第2話 妖仏
最初に妖異が訪れて怪異を語りましたのは、納所の侮蔑に鬱々として、ひと月、私が琵琶に触れずにおりましたときでございます。
深更にいたっても寝つけずにおりましたら、夢うつつに私を呼ぶ声が聞こえたように感じまして、半身を起こしますと、本堂の方から読経の声がいたします。
こんな夜更けに誰かと不審に思って耳を澄ませましたら、亡くなった住持の、高く澄んだお声でございました。
「御住持」
気持ちについてこない足をもどかしく思いながら、私が本堂に参りましたら、読経が止みました。
そのとき、獣の臭いがかすかに鼻をつきましたから、これは狐狸の類いであろうとようやく気がつきました。ただ、私が気づかぬ態で端坐いたしましたら、それは住持の声で次のように語りました。
われは、当寺創建より安置されし如来なり。
住持が代わって近ごろは、いたずらに経を読みながら現世の利益ばかりを祈願する族だけが訪れる。
衆生が我ら仏に手を合わせ念じるは来世の安寧を約束されたいがためではあるが、それを方便として、生きとし生けるすべてに御仏の御心を宿すことを、我らは願いとしておる。
しかるに、来世ばかりか現世の利益に執着する衆生は度し難く、こうした者どもの目を覚ますことができるのは、この辺りにおいては、唯一、おまえの奏でる琵琶よりほかはない。
この世の無常を弾き語り、人の世の哀れを弾じ詠うおまえは、実は御仏が遣わした菩薩である。
それが証しに、おまえが琵琶を弾じぬようになって、ここを訪れぬようになった者がどれほどあろうか。
これへまた衆生を集め済度できるは、おまえの琵琶ばかりである。
もし、おまえに衆生済度を念じる心が失せておらぬなら、再び琵琶を手に詠え。
前の住持も浄土にありて、おまえの琵琶を聞けずに歎いておる。
我ら、如来、菩薩、羅漢にいたるまで、皆々おまえの琵琶を惜しんでおる。
さらには、その琵琶が、いずれおまえを極楽に招き、楽典を司る天人となす道となろう。
私は、琵琶を手にすべきや否や迷いながら、そのまま動かずにおりました。
その顔に浮かんだ迷いを、かの者は不審と受け取ったのでしょう。
しばらくいたしまして、
「ちっ……」
住持の声で語っておりました如来は、汚い舌打ちを一ついたしますと、
「わしもまだ修行が足りぬかぁ」
今度は、ひび割れた鈴をせわしく振りつづけるような声で言いました。とたんに、獣の臭いが辺りに強く漂いはじめました。が、声音を模した偽りの如来はすぐに立ち去ったのでしょう。しばらくすると、獣の臭いはすっかり消えてなくなりました。
それでも、その夜、私は久しぶりに琵琶を手にいたしまして、夜の明けるまで爪弾いておりました。
もちろん、天人になるつもりなど毛頭なく、衆生済度などという大願も、私にはありません。
ただ、わざわざ私を訪れて琵琶を所望した狐狸に、わずかばかり応えようかと思いましただけにございます。
さて、何を弾じましょうか。
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