第2-1話 誰にも知られない存在(1)

「よく考えてみたら、私、ぜんぜん何も覚えていないんですよね。そもそも私、どうしてここにいるのでしょうか。ここはどこでしょう。てっきり自分の部屋だと思いこんでいたんですが、よく見れば違いそうですし。はぁ、これは困りました」


 大きく溜息を漏らして、それから宙に浮かんだままで、誠の顔の目の前に腰掛ける。

 ちょうど眼前にワンピースの裾から少女の素足をのぞかせていた。

 誠は少しだけ息を整えて倒れ込んだままの体勢を立て直す。どこか抜けた少女の台詞に、彼女が幽霊であろうと何であろうと、もはや恐れも驚きも消えて無くなっていた。


「いやお前が何でここにいるのか何て知らないけど、幽霊なんだったら、なんか未練とかあったんじゃないの」


「わ。失礼ですね。だから幽霊じゃないっていってるじゃないですか。幽霊だったら、どうして私はこんなとこにいるんですか」


 少女は不機嫌そうにもういちど眉を寄せると、またもや人差し指をぴんと立てて、左右へと振るい、それから指先を少しだけ誠へと傾ける。


 その様子からは、ごく普通の女の子のようにしか思えなかった。おかしいところといえば、少し宙に浮かんでいるところと、触れると突き抜けるところくらいだ。


 もちろんその時点で全く普通ではないし、幽霊でないとしても、彼女が少なくとも何か超常的な存在だという事は疑うところではない。もっとも誠には少女は幽霊以外の何者にも思えなかったのだが。


 ただそれでもすでに彼女に対しての警戒心は溶けきっていたし、言葉が通じるだけに、彼女が生きている普通の人間のようにも感じられていた。あるいはあまりにもおかしな態度に誠の意識もどこか狂っていたのかもしれなかったが、それは誠自身にもわからない。


「そりゃお前、幽霊なんだから何かこの世に未練があるとか、誰かに恨みがあってとりつこうと思っているとか、そんなとこだろ」


 ごく普通に答えると、まだ荷物のない畳の上に座り直す。

 まだ少しだけ乱れた呼吸を整えてはいたものの、恐ろしさはもはや感じられない。


「なるほど。そうすると、私、さては貴方に対して恨みつらみがたまっていたんですねっ。だから貴方の前に現れて、呪いをかけようとしたんですか。謎は全てとけましたっ。完璧ですねっ、完璧っ」


 人差し指をびしっと音が立ちそうなほど鋭く、誠へと向けていた。


「まてまてまてっ。俺はお前なんかぜんぜん知らないぞ。そりゃあもう、完璧完全に知らないっつうの。恨まれたりする覚えはねぇっ」


 慌てて言い放つと、彼女から少し距離をとる。誠には本当に少女の事は見覚えがなかったのだから、よもや彼女の恨みをかっているはずはない。


 もちろん人は忘れる生き物だ。一度会った事がある程度の相手であれば忘れてしまう事だってありえない訳ではない。しかし誠が忘れてしまっただけという線も薄いだろう。ここまでの儚げで触れれば壊れてしまいそうなほどに可憐な少女はそうそういるものではない。一度でも会っていれば、深く印象に残っていたはずだ。


 もっともそんな印象も口を開かなければ、ではあったが。


 とはいえそれはそれで、あまりのギャップに逆に強く記憶に残っていたはずだ。

 そもそも少女にしても、最初ににそんなそぶりは全くみせなかったのだから、あり得ない話だろう。もっとも痴漢扱いされてはいたから、それを恨みと認識していたかもしれなかったが。


 しかしこのままでは無実の罪で、少女にとりつかれてしまう。とりつかれた人間がどうなるかなんて誠にはわからなかったけれど、どう考えても決して楽しい事にはならない事だけは間違いないだろう。


「むぅ。じゃあ、私はなんでここにいるんですかー。もうちょっと、何か考えてくださいよ。だいたいホントに私の事しらないんですか。呪われるのが嫌で、嘘ついているんじゃあ」


