第5話 左手の女
凍てた夜に訪れた男は、村雨半次郎と名乗りました。
左の手首から先が見えなくなっている、とい声はひどく老ていて、左手は失ったのではなく、見えなくなっているだけだ、と繰り返し言いました。
「貴僧なら、この左手がわかるのではないか」
と、私にそれを触らせましたけれど、私には、それが確かにあるのかないのか、判然としませんでした。
ただ、左腕の肩から二の腕にかけて、ずいぶん長い間、村雨半次郎が力を入れてきたことはわかりました。
樹齢数百年という松の木の根のように太く堅く、それは私の手に重ねられた老武士の枯れた右手とはまったく違っておりましたから……
その村雨半次郎が、次のような話を語りました。
みどものこの左手は、好いた女の手を、今も握っております。これを放せば、女の、この世とあの世の縁が、きっと切れてしまいます。
……ああ、御無礼を仕りました。
順に申し上げます。
それがし、軽輩の身ながら、若いときに、身分違いの女と惚れ合うてしまい、人目を忍んで逢瀬を重ねておりました。
あるとき、昼でも暗い、人の近寄らぬ叢祠の裏で手を取り合うておりましたら、その叢祠の床下から、黒い霧のような何かが滲み出ていることに気がつきました。そも霧が、女の足下に近づいておりましたので、とっさに女の手を引きましたが、それより早く、それは女の足に触れました。女が、あっと己の足下を見たときには、すでにその踵が霧に囚われて見えなくなっていました。
女は足を振って霧を払おうとしましたけれど、それは踵から脛へと上がって膝にも及ぼうとしました。
そのとき、人の近づかぬこの叢祠には立ち入ってはならぬ日がある、という禁忌を耳にしたことを思い出して、みどもは女の手を取って叢祠から離れました。
しかし、女の足はもとより、腰まですでに黒く覆われて、みどもは女の手を握って走りました。ときおり、女の顔を振り返りながら走り、叢祠も見えなくなってもう大丈夫だろうと思って立ち止まったら、女は泣いていました。みどもは強く手を握って、
「案ずるな」
と言ってはじめて、女の首から下が見えなくなっていることに気がつきました。
ただ、握っていた女の白い手はまだ確かに見えましたけれど、みどもが狼狽えたわずかな隙に、その首は黒い霧に呑み込まれてしまい、みどもがつないだ女の手も見えなくなりはじめました。あっと思ってその手をさらに強く握って引きましたのは、みどもの左手もその霧の中に引き込まれそうに感じたからでした。それでも、存外に向こうの引き込もうとする力は強く、このままでは己も引き込まれるのではないかと恐怖が背筋を走ったとたんに、女の指が力を失ったようにみどもの手から離れました。
「放してはならぬ」
とっさに強く思い直して、みどもは改めて力を込めてその手を握ってまた走りました。走って走って、見慣れた夕暮れの里に辿り着いたときには、みどもの左手もこのように、手首から先が、すっかり見えなくなっておりました。
黒い霧は、もうどこにもありません。叢祠からすっかり離れてその力も及ばなくなったようでしたが、女も己の左手も、この世に戻ってくることはありませんでした。
親しい朋輩に、左手はどうしたのか問われても、正直に答えることはできませんでした。たとい答えたとしても、とうてい信じてもらえるはずはありません。わかってはいても、皆に言われるままに医者にも見せて、結句、奇病を患って左手を失った、ということで落ちつきました。行方の知れぬ女の親兄弟は歎き悲しみましたが、みどもはこれにも正直に話すことはできませんでした。
それから、女を引き戻すべく、こうして方々を経巡っておりますが……
そこで言葉を止めて、老武士は深く長く息を吐くと、
「正直、この手を離せたらどれほどよいか、そう思わぬこともありませんでした」
と、白状しました。
しかし、ただ聞くだけの私には何もできません。
「耳なし様でもどうにもならぬようじゃ」
左手に語りかけた刹那、村雨半次郎は驚いた声を上げて、見えない己の左手を右手で何度も掴もうとしましたけれど、それが甲斐のないことと覚ると、女の名を呼んでは、すまぬすまぬと繰り返したあげく、大声を上げて夜もすがら泣き伏しておりました。
さて、今宵は何を弾じましょうか……
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます