第2-2話 誰にも知られない存在(2)

「ああ。仕方ないだろ。俺だって、ずっととりつかれたままなんて嫌だしな」


 誠は胸の内をごまかすかのように溜息まじりに答えて、胸の前で両手を広げてみせる。

 優羽が幽霊だと言う事は、ほぼ間違いがないだろう。宙に浮かび、触れる事はできない。その存在はここにいてはならないものだと示すかのように、彼女は空間に溶け込んでいた。


 この世の物ではないと示すかのように。


 けれど優羽のどこか抜けたような性格のせいか、誠はもう恐怖を感じない。それどころか少しくらいは彼女の力になってやってもいいかとすら思い出していた。

 そういえば女の子にはいつでも優しくするものだと、父さんはいつも言っていたなと誠は不意に思い浮かべる。


 彼女が普通の女の子として接していいものかは疑問もあるが、けれども困った人が目の前にいて、自分は差しのばす事ができる手をもっている。なら差し出さずにいる理由があるだろうかと、心の中で思い起こす。


 誠はそんな自分に苦笑せずにはいられない。あまりにも突拍子も無い出来事を受け入れている自分が、ちゃんと正常なのかどうかも疑わしくなってくる。

 けれども話をしているだけでは幽霊だとは全く思えない彼女に、完全に調子を崩されていた。


「わわっ。ありがとうっ」


 優羽は大声で言い放つと、そのまま誠へと飛びついていた。

 もちろん優羽は幽霊である。実際に誠に触れる事は出来ず、ただ目の前に優羽の顔が急接近しただけの話だ。

 それでも唐突に現れた少女の顔に、慌ててのけぞるように後ろに下がると、驚きのあまり荒い息を吐き出していた。


「急に近づくな!? 心臓が飛び出るかと思っただろっ」


「わ。なんでそんな冷たい事いうんですかっ。そりゃあ嬉しい事があったら、誰だって喜びを表現するに決まってるじゃないですかっ。だいたいそれくらいで驚いてどうするんです。私、どうやら貴方の半径二メートル以内から離れられないみたいですからねっ。ずーっと一緒にいる訳ですよ。ずーっと」


 優羽は指先を左右に振るいながら、じっと誠の目を見つめていた。

 しかし誠は今、優羽の告げた言葉がはっきりと理解出来ないでいる。


 誠はしばらくの間、沈黙を保って、なんとか一つずつ優羽の言葉を認識していこうと考えを巡らせた。


 半径二メートルっていうのは、中央にいればだいたい部屋が丸ごと全部入るくらいだろう。離れられないっていうと、自分の身の回りにいる訳で。ずっとというのは、四六時中という事か。つまりは。本当に少しずつ言葉をかみ砕いていく。


 もちろんそうして導き出される答えは一つに過ぎない訳で、やっとの事で浮かび上がった事実に、誠はすっとんきょうな声で叫びだしていた。


「ちょ、ちょっとまてっ。するっていうと、何か。俺はお前が成仏出来るまで、いつでも二十四時間年中無休つきまとっている訳か。コンビニエンスストアか、お前!?」


「むむ。失礼な事いいますねっ。私だって、貴方とずっと一緒にいたい訳じゃあないですけども、仕方ないでしょう。まぁ、幸い貴方は私に触れる事が出来ないみたいですから、困った事にはならないでしょうしっ。辛いのは我慢しますっ。そんな訳で、貴方も我慢してくださいっ。それでいいですかっ、納得ですかっ」