 少女は頬を大きく膨らませて、それからぷいと顔を背ける。

 彼女が幽霊でさえなければそんな態度も可愛く思えたのかもしれなかったが、今の少女ではとてもそこまでは思えない。


「そんなことしねぇつうの。何か覚えてる事はないのかよ。例えば自分の名前くらいさ」


 誠の言葉に、少女は考えこむように首を傾げる。立てた人差し指を額にあてて、何かうなり声のようなものを上げていた。


「むぅぅぅぅ。名前ですか、名前。そういえば、私の名前は何て言うんだろう」


 眉を寄せたまま、少女は首を右に傾けたり、左に傾けたりしながら悩みこんでいた。

 どうやら少女は完全に記憶を失ってしまっているようで、自分の名前すらも思い出せないようだ。

 ただ必死に何かの手かがりをつかもうと、伸ばした指先をくるくると回しながら、こめかみに向けている。


「名前名前。ええっと。あ、そういえば最初にゆがついたような」


 何か思い出したのか、指先を大きくくるりんと回して、はっきりと頷く。


「うん。そうだ。ゆ、なんとかだった。なら、うんと。ゆき。いや、ちがう。ゆあ。む、そんなのでもなかったな。ゆめ、ゆな、ゆい、ゆり、ゆみ、ゆま。違う違う。どれでもない」


 しかしそこから再び悩み始めたかのか、部屋の中を左右に歩いて行き来し始める。浮かんだままなので、物音は立てなかったものの、それがごく自然であるかのように少女は歩き続ける。

 そんな彼女に誠はまるで動物園の熊のようだと思ったものの、とりあえず余計な水を差すのはやめておいた。


「ゆ……そうだ。ゆう。ゆうだ」


 少女は再び指先をくるりと回し、それから誠へと突きつける。


「私の名前はゆうですっ。わかりましたか。どぅゆあんだすたん?」


 何故か最後は発音の悪い英語になっていたものの、とりあえず名前程度の事は思い出したらしい。やや得意げに指を立てて、ゆっくりと誠へと向けていた。


「ゆうね。ま、名前は、わかったけどよ。でもそれだけじゃ結局、お前が何でここにいるのかはわからないな」


「うーん。そうですよね。まぁ、でも、ここは一つ前進という事ですよっ。前向きにいきましょう」


 少女は満面の笑みを浮かべながら、今度は指先を左右に揺らしていた。

 確かに彼女の言う通り、何一つ覚えていない事に比べればまだマシなのかもしれなかったけれど、誠にはあまり前進した感覚はない。何せほぼ何もわからないに等しいのだから、それも当然のことだ。


「前進っつてもな。で、ゆうって名前は漢字でどう書くんだ」


「え。漢字ですか。うーん、それはまた難しい事をききますね。これは私も困ってしまいます。もうまさに絶対難関です」


 少女は大げさに驚きながら、眉を思い切り寄せて皺を作る。


「絶対難関ってそんないうほどのものか。普通それくらいわかるだろ」


 溜息混じりに答える誠に、少女は今度は眉をつり上げて指を大きく振るう。

 それからびしっと音をたてそうなほどに鋭く誠へとつけつけて、再び声を張り上げていた。


「そうだっていったらそうなんですっ。もうほんとあなた優しくないですね。よくありませんよ。そういうの。人は優しくあるべきですからっ。じゃあ、もう、そういう事で、優しい羽と書いて優羽でいいです」


 優しい羽で優羽だと名乗った少女は、ぷいっと顔を背けてそのまま背を向けてしまう。

 確かに雰囲気だけでいえばその背中に羽根が生えていても不思議ではなさそうだけど、と心の中でつぶやきつつも、そんな事はおくびにもださない。


「優羽でいいって。そんなのでいいのかよ」


 明らかに適当に決めた漢字に、思わず溜息を漏らす。こうして話していると、彼女が幽霊である事なんて忘れ去ってしまいそうではあった。


「いいったらいいんです。もう決めましたから、そうなりました。そんなことよりも、どうしたら私の他の事がわかるかです。そっちを先に考えてくださいっ」


「ん……まぁ、そりゃそっちを先に考えるべきかもしれないけどさ。って、ちょっとまて。どうして俺が、見ず知らずの幽霊の記憶を取り戻させなきゃいけないんだよ」


 あまりにも当然のように言い放たれた為に、一瞬納得しかけたものの、誠はすぐに抗議を声を上げる。


 彼女のペースに流されそうにはなっていたものの、特に誠は彼女と関わりがある訳ではない。ただたまたま借りた部屋に幽霊がいただけの話だ。


 冷静に考えると、だけではないような気もしたが、そこはこの際おいておく事にした。


 とにかく優羽はたまたま誠の家にいたものの、本来何も関わりがある訳ではない。しかもあまりに自然に会話が成立していたために、忘れがちになってはいたが、彼女は幽霊なのだ。下手に関わっていれば、とり憑かれり呪われたりしてしまうかもしれない。


