五頁 開門(上)



(……何で、こんな所に居るんだよ)


 せっかくの休日に山原と会うなんて、世界は本当に僕に厳しくあるようだ。

 自分の運の悪さを呪いたくなるが、しかし必死に不快感を堪え。表情筋を無理矢理に笑顔の形に固めて、憤りと共に仮面の奥へと押し込んだ。


「や……ま、原くんじゃないか。偶然、だね。こんな――ガッ!」


「お前今日どこほっつき歩いてたんだよ。呼び出し無視するとかねぇわ」


 山原は僕の言葉を完全に無視。

 今度は腹に蹴りを入れられ、尻餅をつく。


「っぐ……、き、今日は、朝から出かけてたからね……」


「だから携帯持てや。せっかく親睦を深めて貰おうと思ったのにさぁ」


 山原はそう言って背後に首を傾けた。

 視線を追って見てみれば、そこにはドタドタと走る丸っこい影が一つ。昨日紹介された井川という少年だ。

 ……推測するに山原は、今日一日『親睦』という名目で彼と一緒に僕を嬲るつもりだったらしい。当然ながら、暴力的な意味で。


「……そ、う。まぁこれからは気をつけるよ」


「チッ」


 山原は舌打ちを一つ打ち、やっと追いついた井川と共にさっさと歩いて行った。


「何やってんだ、早くしろよグズ」


「……何でかな。意味が分からないんだけど」


 まぁ、まだ続くよね。

 崩れ落ちそうになる膝を支え、山原へと顔を向ける。

 すると彼は振り向き様、ニヤニヤと意地の悪い顔で僕を見つめていて――。


「――決まってんだろうが、お前の家に行くからだよ」


 ……ぎちりと、心臓が裏返る。

 鼓動がその間隔を狭め、息苦しい。


「……どうして、そうなるのかな。できれば説明して欲しいんだけど」


 本当ならば、何も聞かずに拒否の意を叩きつけたかった。けれど僕の被っている仮面は、それを善としないのだ。

 あくまでも柔らかく、角の立つ事のない様に応対しなければいけない。


「いやさ、お前今日電話に出なかったじゃん」


「……うん、確かにそうだけど、それが何か……」


「お前二人暮らしだろ。何で誰も出ねぇんだってオヤジに聞いてみたんだよ」


 そしたらさ、ビックリしちゃったよ――山原はそう言い捨て、一度言葉を切った。

 早鐘を打つ心臓が、虫の声と合わさってとても煩い。

 外と中から鼓膜が揺らされ、頭の中がぐちゃぐちゃに掻き回されている。


 そして、彼はそんな僕を楽しそうに見つめながら――言った。


「――お前んちのババァ、死んだんだって?」


「――――」


 ……握り締めた拳が、湿った音を立てた。


「知らなかったよ。お前全然俺に教えてくれなかったもんなぁ。葬式にも呼んでくれなかったとか、どんだけ嫌ってんだよっていう」


「…………」


「まぁ俺もあのババァはウザかったし、別に良かったんだけどな? でもなー、割とショックだよなぁー?」


「……っ……」


「だからさァ、『お友達』として是非とも拝むくらいはしたいんだよなァ」


 いやらしい笑みを浮かべながら、彼はそう締めくくった。

 僕にとって一番大切な存在だったお婆ちゃんの事を、僕にとって一番唾棄すべき存在である山原が語る。

 その悪夢のような事柄に、胸の粘つきが音を立てて煮立ち、取り繕った仮面に大きなヒビを入れていく。


「……そ、うだね。お参りくらいなら、別に」


「そうそう、んでお供え物もちゃんと買ってあるんだぜ。なぁ?」


「ん? おお、これな」


 山原に話を振られた井川が、バッグの中から何かを取り出した。

 ……何か、白い粉末の入ったビニール袋。それを見た瞬間、思考が止まった。


