第6話 二口男
葷酒山門に入るを許さず、とは申すまでもありませんが、百薬の長と称されるのを幸いに、般若湯なる薬湯としてこれを口にいたしますのは方便、と御仏もお許したもう、などと申しましても、憚ることなく方便もなく徳利を持ち込んで酒を呑み、するめなんぞを当てに食するは、甚だ不埒と言う他はございません。
名も名乗らずにかような無礼を働きましたこの男が、どこか常人とは異なるくぐもった声音で、次のようなことを語りました。
己の身体は己の思うがままよと世人は思うておるが、決してそうではない。
たとえば、己の顔さえ、水鏡に映さねば見えぬ。咳、くさめ、あくび、おくび、放屁ばかりか、出物腫れ物ところ嫌わず。頭痛、腹痛、腰痛、痛みも思わぬときに襲いくる。かように考えれば、己の身体こそ不如意の最たるものと知らねばならぬ。
なれど、我一人、かの道理を説いて回るも、聞く耳を持たぬどころか、嘲笑する族ばかりが世に蔓延っておる。
目の見えぬお主なら、その目の不如意を歎き悲しむ空しさを知って、我が理を解するかと思うて罷り越したが、いかに……
……御無礼を仕りました。ただ今、申しましたは、私の、盆の窪に開いております、二つ目の口にございます。
世に、二口女なる妖異が、二つの口を用いて人の倍も食する怪異は語られ絵にも描かれておりますが、私の二つ目の口は、このように勝手なことを吐き散らします。
かくの如く、私には生まれながらに二つの口が備わっておりましたが、赤子の私の首の後ろにありましたこの口は、その皮が二重になっているだけだろう、と思われていたようで、それがものを言うことはありませんでした。
ところが、奉公先で理不尽な扱いを受けてある日、その家の主人に二つ目の口が悪態をつき始めました。そのときは、何が起こっているのか、私にもよくわかりませんでした。
私に小言を食わせていた主人も、その声が何処から聞こえてくるのか、はじめはわからぬ様子で、それでもその声が私の首の後ろ、盆の窪から発せられていることに気づいたときには、それこそ肝を潰したような悲鳴を上げました。
言われるままに、おとなしく、ただ働くのが、唯一、私の取り柄だと思い込んでおりましたから、侮られることも少なくはありませんでしたけれど、まさかに己にこのような二つ目の口が備わっていようとは夢にも知らず、ましてやそれが己の知らざる思いを口にするなどと、己自身が信じられませんでした。
仰天した主人を、二つ目の口は呵々と笑い飛ばしたあとはすっかり閉じてしまいましたけれど、私は即刻暇を出されました。
それからいくつか働き口を転々といたしまして、どこでもようやっと落ちついたと思いましたら、思わぬときに二つ目の口が汚い言葉を吐き出します。そのたびに気味悪がられて、私は追い出されました。
悪事に手を染めたこともありました。しかし、そこでまた仲間になった者も私の二つ目の口の悪態を耳にすると、たちまち私を捨てていきました……
……おのが身の生まれ備わった不如意が異端とされて嫌われるなら、一人で生きるより他はあるまい。そんな覚悟すらない、世の奴ばらに我が高邁なる思いなどわかろうはずはない……
……そんなことでも、耳なし様にはわかってもらえるのではないかと思い、本日は参上いたしました……
……誰にもわかろうはずのないことを、確かめにきただけ……
……そう申す二つ目の口も己と思い定めて、今は生きるばかりにございます。
二つの声は、声色を使って別人を演じ分ける芸のようにも聞こえて、目の見えぬ私には、むしろ滑稽ですらありました。
ただ、立ち去るときに、空になった徳利をそのまま置いて帰ったようで、その中の酒とするめを呑み喰いしたのは、果たしてどちらの口だったのだろうかと、ふと脳裏をよぎった疑念は、未だに解けておりません。
さて、今宵は何を弾じましょうか。
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