七頁 彼女と名前



 剥がした皮膚はなめされて、潰した眼球を流される。





――ねぇ、おじいちゃん。おじいちゃんはどうして私を拾ったの?


 ……小さな小さな、幼子の言葉。

 その純粋な疑問に何と返したのか、よくは覚えていない。

 ただ、この子がそんな事を口にするのが悲しく、切り傷に塗れた小さな手を握りこんだのは確かだ。


 本当に、無意識の行動だった。

 しかしきっと、間違っては居なかったのだろう。幼子は少しびっくりしたようにこちらを見ると、やがて柔らかく笑った。


――そっか、おじいちゃんも私と一緒なのでありますね。


 幼子の手を引いてその山を降りる途中、その子は嬉しそうにそう零す。

 何故笑う――そう聞けばその子は首を振り、二人になる事が嬉しいのだと、そう言った。

 ああ、それに対する返答はよく思い出せる。

 忘れる筈が無い、そこからあの穏やかな日々が始まったのだから。


 ――私もだ、と。そう、笑ったのだ。





 月曜の早朝。

 家の外から小鳥の鳴き声が響き、雨戸の隙間から寝室に光の筋が差し込んだ。

 春の朝の爽やかな空気を宿したその光は、寸分違わず僕の目元を炙り、穏やかな夢を揺蕩っていた意識を引き上げる。


「……何だ、今の夢……?」


 どこか森のような場所で老人と幼子が触れ合う、意味不明な一幕。

 夢なんてそんな物だと分かっているけど、何故がほんの少しだけ気にかかった。


「……暗っ。今、何時だ?」


 時計を確認してみれば、まだ朝の五時半を回った所。

 普段の僕ならば青筋を浮かべ小鳥と太陽を呪う所だったが、今日はすんなりと許す事ができた。

 それどころか起こしてくれた事に感謝の念すら湧いてくる。


「さて、と」


 僕は目尻の涙を払いつつ布団をたたみ、ガタつく雨戸をこじ開ける。

 すると雪崩込んだ光の波が、ちゃぶ台の上に鎮座する手帳を照らした。

 それはやはり妙な不気味さを湛えていたけど、今の僕にはとても好ましく映る。

 何と言っても、彼……いや、彼女かな。ともかくそれは僕の恩人ならぬ恩書であるのだから。


「や、おはよう」


 そう言って表紙を撫で上げると、中で何かを綴っているのかカサカサと蠢く。

 僕はそれに笑みを零し、丁寧に胸ポケットへ仕舞いこむ。


 ……そういえば、さっき僕はどんな夢を見たんだっけ。考えたが、忘れた。





 戸締りをして、登校。

 閑静な住宅街といえど、朝のこの時間帯はそれなりに人通りも多く、混み合っている。


 近隣住人と挨拶を交わしつつ、大通りへと続く曲がりくねった小路を進む。

 周囲の木々も徐々にその数を増し、やがて見えてくるのは森の中に浮かぶブロック塀と、歪んだアスファルト――山原が消えた、あの場所だ。


「…………」


 歩く速度を落とし、ゆっくりと辺りを見回した。

 そうして一歩一歩緩慢に進んでいると、地面に付いた二本の赤黒い線を見つけた。


 それらは道の半ばから突然始まり、同じく道の半ばでぷっつりと途絶えている。

 これはやはり、居なくなった彼らの血液なのだろう。

 必死に抵抗し、爪を立て、割れた。その痕。

 昨夜の悲鳴を思い出し、少し笑う。


「ん……?」


 ふと見れば、道の端に何かが落ちているのが目に付いた。

 砂埃で汚れ、中身の零れたビニール袋。山原が持っていた、碌でもない粉末のパックだ。


「……ふん」


 きっと、『何か』に連れて行かれた際に落としたのだ。

 嫌悪感を込めて思い切り踏みつければ、軽い音を立てて袋がひしゃげ、粉末が内臓のように飛び散った。

 何度も何度も足を振り上げ踏み躙り、ビニールをズタズタに引き裂いていく。


「――ざまあみろ」


 呟き、一際激しく踏みつける。

 白い粉が足元に漂い、制服の裾を僅かに汚した。



 *



 山原が消えた日の翌日。日曜日の朝早くに、僕は彼の自宅へ電話をかけた。

 応答したのは山原の父親、僕の父親と友人同士だったという男性だ。

 どこか落ち着かない様子だった彼に、僕は丁寧に問いかけた。


 即ち――『浩史くんは居ますか?』という単純な一言を。

 そして返ってきたのは否定の言葉。土曜日に出かけたきり帰ってきていないとの事だった。


 山原が消えている。


 それを完全に確信した僕は、通話を断つやいなや馬鹿みたいに笑い転げた。

 ゲラゲラと、ゲラゲラと。

 あれ程楽しい気分になれたのは、後にも先にもこれっきりだろうと思う。


 山原の父親には申し訳ないが、仕方ない。

 お婆ちゃんを冒涜するようなクズは消えるべきなのだから。


 まぁ怪談には死ぬとは書いていなかった。

 もしかしたら今頃、別の世界で勇者やら何やらファンタジーやってるかもしれないし、それはそれで良いんじゃない?

 あぁ、主人公になれるなんて羨ましいなぁ。ははははは。


「……よーす、どうしたよ? 何か機嫌良さそうだけど」


「え? ああ、いや。何でもないよ」


 登校後も幸せな気分に浸っていると、その様子を不審に思ったのか、先日僕に話しかけてきたクラスメイト、星野君が欠伸を漏らしながら近づいてきた。

 そんなにも表情に表れていたのだろうか。指で口角をなぞる。


「さっきから鼻歌してっけど。結構上手いな、お前」


 思わず口を抑えて周囲に視線を走らせれば、隣席のえだなしさんから生温かい笑顔を向けられた。ちょっと浮かれすぎじゃないか僕。


「ま、まぁ、ちょっと嬉しい事があってね。まだ少し余韻が残っているんだ」


「ふーん、そうなん? でもその割には何か怪我してね?」


 そう言って、頬に当てているガーゼを指差す。流石に少し目立つらしい。


「……こんなの気にならない程嬉しかった、って事だよ。それより君こそどうしたんだい、何か眠そうだけど」


「あー、休み中にはしゃぎすぎたわ。ほら、みんなでカラオケ行くって話したろ?」


「うん、僕も用事がなかったら是非参加したかったよ」


「だーから今度行こうぜって。で、そん時に仲良くなった奴らとさ……」


 少し話を逸らしてやれば、面白いように乗ってくれる。

 他人の明るい思い出話ほど下らない物は無いが、今日の僕は機嫌がいい。寛大な心で聞き流す。


「……それでよぉ、そん時居合わせた竜之進っつー奴がえらい器用で」


「へぇ、そうなんだ」


 身振り手振りを交えたその話は、担任の若風先生が入ってくるまで続いた。

 僕はそれに心無い相槌を打ちつつ、これから訪れる穏やかな生活に思いを馳せていた。





『……本当に消えたんだよな、山原のやつ』


『是。かの人物ならば、怪談の再現時に異界へと誘われた事を確認しています』


 朝のホームルームが終わり、一時間目の総合学習の授業中。

 担任教師の言葉に集中している振りをして、僕は手元に広げた手帳と筆談していた。


『それはもう聞いたけど。何か……信じられないというか』


『本書には、しっかりと記録されています。山原浩史、及び井川という少年達は、怪談に則り異界へと誘われました』


 何となく手帳がムッとしているように感じたが、気のせいだろうか。


『……あ、そうだ。あんたは何かして欲しい事ってある? お礼しなくちゃ』


『不要です。本書は、何一つ貴方の行動を強制する事はありません』


 言うと思った。

 ある意味期待通りの返答に軽く溜息。

 まるで壁にボールを投げるかのような手応えの無さだが、せっかく提案したのだ。惰性のまま会話続行。


『いや、一応あんたが来てくれたおかげで、あのクズを消せたんだからさ』


『非。本書の目的は存在し続ける事ただ一つ。他に望むものはありません』


『存在し続ける、ねぇ……』


 つまり捨てられなければそれで良い、と。

 何もいらないならそれはそれで楽なのだが、何となく居心地が悪い。

 僕は自他共に認める優等生なのである。恩を受けたままそれを踏み倒すのは、あまりにも不義理ではないか。


(ペンのインクをもっと良い物に変える……いや、それは流石に貧乏臭いか)