 優羽はぷいと顔を背けながら告げる。しかしすぐに誠が気になるのか、ちらりと横目で覗き見ていた。

 ただ誠は彼女のそんな様子には全く気がついていない様で、呆然としたまま立ちつくしている。


「お、俺は一体これからどうなるんだ」


 呟いた声に、優羽がすぐに振り返って、誠の肩に手を乗せていた。もちろん実際に手が触れた感触がある訳ではなかったが、彼女はどこか楽しそうに人差し指を突き立てる。


「まぁ、なんとかなりますよっ。そんな訳で、これからよろしくお願いしますっ」


 優羽のその一言は、誠にとって全く救いにはならなかった

 魂が抜けたかのように誠は部屋の中に立ちつくす。どうしたものか全くわからない。

 しかし呆然としたままの誠を、一気に現実に引き戻したのは、外から響いてきた声だった。


「ちーす。ミケネコ引っ越しセンターっす」


「げっ!?」


 思わず声を上げて、慌てて周りを見回した。優羽の身体は変わらず浮かんでいる。引っ越し業者の人が見かけたら、それだけで大騒ぎになってしまうだろう。

 幽霊屋敷だ等とあらぬ噂、いやある噂を立てられてはたまったものではない。誠はばたばたと慌てふためいて、優羽を隠す事の出来る場所を探し始めた。


「と、とりあえず押入に隠れて。いや、だめだ。引っ越しの人は絶対あける。どうすればいいんだ。そうだ、トイレ。トイレなら平気だろ。優羽、トイレに隠れてくれ」


「えええっ。私、別におといれなんかいきたくないですっ」


「そうじゃなくってっ。お前を見たら、引っ越しの人が仰天するだろうが。とにかくしばらく隠れていろ」


「やですっ。絶対、やですっ。隠れる意味がわかりませんっ。なんですか。そんな厄介者みたいにいってひどいですっ。私、そんなに邪魔ですか」


「邪魔だっ。つうか、はやく隠れ……」


 ぷいと顔を背けて嫌がる優羽を、なんとか隠れるように促す。とはいえ優羽の身体に触れられる訳でもないから、優羽の意志を無視する事は出来なかった。

 もっともすぐに無視する必要もなくなっていたのだが。


「荷物配達にきましたー」


 時すでに遅し。引っ越し業者の若い兄ちゃんが、扉を開けてスタンバイしていた。

 誠はその場で完全に時間を止めていた。どうしたらいいのかもわからずに、ぽかんと口を開けて業者の人を見つめている。

 見られたっ。心の中で呟いて、どうフォローをすればいいか、何とか思考をフル回転させる。しかし完全に宙に浮かんでいる優羽の様子に、全く言い訳の台詞も思いつかない。


「え、えっと。これは、これはですねっ」


 何とか言いつくろおうとして声を漏らす。けれどその誠の想いを無視するかのように、隣で優羽が手を振っていた。


「こんにちわー。お待ちしてましたよー」


 優羽は大きな声で告げて、それから深々と頭を下げる。

 もっとも完全に空中に浮かんでいたから、それでも誠の頭よりも高い位置にあったのだが。

 悲鳴を上げるか、それとも思考を停止させるのか。その時はどうすればいいんだ、俺は。誠は声にはならない叫びと共に、とにかく業者の人を見つめているしか出来なかった。


 けれど彼が取った行動は、誠の予想とは全く違っていた。


「あ、ちーす。三原さんですよね。ミケネコっす。今から荷物運び込みますから、このままドアあけといてくださいね」


 まるで何事も無かったかのように、業者の人は階段を降りていく。そしてアパートの前に止めたトラックから荷物を取り出し始めていた。


「あ、れ……!?」


 全く驚きすらしない彼を訝しげに見つめてみる。若い兄ちゃんは平然としたまま、もう一人の髭面のおじさんと荷物を運び初めている。


「彼がおかしいのか、それとも俺がおかしいのか」


 思わず口の中で呟いて、それからもうしばらく様子を伺っていた。普通に考えて明らかに不自然な優羽の姿を見れば、少なくとも何らかの反応は見せてもいいはずだった。しかし彼は全くといっていいほど、関心を寄せていない。

 ただ業者の人はこの兄ちゃんだけではない様ではあったから、もう一人おじさんがどういった反応をみせるのかに注意を向けてみる。


「こんにちわ。じゃあ荷物運ばせてもらいますね」


 おじさんは頭を下げて、軽く挨拶をすると部屋の中へと入り込んでいく。

 誠はまだ玄関口に立っていて、優羽はその脇でふよふよと漂っていた。どうやってもおじさんの目に入らない訳はない。

 しかしおじさんも何も反応も示さなかった。


「あ、この辺に置けばいいですかね」


 話したのはそれだけで、まるでおかしなものは何一つない様なそぶりしか見せない。

 誠にしてみれば宙に浮かんだ優羽はどう考えても異質な存在なのだが、もしかすると優羽を変に思う自分の方がおかしいのかとすらも考えてしまう。

 ただその疑問は、すぐに晴れる事になった。


「ご苦労様ですっ。がんばってくださいねっ」


 優羽はしっかりとおじさんに話しかけていたが、その声にはぴくりとも反応を示さない。それは若い兄ちゃんにしても同じで、何事もなかったかの様に荷物を積み込んでいくだけだ。


