[高校時代――東日本大震災]

 私が高校生だったのは二〇一〇年から。例の大震災は高校一年生の五限目の数学の時間にやって来た。

「皆! 机に伏せるんだ!」

 普段のほほんとしたクラス会長が上ずりながらけれど男気を絞り出したのは凄い事だと思う。だってあの時の揺れは関東圏でもかなりの物で真面目に校舎がぐにゃりと揺れたように感じたのだ。私もそうだけど、誰一人ふざけた態度を取る人はいなかった。「これはヘタをしたら死ぬ」、その本能に導かれて誰一人欠けることなくその身を机の下へと滑り込ませた。

 体感十分くらいだろうか。関東圏での――私が住んでいた場所に限ってはだけど――揺れは比較的速やかに収まったと思う。それでも校舎に床に、何かがぐにゃりと決定的に変化してしまった事態であることは明白で、もはや授業どころじゃない。揺れが収まるなり先生は職員室へ。残された私達は興奮冷めやらぬとそれぞれのガラケーで情報を集め始めた。

 友達の一人がワンセグ対応のガラケーを持っていたので、私はその子の画面を見せてもらった。一番最初に印象的だったのがのぞき見防止用を兼ねた画面保護フィルムの柄が当時流行っていたアニメ「けいおん!」の秋山澪で、東日本大震災を思い出すたびに秋山澪が思い浮かぶのはもうバグか何かだと思う。

 そして二番目に、衝撃が襲う。

「……大船渡……おばあちゃんちだ……」

 岩手県の南の端。ほとんど宮城県の境界立地。その箇所がニュース速報で真っ赤に塗りつぶされている。

「……」

 なにも言えなかった。手元に確かな情報は無い。電話をかけようにも電波が一時的に止まっていたか、皆が一斉に掛けたせいで回線がパンクしたのか、私が勇気の無い、薄情な人間なのか、その時もまた流されるままボーっとしていたと思う。

 結論から言えば、おばあちゃん家は無事だった。立地が山間部にあることが幸いしたのだと思う。母方の一族郎党、誰一人欠けることなく生き残った事を、家に帰ったあと母から聞いた時は心の底から良かったと思えた瞬間だった。

 聞くところによるとおばあちゃんは周囲の困った人も家に集めては共同生活というか避難生活を始めたそうな。田舎の家の旅館みたいな大きな造りはこういう非常事態のための機能も兼ねているのだなと、おばあちゃんの気前の良さというか豪胆な所をみて私は誇らしく感じた。

 けれど、地に足が着かない感覚は抜けない。私はあくまで関東圏に住んでいる人間で、親族に被災者がいるだけのアウトサイダーだ。現地を見ていない、又聞きの情報で、心の底から安心することなんて出来ない。

 というか、安心とは一体何なのだろうか。その日からニュースは連日津波の映像で埋め尽くされた。花火大会やデパート、漁港があったキラキラした思い出のある大船渡の漁港の街。普段使いしていた気仙沼のスーパーに白い砂浜、海と貝のミュージアム。おばあちゃん家よりも下方にあった場所と言う場所がグチャグチャにかき混ぜられたかのように泥まみれで、津波の引き潮のせいか根こそぎ引き抜かれて残されたのは建物の骨組みだけ。

「何やっているんです。あまり不注意だとご先祖様に連れて行かれますよ」

 その当時はおじいちゃんの言葉の意味が彼岸流だと言うことを知った。あの日の言葉は全然彼岸流と関係ないものだし、津波だって彼岸流とは全く関係ない現象だ。

 けれど……画面の中で広がる映像は私という一人の人間の理解を超えていて……勝手に海にまつわる不吉な言葉が結びついてしまった。

 仮にご先祖様がやって来たのだとしたらなんて迷惑な事をしてくれたのだろう。おばあちゃん家の、東北に関する思い出、とりわけ海に関するものは全て、何もかも消え去ってしまった。

 ところが、東北の人たちは強かだった。高校二年の夏休み、流石に復興で色々と忙しいだろうからその年はおばあちゃん家に行くことを控えようかと個人的には思っていたのだけど、おばあちゃんは全然ウェルカムだった。

