六頁 開門(下)



「……あん?」


 背筋を撫で上げたその感覚に、山原は怪訝な声を上げた。


「どうした?」


「ん、いや……」


 特に、何が変わった訳でも無い。


 陽は既に沈み、周囲を照らす物は月明かりのみ。道を囲む木々の葉が風に揺られ、風情のある音を立てる。

 この辺りの住宅街に住む者なら、幼少より既に見慣れた情景だ。


 ……しかし、何か妙な違和感が付き纏う。

 よく見知っている場所である筈なのに全く知らない場所に居るような、得体の知れない感覚だ。


「……早く行くぞ」


「あ、おい」


 隣を歩く井川を置いて、歩く速度を上げる。

 先程までの気分の良さは既に無かった。あるのはただ、妙な気持ち悪さだけ。


「チッ……」


 せっかく念願の目的を達成できたというのに、その余韻を長く味わえなかった事に腹が立つ。

 何故こんなにも不快な気分になっている。疑問が過ぎるが、すぐに放棄する。

 頭を使い過ぎてダメになった少年を近くで見続けてきた彼は、何時しか深く思考する事を止めていた。


(まぁいいさ、時間は幾らでもある。まずはあいつの家に居座ってから――)


「……や、山原」


 口内で先の予定を転がしていると、押し殺した井川の声が投げかけられる。

 苛立ちつつ振り向いてみれば、井川は贅肉で膨れた体を縮め、前方を指差していた。

 再び視線を戻し、指し示された道の先を見る。


「あぁ?」


 暗闇に景色が溶け込む一歩手前。

 山原達より少し離れた場所に、何時の間にか人影が立っていた。


「…………」


 先程の暴力行為を見られたか――山原の心臓が緊張に軋むが、それも無視。いざとなったら脅しつければ済む事だ。

 何故か怖がっている様子の井川の腹を軽く叩き、男を睨みつけながら大股で歩き出す。


「……何だアイツ」


 しかし、その影は動じない。

 ただその場に棒立ちになり、こちらをじっと見つめ続けている。


 よく見れは、丸眼鏡をかけた細身の男のようだった。

 まるで陸揚げされた魚の如く、一定の間隔で上半身を痙攣させている。

 山原が男へ向けていた視線が、奇妙な物を見る目に変わった。


(……頭のおかしい奴か?)