 いくら見目麗しい少女だとしても、極力関わり合いになりたくない存在だった。


「え、だって。袖すり合うも他生の縁というじゃないですか。こうして知り合えたのも何かの縁って奴ですよ。それにもう遅いみたいなんですよね」


 優羽は今までよりも落ち着いた静かな声で呟いて、それから満面の笑みを誠へと向ける。


「私、どうも貴方にとりついちゃったみたいんですよね。さっきからここから離れようと思ってみたんですけど、ぜんぜん遠くにいけないし。貴方のそばから離れられないんですよね。つまりまぁこれはもう一心同体って奴ですよ。と、そんな訳で、ここは一つよろしくお願いしますっ」


 そしてさらりとろくでもない事を告げていた。


「ちょ、ちょっとまてっ。そんなさらっとお願いしますと言われても、聞ける訳ないだろがっ。何で俺が幽霊なんかにとりつかれなきゃいけないんだよ」


「そんな事言われても、とりついちゃったものは仕方ないじゃないですか。私だって好きで貴方についてる訳じゃあないですし。あ、そもそも私、幽霊じゃないっていってるじゃないですかっ。何度いえばわかるんですっ」


「いやっ、だからどっからどうみても幽霊だろ、お前。つか、そもそもとりついてるとかいってるだろうがっ」


「そんな事はささいな事なんですっ。だいたい仮に私が幽霊としてですよ。そしたら私は何かこの世に未練があってここに残っている訳ですから、未練を取り除かない限り、この後もずーっと貴方についてる事になる訳ですよっ。それでいいんですかっ、嫌でしょうっ」


 なぜか偉そうに胸をはって告げる。

 確かに幽霊に取り憑かれたと言われてうれしい人は普通はいない。しかし彼女が幽霊でなかったとしても、この場合には何の解決にもなっていないのは明らかだ。


「いや、まぁ、そういわれりゃそうだけど、けど」


「そうでしょうっ。だったら、私の協力してくださいよっ。私だって記憶が取り戻せればそっちにいくでしょうし、こうなったのも一つの縁ですよっ。そもそも私だって、貴方にとりつきたくてとりついてる訳じゃないんですからねっ」


 誠の言葉の途中を割り込んで、好きなだけ言いつけると優羽は満足したのか、ふふんと鼻で笑っていた。

 そこはかとなく心の中にいらつきを覚えはしたものの、だからといってどうする事が出来る訳でもない。優羽の言う事はあながち間違ってはいないし、彼女の記憶が取り戻せれば、成仏していなくなってくれるかもしれなかった。

 とにかく誠には他にできる事なんて他にない。だとすればむしろそれが唯一の解決の方法なのかもしれない。

 深く溜息をもらして、こめかみを押さえる。


「ああ、もう。わかったよ。手伝ってやればいいんだろ。手伝えば」


 投げやりな口調で答える誠に、優羽は急にきょとんとした表情で首を傾げていた。


「え、ほんとですか」


 優羽は自分で手伝えと言っておきながらも、誠が承諾したことにむしろ驚きを隠せない様子で、その大きな目をさらに見開いていた。


「とはいっても、ホントに俺はお前の事なんて知らないから、役に立てるかどうかなんてわからないぞ」


「あ、はい。あの。ホントにいいんですか」


 指先を立てて、胸の前で頼りなげに揺らす。

 急に声のトーンも小さくなっていく。最初の印象通りの、すぐにでも消えてしまいそうなほどに儚げで、むしろこのまま消えていなくしまうのじゃないかと思えるほどに。

 本当に消えてしまうのであれば、それは優羽にとってはもしかすると正しい事だったのかもしれない。

 でも彼女をこんな風に消してしまうのは、自分の本意ではないと、誠はなぜかその時強く思った。

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