 一関駅からおばあちゃん家までの道のりは比較的内陸側なので車を使えば何とか行くことができるのである。その時は確か父親の車で実家から下道と高速道路を利用して行ったと記憶している。

 距離が距離なので――たしか高速道路を利用しても五時間以上は乗りっぱなしだったと思う――乗っているだけで大分体力を消耗した。それに加えて実際にボロボロになった街を見るのは予想以上に気が落ち込んで、テレビで目にした気仙沼のマンションの骨組みの現物を見た時にはどうにかなりそうだった。当然、その周囲にあったはずの海と貝のミュージアムは跡形もない。金額的にも希少価値的にも、あれだけの財産が海に還って、多分再建する事は無いのではないだろうか。走っていた時間が夜中だということもあり私の気分は家族の中で一人だけ沈んでいた。

 車をおばあちゃん家の敷地に止めると、おばあちゃんは私達を普段と変わらない様子で迎えてくれた。山間の中にあるおばあちゃん家は傷一つ無い、まったくの無事で、そこだけ見ると本当にあの津波があったのか、ここだけ時間から取り残されたようで私は頭が混乱した。その日は五・六時間運転した事もあって全員ヘトヘトに疲れていたので普段通りに夕飯を摂って寝たと思う。ビビりな私はおばあちゃんから直接震災の話を聞くのが怖くて真っ先に寝たと思う。

 しかしながら、どれだけ逃げようと思っても現実はそう簡単に見逃してくれない。

「……うわぁ――」

 寝て起きて、私は寝室の窓から見える朝の海を眺めることが好きだった。座標は多分違うのだけど、そこからは岩浜の、私のお気に入りの海を含んだ果てしない青い水平線が広がっていて、あの海があると思うだけで何時間でも眺めていられた、お気に入りの景色だった。

 眺める、見下ろせる――おばあちゃん家と海の位置関係は見下ろす位置で、それは震災が発生した箇所である事を意味している。青い海は私の眼の前で灰色に塗りつぶされていた。

 実際岩浜の海は新たな津波に備えるための護岸工事のためにコンクリートで埋められて立ち入りが出来ない状態になっていた。ぽかんと取り残されるように空いていた私のプライベートビーチ。別に海は誰かの物じゃないし、その場所が次の誰かを守るために役立つのなら私のちっぽけな思い出くらいいくらでも使ってくれと今でも思っている。

 だからと言って……ショックを受けないわけでは無くて――海全体で言えば全然青くて水平線自体は津波が本当にあったのかと思うくらい相変わらず存在していた。手前の沿岸の、灰色の部分がちょっと広がっただけで景色は良い。でも私はそんなちっぽけな変化で参ってしまっていた。我ながら恐ろしくメンタルが弱い。

 その時の滞在はあまり観光地とかを周らずにおばあちゃん家のお手伝いとかをして過ごしたように思う。私も通っている学校が進学校だった事もあって観光よりか避暑地で勉強することが半分目的だった。

 こんな事を言うと、おばあちゃんに、東北の人に凄く失礼なのだけど、目の前でおばあちゃんが普段通りに行動していたのがどうしても納得できなかった。少なくともおばあちゃんの周りでは震災なんて無かったように、普通に花屋の仕事をしていたのである。

 あるいは、おばあちゃんは私達にこの地域には自分たちのように強かに生きている人たちがいる事を見せたかったのかもしれない。津波なんて知った事か。自分たちは自分たちのできる事をやるだけだ。と。

 実際おばあちゃんは強かった。寝室には避難してきたお客さんが使った跡が残っていたし、普段の仕事に加えておばあちゃんは復興事業もいくつか請け負っていた。たしか新たに街の花壇を作る事になって、そこに植える花をおばあちゃんが作ったものが入るのだ。これはものすごい事だと思う。

 でも、そんなおばあちゃんの、東北の街に息づく復興の力を目の当たりにするには私のメンタルが弱すぎた。

 翌年の高校三年生、私は受験生ということもあって勉強を理由におばあちゃん家に行かなかった。全く情けない事に、アウトサイダーの私には現実を受け入れる時間が必要だったのだった。

 おばあちゃんはあれだけ強いのに。

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