 触らぬ神に祟りなし。

 そう結論付けた彼は歩くスピードを更に早めようとして――背後から力強く服の裾を引かれ、たたらを踏んだ。


「……おぉい、デブ川ァ」


 先程から妙にしおらしい井川に、山原は青筋を浮かべた。

 女性ならともかく、肥満体型の汗臭い男に頼られても嬉しくも何ともない。


「デブが何ビビってんだよ、あんな男ただの……」


「ち、違う、そうじゃない。いや、それもだけど、向こう、あれ、あれ……!」


 井川は強く指を突き出し、男の立っている場所より更に遠方を指し示す。

 その尋常ではない剣幕に気圧され、山原は反射的に男の背後へ視線を向けた。

 しかし、そこには闇が広がるだけ。視認出来る物は何一つとして有りはしない。


「……んだよ、何が言いたいんだ」


「は!? おい、冗談言うなよ! 見えるだろ、あんな沢山の黒い腕――んぶ」


 突然、くぐもった音を立てて言葉が止まる。

 それはガムを噛む時の物によく似た、粘着質な音だ。


「おい、どうし……、」


 不審に思った山原は何気なく振り返り、すぐに言葉を失った。


 ――井川の顔が、溶けていた。


「む、んぶ、ぐ……ッ!?」


 比喩ではない。

 口元から頬の辺りにかけて、顔の下半分が溶け出していたのだ。


 肌が、唇が、歯が、肉が、血が。

 温められたチョコレートのように溶け合い、混ざり合い。ピンク色の鮮やかな粘液へと変わり、むせ返る程に濃い肉の匂いを放っていた。


 その痕は見様によっては手形にも見え、まるで視認できない何者かに顔を掴まれているようだ。


「ん……! ぐ、むゥッ!」


 唐突に井川の頭が前方へ引っ張られ、鈍い音がその脊椎から響いた。

 そして彼の巨体は道の先、不審な男が立っている場所の向こう側へと引きずられていく。


 その勢いは凄まじく、地面を鑢として彼の体を削るのだ――血飛沫と、共に。


「んー! ぅんん!! んんんんッ……!」


 地面に手を突いても勢いは止まらなかった。

 それどころか指が折れ曲がり、肉が削げ落ちる激痛に絶叫する。

 しかしそれらも言葉に成る事は無く、雑音として撒き散らされた。


 全てが無意味。

 必死の抵抗も虚しく、井川は赤い筋だけを残し暗闇の中へと呑まれた。

 そうして先程と同じ、粘着質な音が辺りに残響し――やがて、止まった。


「……おい、おい?」


 痛い程の静寂。

 頭が働かないまま、何時の間にか近寄っていた男が視界に映る。


「――ひ、あ?」


 ――化物だった。


 眼孔、鼻腔、口腔、耳穴。

 顔中から濁った黒い粘液を垂れ流す、人の形をした、人ではない何か。

 決して存在してはいけない筈のそれが、まるで自分達を誘うかの様に手を差し向けていた。


「ひ、ぃッ……!」


 事ここに至り、山原は恐怖した。

 全身の毛穴から吹き出た冷汗がシャツを濡らし、頭の先から血が抜けていく。

 そうして人生最大の警鐘を鳴らす生存本能に従い、咄嗟に踵を返し走り出す。


「あ、っぐ!」


 しかし、失敗。

 踏み出した足が固定されているかの様に動かず、倒れこんだ。

 見れば足首が人の手の形にへこみ、万力の様な力強さで締め上げられている。


「――うわああああ! ああああああ! ああああッ!」


 徐々に溶け落ちていく衣服に井川の最期を重ね合わせ、絶叫する。

 見えざる手は更に力を増し、山原の体を引き摺った。

 白い粉の入った小袋が――幼馴染を発奮させる為に作った単なる塩の塊が、ポケットから零れた。


「あ、ああああ! な、何なんだよ! 離せ、クソがッ! やっと、俺はっ!」


 地に立てた爪が折れ赤い筋を作り出し、生への執着をアスファルトに刻む。

 しかしそれが決して叶わないであろう事を、彼は絶望の中で察してしまった。


「こ、これからなんだよォ! やっと、やっと引っ張り出せ……ん、ぐぁッ!」


 山原が口にしようとした、未来への展望。

 それら全てが、化物の身体に押し潰されていた。


「あああああああああ! あァァああああああああッ!」


 痛みも熱さも無い。

 ただ、身体が溶け落ちる感覚だけが鮮明に感じられた。


 服と皮膚。

 肉と骨。

 血と内蔵。

 全てが一つに混ざり合い、千切られ、持っていかれる。



 ――少しずつ、人としての形を失っていく感覚に、山原の精神は擦り切れた。



「あああああああああああああああああああああああああああああああッ!」


 獣の様な叫びを上げ、がむしゃらに身体を振り回す。

 徐々に輪郭を失っていく景色に臆面もなく泣き喚きながら、必死に手を伸ばすのだ。

 その向かう先は、これまで何度も虐げてきた幼馴染みの居る方角だった。


「たす、けて、助けて……!! お願い、死にたくない……!!」


 一縷の希望を目に湛え、掠れる声で助けを求める。

 それは二つの意味で決して届かない物であるにも関わらず、何度も、何度も。


 彼は既に人の形を失っていた。

 肉が溶け、骨が露出し、意識すらも覚束ない。

 そうして固形と液体の中間の物質となり、暗闇の中へと誘われていく――。


「……ろ……く……、……」


 最期に放ったその言葉すらも、最後まで紡がれず。

 思考も、人としての機能も全て失い、単なる人だったものと成り下がり。


 ――粘着質な音が、一つ。

 彼の全てが、それで終わった。



 ■



 そこで何が起こっていたのか、その時の僕には分からなかった。


「…………」


 完全に日の落ちた、真っ暗な小路の端。

 一歩先すら見通せないその場所で、僕はその声を、悲痛な叫びを聞いていた。


「……山原?」


 壁に手を付き立ち上がり、戸惑いながも奴の名を呼ぶ。

 返事は無い。


「……山原! おい!」


 先程よりも力強く名を叫んだ。


 道の先に目を凝らし、そこに居る筈の彼らを探す。

 しかし視力の問題とは別に、靄のように闇が蠢き景色を阻む。

 まるで――そう、そこから先は別の世界だとでも言うように。


「聞いてるのか山原! 山原く――ぅあっ!?」


 一瞬、何者かに右足を掴み上げられるような感覚があった。


 咄嗟に壁へ縋り倒れる事は避けられたものの、より深く爪が割れ、引きずられた血が「界」の字を縦断してしまった。同時に、掴んでいた力も消える。

 右足を見ると、いつの間にかズボンの右裾が溶けたかのようにボロボロに解れていて――って、違う、今はどうだっていいんだ、そんなの。


「山原! おい、クズ原! 浩史ぃ! コウくーん! ハハ、おーい!!」


 痛む体を引きずり歩き回りつつ、罵倒や昔呼んでいた渾名を投げかける。

 しかし、やはり反応はゼロ。徐々に心が昂ぶり始め、笑い声が漏れた。


(あいつのだった。絶叫は、命乞いは、あいつらの……!)


 井川はともかく、彼に関しては断言できる。

 そうだ、彼らは確かにここに居て、無様な悲鳴をあげていた。


「はは、嘘。や、まだ、待て……待て待て待て待て……!!」


 ただ逃げただけという可能性もある。

 僕は急いで地面を探り眼鏡を拾い上げると、宵闇の中で一層映えていたワインレッドを引っ掴み、手荒く中身を開き問いかける。


「い、いま! 何が起こった、山原達はどうなったんだ? おい、おいッ!」


『――――が、――――満――で、再――――ま――た』


 やはり光が無いのは如何ともし難い。

 淡い月光は木々に遮られ、浮かび上がる文字を上手く読む事が出来なかった。


 僕は逸る心を抑えきれず、明かりを求めて這いずり回り――見た、見えた。

 僕の筆跡を真似た書体でしっかりと書かれた、その文章……!



『――言霊、異小路。八度目の再現を確認。貴方に暴行を加えていた人物ならば、異小路の再現時に、異界へと誘われた事を確認しています――』



 ――機械的で、無機質で、無慈悲な文。


 その意味を理解した瞬間、僕は十五年の人生の中で一番の歓声を上げていた。

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