第4話 魚鱗龍伯

 山門を閉めるころから降りはじめた霧雨の止まぬその夜も、眠れぬままに琵琶を抱いて私は本堂に坐しておりました。

 抱いた琵琶をかき鳴らすこともせず、ぼんやりと住持を偲んでおりました私の耳に、雨音をついた、かすかな足音が届いて間もなく、本堂の前の階の辺りから、

「住持はおられるか」

 と尋ねる者がありました。

「今は浄土におわします」

 と告げて、どなたかと問いましたら、それは、昔、住持に世話になった者だと答えてしばらく、私の様子を窺っていたのでしょう。

「もしや、御坊が、亡霊に耳を奪われたという……」

 私が顔を背けると、それはそこで言葉を切って、

「言わずもがなのこと。お許しくだされ」

 そう言って、己は魚鱗龍伯と名乗ったけれど、すぐに、

「昔の名前はとっくに忘れて……」

 吐き捨てるように言うと、声音を改め、

「今宵は、世話になった住持に話をしたく参上したが、浄土におわすならしかたない」

 そう言って聞こえた魚鱗龍伯の踵を返す足音に、

「せめて本尊に手を合わせてゆかれよ」

 私が思わず声を投げましたら、

「ならば、御坊に聞いてもらおうか……」

 ひとりごちた魚鱗龍伯は、本堂に上がることもせず、それへ立ったまま、私に次のように語りました。


 わしの身体には、頭の上から足の先まで、びっしりと鱗が生えておる。この姿が御坊に見えていたなら、きっと不快厭悪の情を抱かずにはいられまい。

 どういうわけか生まれ落ちたときからこんな身体で、父親は、一度、わしを遠くの川に捨てた、と母から聞かされて、わしに父のいないわけを知った。

 母が私を連れて尼寺に入ってからは、不憫な子と言われながら親切に育てられたが、長ずるにつれて、尼僧たちにも嫌悪が表れるように見えた。母も寺への遠慮があったのであろう。よそよそしく感じられたのは、今思えば、それはわしの僻目だったやもしれぬ。なれど、子どもとは言え、いつまでも男子禁制の尼寺に居続けられるはずもなく、やがて別寺での修行を告げられた夜に、わしは出奔した。

 といって行く当てもなく、最初に拾ってくれたのが、見せ物の親方だった。見世物小屋は、まがい物の化け物がほとんどだったが、中にわしのような異形の者もあって、それなりに居心地は悪くなかった。が、些細なことから親方と諍いになって一座を飛び出し、次に出会ったのが、この寺の住持であった。

 わずかに三年、この寺で喰わせてもらって、やっぱり飛び出して声をかけられたのが、さる一党の頭領で、水の中で自在に動くわしの力を引き出してくれたのはよかったけれど、これが天下を覆す企みを始めて、わしも密かに人を殺めることを命じられるようになった。

 この手でどれほど水の中に引き込んで沈めてきたか……

 さすがに嫌気がさして、今宵、一党を抜けてここへまいったのは、匿うてもらうためではない。今になって、住持の教えが骨身にしみていることを覚り、最期の別れを告げにまいった次第である。

 住持の愛弟子である御坊とこうして話すのも仏縁と心得て、願わくば、その琵琶の音を今生の土産にと思いはしたが、どうやらそうもしておれぬようじゃ……


 そこまで言った魚鱗龍伯が、霧雨の中を不意に駆け出したのは、寺の外に何かの気配を感知したからでありましょう。

 私は、撥を一つ琵琶にくれて、住持の好んだ一段を、久方ぶりに琵琶音高く語りました。

 それから、魚鱗龍伯がどうなったかは、存じません。


 さて、今宵は何を弾じましょうか。


 

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