一頁 黒いインク瓶


「なぁ、お前放課後暇か?」


 春。

 三年通った中学校を卒業し、高校生になって初めてのホームルームの少し前。

 教室の机に座り読書に没頭していた僕は、後ろから投げかけられた声で我に返った。


 振り返ると、目に飛び込むのは無造作に四方へ散らされた茶髪と、輝くピアスをつけた男子生徒が一人。

 厳守しなければならない筈の校則を完全に無視をした、まだ名も知らぬクラスメイトだった。


「や、今日学校終わったらさぁ、顔合わせも兼ねて皆でカラオケ行こうかなって話になったんだけどさ。お前も行く?」


 そう言って指し示された方向に視線を向けてみると、今日初めて顔を合わせた生徒達が駄弁っている姿が見える。

 僕は軽く溜息を一つ吐き、文庫本に栞を挟みつつ表情を柔らかい物に固めた。


「……カラオケって、どこの?」


「大通りの角。ずっと工事してたけど、先週からカラオケ屋になったらしいぜ」


 そうして差し出されたのは、生徒手帳の学校周辺地図が描かれた項だ。

 中央に大きく書かれた『告呂市立 神庭高等学校』の文と略図――それより少し離れた部分を指先でくるくると囲む。


「な?」


「……うん」


 一体何が「な?」なのか。

 あまり要領を得ないが、おそらくその辺に件のカラオケ屋があるという事なのだろう。


「で、どうよ。これから一年一緒になるんだし、自己紹介? とか色々さ」


「……たぶん二時限目とかに自己紹介の時間が取られると思うんだけど、それじゃ不足って感じ?」


「ハハ、そりゃ違うだろ種類がさァ」


 割と本気だったんだけど。

 だが流されたのならそれでも良いと、彼の笑いに乗っかり肩を竦める。


「まぁ、悪いけど遠慮しとくよ。今日は放課後に人と会う約束があってさ」


「あー、そうなん? んーじゃあどうすっぺ……」


 その気を遣った一言に、クラスメイトは後頭部を掻き残念そうな顔をする。

 どうも何か手がないかと模索しているようなので、「ごめんね」とより一層の駄目押し。

 こちらも残念そうな表情を作りながら、機会があったらまた誘って欲しいと一言告げた。


「……しゃあねぇか、分かった。んじゃまた何か集まる時に誘うわぁ」


「ごめんね、その時はよろしく頼むよ」


 ちゃらけた外見だが、善人ではあるのだろう。

 彼は申し訳なさそうな表情を浮かべたまま、片手を振って仲間の下へと歩き去る。

 彼が一歩づつ足を進める度、腰元からまろび出たシャツの裾が動物のしっぽの様に揺れ、今すぐ駆け寄ってズボンの中に突っ込んでやりたい衝動に駆られた。実行はしないけど。


 そうして彼らが楽しそうに笑う光景を見ていると、僕の心にもある感情が湧き上がって来る。

 そう、その感情の名は――――圧倒的な不快感、だ。


「…………っ」


 思い切り眦を釣り上げ眉を顰め、しかし眼鏡の位置を直す振りでそれらを隠す。


 浮かぶのは、嫉妬と嘲りの混じった黒い感情。

 優等生を気取っている者として、決して人前に出してはいけない負の衝動だ。


(調子、乗りやがって……!)


 殺意を抱く程ではない。ただ、気に食わなかった。

 その不真面目でだらしのない格好が。

 好きな様に、何も考えず生きていけるその気楽さが。

 僕よりも確実に下の場所にいながら、僕よりも楽しそうに日々を過ごしている彼らの在り方が、ただただ不愉快で仕方がない。


「……くそ……」


 気がつけば、僕はボールペンを握っていた。

 学生服の内ポケットに手を這わせ小さなメモ帳を取り出し、適当なページを開き滾る悪感情を叩きつける。

『死ね』『馬鹿』『クソ』『低脳』――インクを乗せたペン先が転がる度、低俗で幼稚な単語が白いページを真っ黒に染めていく。


 醜い心を瓶として、そこに滞留する悪意を黒のインクに見立て、吐き出す。

 根暗で陰気、且つ無意味な行為だとは自分でも理解している。

 他にストレスを発散させる方法なんて、読書なりゲームなり探せば幾らでもある。けれど、どうしても止める事が出来なかった。


 それは最早、僕にとっての自慰行為の様な物になっていたのかもしれない。

 こんな衆人の中でそれに及ぶなんて、我ながら最低と言わざるを得ないけども。


「……は、」


 小さな呼気と共に涎が小さな飛沫となってインクの上に落ち、字を滲ませる。

 そして周囲に最低限の注意を払いながら、平静を装って手を動かし続けるのだ。

 担任となる教師が教室に入ってくるまで、ずっと。


 ――四月九日、金曜日。


 入学式を前日に消化した、高校生活二日目。

 僕という存在は、新生活に置かれても変わらず腐った臭気を放っていた。





 僕が住むこの告呂市は、いろいろと中途半端な都市だ。


 小都市というには発展していて、中都市というには人が少ない。大都市なんて言うに及ばず。

 大通りよりも曲がりくねった獣道、駐車場より田んぼの方が多い田舎町予備軍。それが告呂という地だった。


「…………」


 まだ授業が始まらず、午前中のみで学校生活を終えた僕は、そんな寂れかけた街中をてくてく歩く。

 目に映るのは、見事な花弁の咲き誇る桜の木と名も知らぬ赤い花。

 ひらひらと舞い落ちる暖色の雨を身に受けていると、春という季節を強く感じられる。


 そんな空気を吸い込んだ胸に浮かぶのは、高校生になったという実感だ。

 児童とも少年とも違う、青年への道。

 人生にとっての新たなステップへ進んだという事実が、強制的に僕の心に刻まれた。


「あーあ」


 が、同時に今朝のクラスメイト達の事を思い出し、溜息。


 あぁ嫌だ嫌だ。僕より幸せそうな奴らなんて皆死んでしまえばいいのに。

 これから一年間、彼をはじめ毎日が楽しそうな奴らと顔を突き合わせる事になるかと思うと、もう本当に嫌だった。

 妬み、僻み。そう呼ばれる感情である事は自覚できている。

 自覚できているが、どうしようもない。


 どうにか出来ていたら、僕はメモ帳に悪感情を並べ立てるなんて幼稚な行為は続けていない。とうの昔に辞めている。


「……くそ」


 詰襟の左ポケットに収まっている悪意の固まりと共に苛つきを抑え、肩に乗っていた桜の花弁を払い落とし歩みを進める。

 目的は住宅街にある川の前。そこで僕は、ある人物に呼び出しを受けている。

 先ほどクラスメイトの誘いを断る際に口に出した約束事、それは嘘でも方便でもなく純然たる事実だった。


 そうして木々の並ぶ大通りを抜け、住宅街へと続く細道を通る。

 申し訳程度にコンクリートで舗装されたその道は言いようの無い不気味さを感じさせ、何回通っても慣れる事はない。


「……相変わらず、ボロいな」


 何の気なしに呟いて周囲を見回してみるけど、特に変わったものは無い。

 強いて言うならば、壁に描かれている下品な言葉や暴走族の落書きくらいか。

 いやよく見れば『界』とか何故書いたのか分からない文字もあって、怖いといえば怖いけれど。


 そんな他愛もない物を観察しつつ何度も角を曲がり、分かれ道を過ぎ。

 まるで迷路のような複雑な道のりを進みながら住宅街へと向かう。


 小さな頃から幾度となく通ったとは言え、やはり面倒な順路だ。

 太い道で大通りと直結させてしまえと思うのは、この辺に住んでいる人々なら一度は思う事柄だと思う。


 それでもそうしないのは、古くからの迷信が原因なのだろう。きっと。


「立ち入り禁止の森、ね」


 道の外側、随分と古くなった柵の内側には、人の手が入らないまま鬱蒼と生い茂る木々の群れがある。

『さやまの森』と呼ばれるその場所は、昔からこの近辺の住民に忌避されている場所だ。


 何故そう呼ばれているのか。

 どうして忌避されているのか。

 具体的なことは何一つ聞いた事は無い。


 しかし、そういった空気が蔓延しているのは事実だ。

 この森に入れば、必ず罰が当たる――そんな、強迫観念にも似た迷信が。


「……下らない」


 とは思うが、そう一笑に付す事も憚られる。

 十年くらい前には、小道を現場として未解決の行方不明事件が起こっていたという話だし、何も謂れが無いという訳でもないのだ。


 この森の中には、決して触れてはいけないものが潜んでいる。

 だからこそ、こうして開発されることなく放置されたままなのではなかろうか……なんて。


「…………」


 ――目を向けた先、日の届かない森の奥に漂う暗闇が、こちらに向かって這い寄ってくる錯覚を受けて。


 僕は頭を軽く振り、背筋をよじ登り始めた薄暗い妄想を振り払う。

 迷信は迷信、気にする必要なんてあまりない。そう思い直して、足を速めた。



 長い道を小石を蹴っ転がしながら進み続け、とうとうその終わりまで辿り着く。

 特に目を引く所もない閑静な住宅街だ。

