第12話 泥丸
梅雨の合間の、じめじめした夜でした。
泥足でゆっくり歩くような足音をたてて入ってきましたのが、旅回りの役者で、のろ丸、と名乗りました。
のろ丸は、泥臭い息を吐きながら、次のような話を語りました。
私どもの一座が初めてお目見えいたしました村で、千秋楽を迎えた翌日に、田植え前に豊作を祈る、泥祭が行われました。村の皆さんと親しくなった私どもも誘われて、これに加わりました。
祭と言いましても、一同で鎮守様に今年の豊作を願って、田植え前の、水を張った田んぼに皆で入って泥をなすりつけ合うという、いたって子どもじみたお祭りでございました。
互いに笑い合って誰彼なく泥を投げつけなすりつけて大声で笑いあう。子どもでも年寄りでも男でも女でも、体中泥だらけになった者が多ければ多いほど、その年の実りは多く、また、泥にまみれた者は皆、一年を息災に過ごせる、と聞かされましたので、私ども一座の者もこぞって田んぼに足を踏み入れました。
でも、まあ、白粉に馴染んで田んぼの泥に縁の薄い私どもが、うっかり足を入れれば、もう泥に足を取られて腰からすっぽりはまり込み、そうなりますと、あとはもうおそれも遠慮もなく、泥と戯れるばかりで、半日、これほど笑ったことはないというぐらいに、楽しく過ごしました……
ところが、祭を終えて川の水ですっかり洗い流しても、どうしたわけか私の体から泥臭さが抜けず、その村を後にして次の宿にたどり着いた夜、ふと気がつきますと、乾いたどろが私の首筋からぽろりと剥げ落ちました。
私がそれを不審に見ておりましたら、
「泥祭にいかしゃったたのか」
と宿の女が問いましたので、そうだと答えると、
「あの祭には、泥田神が隠れてござって、ときどきよそ者に取り憑くそうな……」
と言いました。
私の、のろ丸、という名前は、のろま、からきておりまして、役の上ばかりでなく、のろまな野郎ということでついているほどですから、泥田神も取り憑きやすかったのかもしれません。
それでも、乾いた泥が剥がれ落ちるぐらいなら私もさほど気にはいたしませんでしたけれど、これが日増しにひどくなって、今では御覧のとおり……
と申しましても、お目にいれることができませんが、私の体は泥を吹き出して、四六時中、泥にまみれております。はじめのうちは、泥丸泥丸、と役者仲間も揶揄しておりましたけれど、そのうちに気味悪がられて疎まれるようになりましたら、もう芝居どころではありません。
しかたなく、一人で家に帰りましたが、こんな体ですから、うちの中に入るに入れず物陰に隠れてぐずぐずしながら、うちの中をひょいとのぞいてみましたら、女房が男を引き入れておりました。
いかにのろまの私もこれには頭に血が上りまして、体から吹き出す泥を拭いもせずに中に入って抱き合う二人の上に覆い被さってやりましたら、なにしろ生きた泥人形が襲いかかってきたようなものですから、二人の驚きようといったらもう尋常ではありません。
私は女房を殴りつけて、間男の鼻と口にさんざんさんざん泥を押し込みました。
それから、人伝に聞いておりましたこちらの話を思い出しまして、こうして伺ったような次第でございます。
いえ、伺ってどうしようというあてもありませんが、よろしければ、しばらくこの近くに置いてやってくださいまし。
そう言って、泥丸、いえ、のろ丸は日のあるうちは寺の裏にうずくまって時を過ごし、夜になって私に話をしにきておりました。けれども、夏も暑い盛りを過ぎて私の前に現れなくなり、少し気になっておりましたら、法師蝉の鳴く夕べ、きぬが私の手を引いて寺の裏にあった乾いた土の塊に触れさせてくれました。
さて、今宵は何を弾じましょうか……
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