「山、原……?」


「クン、を忘れてるぞ、いい子ちゃん」


 彼は少し興奮気味に、そして誇らしげにぴらぴらとビニールを振る。

 その何ら罪悪感を感じさせない仕草に、手帳の物以上のとてつもない嫌悪が湧き上がった。


「お裾分けだ。これお供えすれば、お前のババァも元気になるんじゃね?」


「ラリって生き返るかもな、はっは」


 二人は下品な笑に笑いながら、不謹慎な冗談で盛り上がる。

 救いようのない屑だ。激情を堪え唇を噛み、噛み切った。


「……そういう、の、良くないんじゃ、ないかな」


「あ? せっかくお前のババァの為に大金叩いたんだ、好意を無にすんなよ」


「……それは……でも」


「へぇ、優等生君がそんな意地悪をね。こりゃ草葉の陰でババァ泣いてるなぁ」


「っ…………」


 その汚い雑音を垂れ流す口にペンを突っ込んで、脳みそを犯してやりたかった。

 僕の黒い粘つきを、感じる負の感情の全てを直接コイツに刻み込めたなら、どんなに素晴らしい事だろう。


「ほーら、いいから早く歩けよ。日が暮れちまう」


「…………」


 ……嫌だ。

 こんなクズをお婆ちゃんの下に連れて行きたくなんてない。


「なぁ浩史、この眼鏡の家って他に誰か居ねぇの?」


「あ? あー、今は一人暮らしなんじゃね」


「へぇ、じゃああれだな。溜まり場に使えんな」


 嫌だ。

 こいつらを家になんて上げたくない。

 沢山の思い出が詰まった、お婆ちゃんと僕の家。そこに残った家族の匂いを、ヘドロの悪臭で上書きなんてしたくない。

 もう止めてくれ、口を開くな。これ以上雑音を聞きたくない。


「――あ。いい事思いついた」


 止めろ、止めて。頼むから、もう――。



「せっかくだからさ、これ仏壇にぶっかけてやろうぜ。その方が絶対効く――」



「――やめろッ!!」


 頭の血管がぶち切れ、我慢の限界を超えた。

 力の限り仮面を投げ捨て、山原の背に握り締めた拳を思いっきり叩き込む。


「っぐぉ……!?」


 僕はその隙を見逃さずその腕を掴み、地面に倒そうと力の限り引っ張った。

 肉を抉る様に爪を立て、何時もは殆ど使わない筋肉を酷使して。目の前に居る害悪に向かい、今まで抑えていた悪感情を叩きつける。


「お前らみたいなクズが、クズが……ッ!!」


「チッ……ってェな!!」


 だが、やはり足りない。山原はよろめく事すら無く、大きく腕をなぎ払う。

 僕の貧弱な体はその勢いに逆えず、彼の目の前へと飛び込み――そして、衝撃。

 骨ばった脛が、脇腹深くにめり込んだ。


「ごっ!?」


 ミチリ、ミチリ。内蔵が押し潰されたかのような圧迫感が身を襲う。

 そのまま蹴り飛ばされ、塀に衝突。夕暮れの空に眼鏡が舞い、ぶつかった左肩が嫌な音を立てた。


「ぁか、ひゅっ……」


「は、へ、へへっ。そうだよ、それで良いんだよ……!」


 壁伝いにずるずると崩れ落ち、横たわる。

 痛みと衝撃で途絶えた呼吸を呼び戻そうと、必死に肺を震わせる。そんな僕を見下ろし、山原は愉快そうに笑い声を上げた。


 そんなに僕の苦しむ姿が愉快か。

 動けないまま、充血まみれの眼球からこれ以上無い程の殺意を向けてやる。

 しかし彼はそれを嬉しそうに受け止め、一層深く笑みを浮かべた。


「気に入らねぇなら言えばいいんだ、なのにいっつも隠しやがって」


「は……っ、何を――ぐぁッ」


「ほら! クズが何だって? もっと言ってみろよ、オイ!」


 山原は意味不明の文句を怒鳴りながら、僕に追撃を加えた。