 ここまでくれば、後は歩道の脇に流れている用水路を辿り歩くだけ。


「あー、やだなぁ」


 足取りが重たい。本当に行きたくない。


 どうしてこうなったのだろう。

 重たい頭に、後悔と憤りが引っ付いた疑問が湧き上がる。


 僕はちゃんと毎日を真面目に生きて、優等生として他人に恥ずかしくないように生きている。

 それなのに、何故この様な立場に置かれているのか。


「…………」


 そんな事を考える内、目的地の川橋に到着。

 そしてその手すりに体を預けるようにして、幾つかの人影を視認する。言わずもがな、僕の待ち合わせの相手だ。


 他校の制服を着た彼らはつまらなさそうに携帯電話を弄っていて、こちらに目を向ける様子がない。


 ……このまま帰ってしまいたい。

 が、もしそんな事をしたら、あいつはきっと家にまで押しかけてくる筈だ。

 舌打ちを鳴らし、続いて大きく深呼吸。眼鏡と鞄を橋の影に隠し、憂鬱な足取りで近づいた。


「……どうも」


 聞こえなければいいのに。

 淡い期待を込めて小声で話しかけるが、そんな願いなど届く筈も無く、一人の少年が反応し目を上げた。


 その容姿は凄まじいの一言に尽きる。

 痛んだ金髪をアニメキャラのような妙ちきりんな髪型に固め、着崩す所か改造の域に至るまで手が加えられたブレザー型の制服を纏っている。

 先のクラスメイトなど、比較にもならない。


「……あのさぁ、遅すぎだろ。もうちっと早く来いよ」


 彼はそう言って、馴れ馴れしく笑いかけてくる。


 笑顔、とは言ってもただ表情筋がそうあるだけで、親愛などといった感情は欠片も篭っていない。

 ただこちらを嘲り、見下している事がありありと分かる物。

 今まで生きて来た一五年の歳月の中で、何度も受けた嫌な視線だ。


 ――山原浩史。

 幼少の頃からの知り合いで、幼馴染にあたる少年である。


「俺ら何時間前に来てたと思ってんだ。少しは配慮しろっての」


「……うん、悪かったよ」


 何時間前、って事は学校を抜け出してきたのだろうか。

 感情の全く乗らない謝罪を舌に乗せつつ、僕は目線を彼の横に控える見覚えのない二人の少年に向けた。


「……ああ、こいつら? 俺の学校で新しく作ったツレ」


 するとその視線に気づいたのか、山原は顎で二人を指し「デブが井川、図体でけぇのに情けねぇ顔してる金髪がリュウな」とあんまりな紹介をした。

 それを聞いた井川は山原を睨みつけ、リュウは溜息をつく。仲はそれほど良くないようだ。


 何となく生温かい目で二人を見つめていると、山原がニヤニヤしながら彼らに向かって顎をしゃくる。


 自己紹介をしろ、という事だろうか。

 正直気は進まない。が、紹介されてしまった以上は答えない訳にも行かないだろう。

 何時も通り優等生の仮面を被り、清潔感のある作り笑いを浮かべた。


「どうも、僕は日――、っ!」


 ――パシン。肌が弾ける甲高い音が響く。


 唇がひん曲がり、唾液が飛び。口にしかけた自らの名前が声と成る事無く消滅。

 眼前にチカチカと星が舞い、たたらを踏んで手直にあった手すりへと縋りついた。


 ……横合いから、頬を叩かれたのだ。それも結構な力を込めて。


「っく……」


 これだから、嫌なんだ。

 ジンジンと熱と痛みを帯び始めた右頬が、脈拍に合わせ細動する。


「紹介するよ、こいつ、俺の『良いお友達』」


 暴力行為を成した彼は何一つ悪びれた様子もなく、ニヤニヤと口元を歪ませながらそう言った。


「え? いや、はっ……?」


 そんな声が聞こえる方向に視線をずらすと、突然の事に混乱したリュウ君が僕と山原を見比べている。

 どうやら彼は割とまともな感性を持っているらしい。

『良いお友達』の意味を察し、面白そうな表情を浮かべている井川(だっけ?)とは雲泥の差だ。


「――……そ、う。だね、山原君とは良い友達だよ」


 怒りはある、憤りもある。

 けれどそれら全てを必死に堪え、先程の物と変わらない爽やかな笑みを浮かべた。

 するとそれが気に入らなかったのか、山原は眉をピクリと顰め、先程よりも強く肩を殴る。


 しかしそんな事はもう予想済みだ。

 足腰に力を入れて踏ん張り、よろめく事無く立ち続けた。

 お前の期待する反応など、意地でも返してやるものか。


「……チッ」


 僕の態度に山原は更に気分を害したようだ。

 ……その釣り上がった眉に、これから行われる更なる暴力を予感し、表情に怯えの感情が出そうになる。

 しかし半ば意地のままそれを覆い隠し、穏やかな笑みをより一層深めておく。


 ――それは明らかな挑発行為に他ならず、山原の口元を憎々しげに歪ませる。


「やっぱ毎度うぜえな、お前」


 苛立ちに染まった彼は実に貧相な語彙を吐き捨て、右足を大きく振りかぶった。

 当然だけど、ガリ勉メガネの僕にそれを避けられる反射神経なんて無い。


 そうして暴力に晒される直前、僕の頭に過ぎったのは新しいクラスメイト達の事だ。


 きっと今頃彼らは、僕がこんな目に遭っているのに楽しく歌っているのだろう。

 新しい生活への高揚感のまま、普段は見せない積極性を見せたりして、後から思い出して軽く悶える様な失敗なんかもしちゃってるのかもしれない。


 はてさて、一体何組の仲良しグループが出来たのかな。

 一体何件のアドレスが交換されたのかな。

 良いなぁ、楽しそうだなぁ。


 ――ああ、本当にみんな死ねばいいのに。


 鳩尾に爪先が着弾する間際、僕はそんな呪詛を呟いた。

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