「あ、それ重そうですねー。何かいっぱいつまってそうです。あ、そっちの荷物はすかすかですね。さっきから、お兄さんの方、楽してますよっ。注意しないとっ」


 しきりに優羽は何かといろいろ話しかけているのだが、彼らは完全に無視を続けていた。まるで何も聞こえないかのように。

 そして誠が無視している訳ではないと気がつくまでには、それほど長い時間は必要としなかった。


 ただ単に彼らには優羽の姿は見えていないし、声も聞こえてはいないのだ。そう考えれば全て辻褄が合う。


 優羽は返答がない事もあまり気にしていないのか、ずっとにこやかに話しかけ続けている。しかし彼らはついに最後の荷物を運び終えるまで、一度も優羽を気にかける事は無かった。

 去り際に誠にサインを求め、そのままトラックに乗り込んで去っていく。大して荷物も無かったから、すぐに引っ越しは片づいていた。


「いっちゃいました。私、完全に無視されていましたね」


 優羽は軽い口調で呟いて、それから誠の方へと振り向く。なぜか照れたように優羽は笑うが、だけどその時見せた瞳に、誠は思わず言葉を失っていた。

 吸い込まれそうに感じた瞳の色は、どこかおぼろげに揺らいでいる。それは目の中に見える潤いのせいだと言う事は、誠にもすぐにわかった。

 だから何も言えなかった。


「あ、嫌ですね。貴方まで無視ですか。ちょっと。おーい。何とかいってくださいよー。おーい。なんだかなぁ。やっぱりさっき話したのは、気のせいだったのかな。何か言ってくれないと、悲しいですよー。聞こえてますか。おーい。えっと、えーっと。名前、なんでしたっけ。そういえば聞いてませんでしたね。あーあ。せめて名前くらいきいておくべきでしたか。しかしこうなると、私、またひとりぼっちでしょうか。せっかくやっと声が通じる人がいたと思ったんだけどなぁ」


 優羽は静かな声で告げて、それから溜息を一つ漏らす。

 その目から涙がこぼれたように思えたのは、誠の気のせいだったのだろうか。優羽は幽霊なのだから、実際に涙をこぼす事は出来ないだろうとは誠も思う。その証拠に落ちたはずの水滴は、しかし畳を濡らしたりはしていない。


 優羽は少しだけ床へと降りてきて、そのまま畳の上に座り込む。実際に床の感覚がある訳ではないらしく、わずかに浮かんではいたが、それでも優羽はぺたんと足をつけて、大きく溜息を漏らしていた。


 誠は彼女がどうして喋り続けるのか。見ず知らずの誠を巻き込もうとしていたのか。やっと少しだけ理解出来たような気がする。


 恐らくは今まで誰にも気づいてもらえる事もなく、ずっとこの場所にいたに違いない。たった一人、記憶も失ったままで。

 それがどんなに辛い事なのか、誠には想像する事すら出来なかったけれど、けして楽しい時間ではなかった事だけははっきりとわかる。


三原誠みはらまことだよ」


 誠は静かな声で告げて、すぐに優羽から視線をそらす。少しだけ照れくさくて、素直に顔を見つめていられなかった。

 優羽は少しきょとんとしたまま首を傾げて、それからまた人差し指だけ一つ立てる。軽くその指先を振るって、それから誠へとまっすぐに向ける。


「三原誠さんっ!」


 思い切り名前を呼びつけて指さす姿は、まるでどこかの名探偵が犯人はお前だと指名しているかのようだった。


「なんだよっ!?」


 思わず声を大きくして訪ね返す。

 だけどのぞき込んだ優羽のその顔は、今にも崩れそうなほどにぐしゃぐしゃで。誠は息を飲み込んで、声を失う。

 優羽は無理矢理に笑顔を浮かべて、それから深々と頭を下げる。


「よろしくおねがいしますっ」


 お辞儀をしたまま顔を上げようとしない優羽に、誠は少し胸の奥に痛みを感じていた。

 だからただ一言だけ声を返した。


「よろしく」


 にこやかに笑いかけたつもりで、そう出来ていたのか、誠にはわからなかった。

 ただ優羽との奇妙な同居生活は、こうして始まったのだった。

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