二頁 赤い革手帳

 僕には両親の記憶がない。


 物心ついた頃には既に父方の祖母と二人暮らしをしていて、父母の影はどこにもなかった。

 何でも、僕が三歳の頃に二人共蒸発してしまったらしい。

 当時この辺りでは住民が行方不明になる事件が頻発していたそうで、それに巻き込まれてしまったのだと祖母が話してくれたのを覚えている。


 僕としてはその犯人に怒りは感じるけれど、それ以上に憎む事は無かった。

 両親がいなくなったという事を当時は理解しきれず、気づけば彼らがいない事が当たり前となっていたのだ。


 けれどもそんな僕とは違い、祖母は相当悲しんだのだろう。

 ぼんやりと朧気な記憶の中では、祖母はいつも泣いていた。


 そして僕は、本当なら児童養護施設に預けられる事になっていたそうだ。

 けれども祖母は――お婆ちゃんは、その勧めを振り切って強引に僕を引き取った。


 理由は分からない。

 一人じゃ寂しかったのかもしれないし、そうじゃないかもしれない。


 ただ確かだったのは、僕とお婆ちゃんがたった二人きりの家族となったという事だけだ。

 父親が教えてくれる事、母親が与えてくれる物。その全てをお婆ちゃんから受け取っていた。


 僕はそれに応えたかった。

 お婆ちゃんに恥ずかしくないよう、育て方が悪いとか陰口を叩かれる事の無いよう『優等生』として振る舞う事を心がけた。

 そうしてそれは、十年の間ずっと。当時より現在に至るまで継続し続けている。


 勉強をサボらず、粗暴な振る舞いをせず。

 我侭も文句を吐かず、我慢に我慢を重ねて。

 自分で言うのも変だけど、結構上手く取り繕えていると自負している。


 ……まぁその代わり、内面は見られた物ではなくなってしまったのだけれど。





「――糞が! 何であんなクズに殴られなきゃいけない! 死ね、死ね……!」


 住宅街の路地裏。

 散々僕を痛めつけて満足した山原達が去っていった後、節々が痛む体を丸めながら地面を机としてメモ帳を広げていた。


 唾液を吐き出し、涙を浮かべ。

 ついでに鼻の粘膜も切ったのか、鼻水と一緒に濁った血液まで垂れてくる。


 そうして汚らしい罵声と共に、山原たちへの恨み言を綴るのだ。

 僕への暴力行為――所謂いじめと言う幼稚で頭の悪い行為を、高校生にもなって続けている馬鹿どもへの呪いである。


「うぜぇだ何だ。全部こっちのセリフだ! くそ、くそっ……!」


 濃密な憎悪の篭った文字が、ペンの動きに合わせて踊り、舞う。

 粘ついた憎悪インクが際限なく湧き続け、瞬く間にページを粘ついた黒に塗り潰していった。


『この人はね、ロクちゃんのお父さんととても仲が良かったんだよ』


 山原と知り合ったのは、小学校の低学年の時期だ。

 お婆ちゃんから紹介された、父親の親友だという男性が連れていた子供が奴だった。


 当時の山原は人懐っこい子供でしかなく、僕達は共に笑い合う友人同士だった。

 それが今のような虐げる者・られる者の関係になったのは、何時からだっただろう。

 きっかけも何も思い出せないけれど、気づけば今の関係が構築されていた。


「山原ァ……! 死ね、死ね、死ね……ッ!!」


 ポタポタと、殆どが黒く染まったページに、涙と血の混じった鼻水が落ちる。

 紙の奥へ染み込もうとするそれをインクと混ぜ合わせ、紙面上へと引き伸ばす。


 そうしてページが埋まれば、また次のページを捲って同じ事の繰り返し。

 幾つもの文字を連ねる度に、心がすっと軽くなっていく


 陰口を叩くようで決して褒められた行為ではないけど、これは他人に汚い所を見せたくなかった僕にとっては手軽で効率の良いストレス発散法だった。


「ッ! ……は、」


 最後の文字を書き終わり、僕の体液とインクでよれよれになったページに勢い良くペンを叩きつけた。


 達成感を持った虚脱感が湧き上がり、濁った気分が幾らか晴れる。

 残響する鈍痛の中で思考だけがクリアになり、姿勢を起こして壁にもたれ――。


「!」


 はた、と我に返った。

 自分が如何に『優等生』から遠い振る舞いを見せていたかに気が回る。


