネビーム!」


 唐突に変な必殺技を食らった。何やってんだコイツ。

 まぁおそらくは、彼なりに褒めているんだろうけど――やはり、僕としては近寄りたくない類の人間である。


(何というか、疲れるんだよな)


 チャラい外見か、軽い性格が原因なのか。多分どっちもだろう。

 優等生たる僕の友とするには、極めて不釣り合いだ。


「――っと、じゃあ俺こっちだからよ。また明日ってコトで、じゃな!」


「うん、また明日」


 住宅街に繋がる細道の前に辿り着き、星野くんと別れた。

 あんなナリでも良いとこの坊っちゃんらしく、高級住宅街の方に住んでいるらしい。


 物凄くムカついたので見送りはせず、すぐに身を翻し歩き出す。

 通るのは当然、件の小路――異小路だ。


(……まぁ、星野くんがどんな奴でも別にいいさ)


 これから先、彼の行動が目に余るようならば。

 その時は、また――。


「……ふふ」


 笑みを、一つ。

 鬱蒼と茂るさやまの森を眺め、壁に書かれた「界」の文字をザラリと撫でた。





「……ん?」


 そうして綺麗な夕陽を眺めつつ、十数分程歩いた所だっただろうか。

 そろそろ自宅が見えてきた頃、鉄門の横に見慣れない男性が立っている事に気が付いた。


 年の頃は四十代の半ば、と言った所だろうか。

 如何にもサラリーマンと言った風情のその男は、落ち着きの無い様子で辺りを見回している。


「……!」


 すると男の視線がこちらを捉え、目が合った。

 そして少しの間にらみ合い、やがて弾かれるように僕の下へと駆け寄って来る。


「や、やぁ、えーと……ロッ君。久しぶりだね、元気にしてたかな」


「……すいません、どちら様でしょうか」


 誰だこの人。

 息を乱しながら昔呼ばれていた渾名を口にするその男に、僕は不信感を隠さず警戒した表情を向けてやる。


「え? あ、そうだ。ここ五年くらい顔は合わせてなかったっけな。昨日の電話でつい会った気になってたみたいだ、悪かった」


 男は僕の言葉に目を丸くしたが、すぐに苦笑を浮かべ後頭部をボリボリと掻く。

 しかし電話とは、さて何の事だったか――と。


「あ」


「……思い出してくれたか?」


 思わず間抜けな声が漏れ、それを聞いた男性が安堵の息を吐いた。

 そうだ、僕は彼を知っていた。

 直接会ったのは大分前だったけれど、つい昨日も電話越しに彼の声を聞いている。

 直後に笑い転げていた所為か、記憶がすっかり頭から飛んでいた。


「――じゃ、改めて久しぶり、浩史の父の山原藤史だ。少し聞きたい事があって待たせてもらったんだが……今、大丈夫かな?」


 彼はにこやかにそう言って、息子のそれとは違う嫌らしさを感じさせない愛想笑いを僕に向けた。





「悪かったね、今までおばさんにお参りできなくて」


 何だかタイミングが合わなくてね――仏間に案内している間、藤史さんはそう言って頭を下げた。


 僕は山原は大嫌いだったが、その父親である彼にはあまり含む物は無い。

 何せ、外面内面共にあんな典型的不良スタイルを取っているようなクズが息子だ。さぞかし苦労していたのだろうと、同情の念さえ持っていた。


「俺も小さい時は良くお世話になってたもんだよ。憲一……君の父さんと二人して拳骨貰った事もあった」


「ええ、祖母から話だけは良く聞いていました。武勇伝とかも……まぁ、少し」


「ハハ、悪ガキ的な意味だろ。ちょっと頭が足りてなかったんだわな、俺ら」


 僕の濁した皮肉に恥ずかしそうに笑って、首筋を掻く。

 やたら手のかかった息子と友人の思い出話。

 それを話している時のお婆ちゃんは怒りつつも本当に楽しそうで、聞いているだけで嬉しい気持ちになったものだ。


 そんな他愛もない話をしながら藤史さんを仏間へと招き入れ、僕自身はお茶を淹れる為にと一旦離席する。

 おそらく、僕はこれから大きな嘘を吐く。その覚悟を済ませておきたかった。


「……それで、話というのは?」


 そうしてお茶で舌を潤した後、僕は徐にそう切り出した。

 少し唐突だった為か、藤史さんは一瞬だけ息を詰まらせたが、すぐに再起動。大きく溜息を吐き、ぽつぽつと話しだした。


「ああ、話なんだが――浩史のバカがどこ行ったか知らないか?」


 ……来た。

 放たれたのは、半ば確信を持って予想していた言葉。僕は努めて冷静に無関係の振る舞いを心がけ、対応する。


「……浩史君、ですか?」


「ああ、一昨日から家に帰ってきてないんだ」


 眉を顰め、初耳を装った表情を作る。罪悪感が心中を苛むが、無視をした。

 そう、全部山原の身から出た錆、自業自得なのだ。僕が気にする事は何も無い。


「すいません。金曜日に会ったのを最後に見てないです」


「何か……独り言みたいのでも良い、知らないか? どこそこに行くとか、そういう事を言ってたみたいな……」


「……すいません」


「……そうか。まぁ、いきなり言われても、そうだな、困るよな……」


 一応警察には連絡してるんだがな――その言葉を最後に、重苦しい空気が漂う。

 カチ、コチと壁掛け時計の音だけが室内に木霊し、やけに煩く感じた。


「…………」


 ……罪悪感が一秒毎に膨らんでいく。

 でも、やはり本当の事を言う気にはなれない。

 僕はこの重圧から逃れたい一心で、無理矢理言葉を捻り出した。


「浩史君って……あの、こういう事、今までにあったんですか?」


「ん?」


「いえ……無断外泊の一回や二回はしてそうなイメージがあったもので」


 父親を前に失礼だったか。

 後悔したが、口にしてしまった以上押し切った。

 幸い藤史さんは気分を害さなかったようで、零された苦笑と共に部屋の雰囲気も和らいだ。


「ま、あんな格好してるもんな。そういう所は俺に似たのかね」


 過去の自分を思い出しているのか、懐かしむように目を細めた。

 そしてお茶を一口啜り「でもな」と前置き。


「正直腐ったミカンの部類ではあるが、そこら辺は意外ときっちりしてんだぜ。浅海の事があったから」


「浅海……浩史君のお母さん、でしたか?」


「そうだが……あれ? 聞いてなかったのか?」


 不思議そうな顔を作っている僕に、意外そうに問い返してくる。

 山原の事情なんてどうでも良かったし、向こうも積極的には話さなかった。

 思い返せば、奴に関して知っている情報は、あまり多くないのかもしれない。


「えと……すいません、分からないです」


「……そうか、そっか……」


 そんな僕の反応に何とも形容し難い表情を浮かべ、押し黙る。

 その様子に悪い予感を覚えたが、止める理由も特に無い。

 僕も湯呑を手に取りつつ、彼をただ見ているだけで――。


「――浩史の母親な、君の父さん母さんと一緒に居なくなってるんだわ」


 彼は、意識して感情を廃した声で、そう言った。


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