 何度も、何度も、何度も。踏みつけ、蹴り飛ばし、いつもの比ではない暴力の嵐が吹き荒れる。

 体中を荒れ狂う痛みに意識が遠のきかけ、亀のように丸まって耐え忍ぶ。


「嘘つき野郎が! 言えよほら、早く!!」


「ぅ……ぁぐ……」


「……おい浩史、もういいだろ。行こうぜ」


 そうやって止まない激痛に歯を食いしばっていると、井川がそう切り出してきた。


「うっせぇ、黙ってろピザ。今良い所……」


「馬鹿、動けなくなった後、これどうすんだよ。まだ明るいんだ、放置するにしろ持ってくにしろ誰かに見られる」


「……チッ」


 山原は口出ししてきた井川に鋭い視線を向けた後、大きく舌打ち。

 僕を踏みつけていた汚い足を退かし、最後に一発蹴り飛ばしてから背を向ける。

 歩く先はやはり、僕の家がある方角だ。


 行かせまいと妨害に立ち上がろうとするけど、体が思うように動かない。

 そんな僕の様子が分かったのか、山原は振り返らずに手を振り、嘲笑した。


「――それじゃ、先行くから。早く来いよ」


 お前が来る頃には、お家はどんな風になってるかな――。

 最後にそう吐き捨てて歩き去る。

 眼鏡が外れ朧気な視線の先で、二つの影が揺れていた。


(……穢、される。大切な物が、暖かい、記憶が……)


 それは絶対に止めなければならない。なのに、身体がまともに動かない。

 痛みが酷い。指先を伸ばす事すらままならず、ただ無様に地面をひっかくだけ。


「……そ、クソがッ!!」


 気付けば、熱を持った雫が頬を伝い落ちていた。


 悔しかった。

 憎かった。

 何故良い子である筈の僕がこんな目に遭う。

 そんな理不尽は無いだろう。

 淘汰されるべきは奴らだ、決して僕であっていい筈がない!


「……お婆、ちゃん……」


 耐え難い憤りと屈辱に心の中が黒い粘液で溢れ、力を入れ続けた爪が割れた。

 縦に入った割れ目から血が溢れ出し、指先を赤く塗らす――心が、折れ曲がる。


「くそぉ……!」


 嫌だ。嫌だ嫌だ嫌だ。

 負けたくない、折れたくない!

 折れたら全部に意味がなくなる!

 今まで培ってきた反発心をかき集め、体を持ち上げ近くの壁にもたれ掛かった。


(……何か、無いのか。山原を止める方法はッ……!)


 罵声を浴びせる、無理を押して突撃する。

 単純な方法なら幾らでも浮かんでくるが、それではダメだ。

 だからこそ嘆き、焦りが空転を続けている。


 何か無いか、どうにもならないのか。

 何か、何か、何か、何か、何か――。


「……っ……!!」


 ――脳裏に、赤い手帳の姿が浮かんだ。


 重い瞼を無理矢理こじ開けた先、視界の端に文字を見た。

 それは一部が欠けた「界」の文字。

 異界の扉を開くための、未だ揃わぬ鍵の欠片。


「ぐ、そっ……!」


 何だっていい。少しでも可能性があるのなら、どんな物でも縋りたかった。

 足りない一角を書く為のインクは既にある。割れた爪から溢れ出る、どろりと濁った血液だ。


「どこ、か。どこかに……!」


 痛みを堪え、文字の下へとナメクジのように這い寄って。

 怒りと憎しみを指先の粘性へと封入し、歯をこれでもかと食いしばる。

 そして胸中に溢れるドス黒い激情のまま、文字の欠けている部分に指を合わせ。



「――消えて、しまえ……ッ!!」



 ――ぱきん、と。


 爪が更に亀裂を深めた音を聞きながら――赤黒い火花と共に、引き摺った。

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