 慌てて周囲を伺ってみるけど、辺りには人影らしきものは無い。

 どうやら誰にも見られなかったようで、溜息を吐いた。

 もういい。終わったのなら帰ろう。

 僕は痛む体を引きずって、壁に縋り付き立ち上がり。


「……、?」


 途端、コツリと軽い衝撃が靴に走る。拾い忘れたメモ帳だ。

 僕は己の余裕の無さに自嘲しながら腰をかがめ、指先を伸ばし。


「あ」


 ぽたり、と。

 鼻から垂れた赤い血液がメモ帳の青い表紙に落下し、赤黒い華を咲かせた。


「……はぁ」


 ポケットティッシュで鼻を拭ったついでに擦ってみたけれど、引きずられて更に広がってしまった。

 円に毛が生えたような不気味な模様。

 苛立ち紛れに溜息を吐いて、メモ帳を無造作にポケットへ突っ込んだ。


「くそ……山原のアホが、気合入れやがって……」


 毒づき、頬に出来た青アザに指を這わせる。

 高校生になって舞い上がっていたのか、それとも仲間とつるんで気が大きくなっていたのか。何時もよりも気合が篭っていた気がする。


 これからはこのレベルがデフォルトになるのかな。

 舌打ちに鉄錆の香りが混じり、辟易とした。




 帰り道を歩いていると、やがて一件の古びた家屋が見えてくる。

 僕とお婆ちゃんの実家。築三十年位は優に超えている木造住宅である。


 年月を重ねて深みを増した木柱に、ヒビの入った壁。家具もほとんどが木製で、どこもかしこも茶色だらけ。

 外観も内装も古臭い事この上ないが――僕は結構、気に入っていた。


「……ただいま」


 玄関から真っ直ぐ奥の部屋へと向かい、適当に鞄を放り投げ仏壇の前に正座する。

 ぺすん、と綿の潰れた座布団が情けない音を発した。


 僕が生まれる前からあったその仏壇には、黒い位牌が二つと額に入れられた白黒の写真が一つ立てかけられている。


 時間が経ってセピア色にくすんだその世界の中に、一組の若い男女の姿があった。

 場所は多分、先程通ってきた川の前だろう。

 彼らは楽しそうな笑顔を浮かべながら、仲睦まじく互いに寄り添っている。


 ――それは若かりし頃のお婆ちゃんと、記憶にない家族の姿だ。


 しゅぼ。

 仏壇の前に置いてあったマッチを擦り、蝋燭に火を灯す音が僕以外の誰もいない古屋に残響した。





 お婆ちゃんが亡くなったのは、今から半年ほど前。

 冬を間近に控えた、肌寒い日だった。


 何時も通りに学校に行って、何時も通りに真面目に授業を受け、何時も通りに山原からちょっかいをかけられて。

 そして帰ったら、お婆ちゃんは早めに出した炬燵に潜った姿勢のまま、動かなくなっていた。


 皺だらけの手も、穏やかな寝顔も普段と同じ。

 炬燵に入っていたせいか体温も冷たくなくて、夕飯時になるまで僕は彼女が死んだ事に気がつかなかった。


 老衰だったらしい。

 それまでのお婆ちゃんにはそんな予兆は欠片も見受けられなかったから、あの時はかなり取り乱した物だ。

 今はもう、寂しさを知らんぷりできるけど。


 ――ろくちゃんは、良い子だねぇ。


 お婆ちゃんのそんな言葉は、今も僕の心に息づいている。


「……さて」


 お婆ちゃん達に挨拶した後。蝋燭に点いた火はそのままに居間に戻る。

 新品の筈なのに随分とくたびれてしまった制服を脱ぎ、体を検分。


 至る所に青アザと擦り傷を発見する事ができた。酷い。

 指を這わせてみる。痛い。


「い……ぎ、き」


 油の切れたブリキ人形のような動きで、タンスの上の薬箱へと手を伸ばす。

 そうして擦り傷に染みる消毒液に涙をちょちょ切らせていると、何か嫌になって来た。


 家族は居ない、親しい友人も居ない。

 嘗て仲の良かった元親友からは暴力を受けていて、それに意地で抗って。

 そんな嫌な事しかない世界を、今後も惰性の仮面を被り続けて生きていく。


「……うげー」


 未来に対する余りの展望のなさに変な声が絞り出され、ぱたりと畳の上に倒れこんだ。

 自分で言うのも難だが、僕ってばこの年にして結構不幸レベル高めじゃなかろうか。少なくとも幸せとは到底言えないし、個人的にも言いたくない。