 考えつつ視線を若風先生に戻せば、話題はクラスの役職決めに移行していた。

 委員長や図書委員等、複数の役職が黒板に書かれ、その下に名前を書く空欄が記されている。

 ……名前、名前ね。


『名前付けるのとか、お礼になったりする?』


『疑。質問は正確にお願い致します』


『ほら。言霊やら怪談やら、みんな個々に題があるでしょ。あんたもそのカテゴリで存在するって言うなら、何か名前があった方が良いんじゃないかな、って』


 名は体を表すとは言うが、手帳や説明項では味気無さすぎるのではなかろうか。

 自分で付けるつもりは無さそうだし、そういった意味では礼になる……のかなぁ。

 ふとした思いつきだが、何か押し付けな気がしなくもない。


 すると手帳は沈黙し、少しの間だけ文字が止まった。何となく、ハラハラ。


『……仮の名を定める事により、更なる存在の定着を図るという事なら、本書の目的と合致します。呼び名の設定をお願いします』


『……提案しといてアレだけど、良いの? 名前なんて自分で決められるのに』


『構いません。説明項には、本書に対する決定権はありません。名称が設定されない場合は、これまで通り説明項と呼称します』


 良く分からない所で納得している手帳に問いかけたが、帰ってきたのは硬い文。

 そこには喜びも何も無く、僕の自己満足にしかならなさそうなのが辛い所だ。

 けれど手を抜くのも不義理だろう。眼鏡を上げ、僕の優秀な頭脳を働かせる。


(手帳、テッチー。説明子、めいこ、明子……オカルトテッチー明子さん。いやダサいな)


 あーでもないこーでもないと悩みつつ、思い浮かんだ名前を片っ端から書き記していく。

 手帳はそのどれにも反応しないままだったが――。


『――めいこ』


「ん……?」


 ぴくり、と。

 書き並べた名前の内、平仮名で書いた『めいこ』の字が僅かに動いた気がした。


『今、何かした?』


『非』


 手帳に訪ねてみても、帰って来るのは何時にも増して無感情な一文字だけだ。短すぎて裏を読み取る事も出来ない。

 ……どこか腑に落ちない感情を抱きつつ、その三文字を注視した。


「……ふむ」


 めいこ。

 特に捻りもない、何とも由緒正しい日本女性チックな響きだ。


 でも、その単純さが中々良いかもしれない。

 例えば後ろに『さん』を付けて『めいこさん』とか、余計な装飾が無い所が返って怪談らしくて良さげなのではなかろうか。『花子さん』とかそんな分類で。


『……うん、「めいこさん」はどうかな。怪談としてフラットじゃない?』


『構いません。本書には、本書への決定権がありませんので、ご自由にどうぞ』


 ……そう帰ってくるのは分かってたけど、自分の名前なんだから少しは何かさ。

 けど、まぁ。彼女自信が構わないというのならこれで決定としておこう。

 僕は『めいこさん』の文字を勢いよく丸で囲み、


「っ……?」


 ――その、刹那。紙面を走るインクが一瞬だけ火花を散らした気がした。


 何度も瞬きを繰り返して見直してみたけど、特に変わった様子は無い。

 ……見間違い、かな。まぁいいや。


『じゃあ、今からあんたの事はそう呼ばせて貰うよ。よろしく、めいこさん』


『……是』


 返答までに少し時間が空いたが、特に気にしなかった。新しく呼び名を付けた事により彼女に親近感を感じて、浮かれていたのかもしれない。

 めいこさん、めいこさん。うん、僕のセンスもなかなかの物だ。


「――よし、じゃあまずは委員長から決めるか。誰かなりたい奴ー」


 そうして一人悦に入っていると、若風先生が一際大きな声を張り上げてきた。

 どうやら一年間の生贄を募っているようだ。


 横目で周囲を伺ってみれば、誰も彼もが必死になって教師から目を逸らしてる。

 当たり前だ、誰が好き好んで面倒な責任を背負い込む物か。

 当然僕も皆に習い、静かに先生から目を逸らした……のだが。


(……ふむ)


 しかし、何度も言うが今日の僕は機嫌が良かった。

 考えてみれば、デメリットばかりでもない。

 周囲からの印象は良くなるだろうし、内申点も稼げる。優等生を自称する者としては、中々良い立場だ。


「居ないかー? じゃあ独断と偏見と第一印象で――……」


「――はい、僕で良ければやりますけど」


 まぁ、山原が消えて新しい生活が始まるのだ。少し位はチャレンジ精神を持ってみるのも悪くは無いだろう。

 僕はプラスの方向にそう思い直し、ゆっくりと手を上げたのだった。

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