「…………」


 心の深い場所にある、粘性の汚物が煮立つ。

 その衝動のまま畳を這いずりクローゼットへ向かい、手帳を求め制服を探る。


「くそ……」


 酷く、苛々する。

 僕は一刻も早く、胸の汚泥をインクとして吐き出したくて――何の気負いも無く、『それ』に触れた。


 ――思えば、『それ』はもっと前から在ったのだろう。

 僕が気付かなかっただけで、きっと。


「……う、ん?」


 さらり。触り慣れた厚紙では無い、すべすべとした滑らかな感触が、指先に伝わった。


 不審に思いポケットから引き抜けば、握られていたのは愛用していた物と全く別の手帳だ。

 サイズは同じだったけど、その表紙は黒の混じった赤――ワインレッドと言うのだったかな――で染められ、何の模様も文字も描かれていない。

 何か生き物の皮を用いているらしく、鞣された皮と収縮した毛穴の痕が独特の質感を生み出していた。


 中身もそれと合わせたように、紙の代わりとして羊皮紙の様な物で纏められていて、ずっしりと重さが伝わってくる。

 ペラペラと捲ってみるが、全て白紙だ。


「……何だこれ?」


 全く覚えが無い。

 何度もひっくり返して観察し、片手で再び制服のポケットの中を探るけれど、糸くずが爪の隙間に挟まるだけで何もなし。

 他のポケットを探しても同様だ。


 拾い間違った?

 いや、違う。

 僕は確かにメモ帳を拾った筈で、こんな古びた手帳なんて絶対に拾っていない。


「……気持ち悪いな」


 先程観察した時には何も感じなかったのに、今では妙な不気味さが発せられているような気がする。


「捨てる……いやでも、なぁ」


 もし誰かの大切な物だったら良心が痛む。

 後で警察に届けようかと少し思案し――がさりと、指先の手帳が震えた。


「ひっ!」


 気味の悪い感触に総毛立ち、湧き上がる嫌悪感のまま反射的に投げ捨てた。


 少々のスナップを利かせて放り投げられた手帳は綺麗な放物線を描き、ぺたりと軽い音を立ててちゃぶ台の上に落下。

 その何者にも侵されていない、まっさらな中身を晒す。


 ページの間に虫でも挟まっていたか。指先をこねり合わせながら手帳を観察するものの、幾ら待っても一向に動きは無い。


「……気の所為、か?」


 そう思うが、虫は気を抜いた隙を突いて飛び出してくるものだ。

 油断無く警戒しながら、手帳を注視し――そして、気付く。


 何かが、ページの上で蠢いている。


「……あ?」


 虫ではなかった。

 それは見る者に嫌悪感を与える、血の色に似た黒混じりの赤。


 ――先程まで確かに真っ白だったページの上で、命を持たない筈のインクがミミズの如くのたくっていた。


「…………………………………………」


 元々低い視力が更に悪くなってしまったかな。

 しかし何度見直しても、目を擦っても、インクは不気味に蠢いているまま。

 皮紙の表面から湯水のごとくインクが湧き出し、互いに絡まり次々と文字を形成させていくのだ。


「……っぐ」


 ぞわりと、生理的な嫌悪感が湧く。


 僕は喉を迫り上がるそれを抑えるように口元を掌で塞ぎ、眉を顰め後退った。

 そして必死に目線を逸らそうとしたが――失敗。

 瞬きすらも出来なくなって、見えない力の糸が眼球を固定しているかのようだ。


 ――もしもこの時、無理矢理にでも手帳を捨てていたら、どうなっていたのだろう?


 これより先、何度も命の危機に陥った時、僕はそんな疑問と後悔に襲われる。


 しかし当然、今の僕にそんな事を予知できる筈もなく。

 呆れる程に無知のまま――完成したその文字を見た。見てしまった。


 それは、僕の未来を潰した言葉。

 それは、僕の未来を拓いた言葉。



『わたし、の。十三度目の再現が完了致しました。本書は、説明項を開きます――』



 これより先、多大なる迷惑事を運んでくる、声を持たない疫病神。

 その産声は、無感情であると同時に慇懃無礼な物だった。

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