[幼稚園生から小学生時代]
私の中で母方の祖父母の家の最も古い記憶は「雪が降っていて寒い所」だという事。
とりわけ幼稚園生から小学生時代はお正月の時期に訪れていた事もあって朝方新幹線に乗るときに息が白くなったり、夕方から夜中に到着した時に空がしんと暗くなっていたりした事を覚えている。
東北は岩手県、一関駅に向かうために鈍行と新幹線で乗り継いでいく道のり。鈍行の途中で何故か電車が十分くらい停車していた。多分他の列車との間の時間調整だったと思うのだけど、当時の私にはそれが分からず、常に動く電車が止まっていたのを不思議に思っていた。
この時楽しみだったのが停車駅でのお買い物。買い物といってもすぐそばの自販機で何かお菓子や飲み物を妹と一緒になって母にねだっていただけなのだけど、そんなことが不思議と楽しくて仕方がなかった。このタイミングでおやつを買うことが一つの習慣になっていたと思う。
新幹線に乗り換えたら指定席を回転させて四人席を向かい合わせに、家族四人でお菓子やお弁当を食べるのが楽しかった。当時は「遠くにお出かけに行く事」、「電車や新幹線という普段乗らない乗り物に乗る事」自体を楽しんでいたと思う。行きの道のりは明るくて暖かくて――電車と新幹線の暖房は小さい体にとにかく暖かかった――家族みんながいる時間を濃密に感じることが出来ていた。
けれど、一度新幹線を降りるとそんな温かい気持ちが一瞬で消えた。一歩足を新幹線から駅へと下ろすと東北の冬の寒さが一気に襲い掛かって来る。多分私は頬を真っ赤に染めながら、真っ白な息を思い切り吐いていたと思う。窓の外は一面の白、空は灰色で雪が降っている。とにかく寒い。
当時は一関駅から祖父母の家まで最寄りのバスを利用して行き来していた。寒さに体を震わせながら、私達は一日にそう多くないバスを逃すまいとバス停に並んだ。
バスの記憶はあまり楽しいものが無い。と言うのも指定席のある新幹線と違って、バスは全席自由席なわけで、家族四人が一度に乗ろうと思うとするとまとまったスペースが必要になる。ピンク色とさび色が占める暖色のバスは体が小さい私にとっても窮屈で、寒い外よりはましだけれどもすし詰め状態がもたらす熱気は不愉快だった。ある時は知らない人の隣に座った事もあって「一人で頑張って偉いね」と変に褒められた記憶がある。その言葉に良い顔で返せた記憶が無い。私はこの頃から排他的というか、人と関わることが苦手だったのかもしれない。
バスの中ではどういうふうに過ごしていたのか覚えていない。一つはっきりと覚えているのは行きのバスは寂しいということ。新幹線の明るく、整然とした様子と違ってバスは玄人的というか、各バス停のアナウンスがおざなりだった気がする。「地元の人間であればどの駅を利用するのか分かるよね」という暗黙の了解があったのかもしれない。一関駅で乗った時にはパンパンに膨らんでいた空間も、一駅、また一駅と停車するごとに人が消えて空きが広がる。料金表示は三桁から四桁と、自分の持つがま口のお小遣いでは到底足りない金額に上昇を続けた事も幼いながらに無力感を覚えていたのかもしれない。徐々に暗くなる雪景色の中、不安に押しつぶされながらバスに揺られるのはいい思い出では無いので、あまり記憶していないのかもしれない。
ゆえに、バス停に降りた時の記憶もあいまいだ。なんかよく分からない側道にポツンと置かれたバス停に降りる事もあれば、「三陸おさかなセンター」と呼ばれる建物にある駅で降りる事もあった。この辺りは母親とおばあちゃんの間での打ち合わせで決めていたのかもしれない。おさかなセンターは結構好きだった。待ち時間の間水槽の中にいるたくさんの種類の図鑑の中でしか見たことの無い生き物を見るのは子供心に刺激的だった。
バス停からおばあちゃんであろうお迎えがどのように行われていたのか、この時期の私はサッパリ記憶していない。祖父母は今でも第一次産業、つまりは農家を生業にしていて、おばあちゃんと言えば真っ青な三トントラックを乗り回しているのが印象的だ。
けれど、父母妹私の四人だと運転席に乗る事は物理的に無理だし、母妹私の三人でも、いくら体が小さかったからって無理がある気がする。この時期にバス停からおばあちゃんの家にどのように行ったのか、今でも謎だ。
一旦おばあちゃん家に到着すると、荷物を居間においてまたすぐに移動。確か新年のお祝いと、私達家族が帰省した事を祝しての宴会を近場の旅館でやっていた記憶がある。旅館での記憶はお風呂とNHKの忍たま乱太郎が多くを占めている。と言うのも、おばあちゃん家の風呂場は年季が入っていて、内装が崩れて壁の一枚がカビだらけで今にも剥がれそうだった。当時のおばあちゃん家は風呂とトイレが別棟になっていて行き帰りが寒かったのもあって幼いながらに不便を感じていたのだと思う。……小さいのに贅沢な奴だ。だからこそ、広くて清潔で豪勢な旅館の温泉は結構気に入っていた。
忍たま乱太郎が記憶に残っているのは当時の私には宴会の内容がサッパリ分からなかったからだと思う。人が集まるのに時間があって、空いた時間でテレビを見ていた記憶がある。その時大体映っていたのがNHKでチャンネルの少ない田舎では子供が見られるような番組は教育テレビがせいぜいだった。訳がわからないままに忍たまを観て、豪勢らしい(何を食べたのか記憶が全くない)食べ物を食べてで記憶が途切れている。小さい体には旅の疲れと誰が誰だか分からない親戚が大勢でお酒でどんちゃんする様子が意味不明でとにかく眠かった事は記憶している。子供組である私と妹は食べ終えるとおばあちゃんに担がれて、一足先におばあちゃん家の寝室に寝かされて最初の一日が終わった。
寝室で印象に残っているのが一台だけあるベッドとその隣にズラリと並ぶ家族四人分のお布団。子供じゃなくても部屋自体がかなり大きいことが分かる。確かベッドの隣には何故かバベルの塔の絵画が掛けられていた。今思えば一体誰の趣味なのか全く分からない。けれど、電球のオレンジの光りのなかでボウと浮かび上がる巨大な塔は圧迫感というか、私を不安にさせた。幼心にそれが意味するものを理解していたのか。それともほかの壁に掛けられていた先祖代々の写真と絵もボウっと浮かび上がっていたのが不気味だったのか。おばあちゃん家の布団は肉厚でとても寝心地が良かったし、広いスペースで眠れるのは楽しかった。けれど寝室全体の印象としては奇妙と言うか不気味というか違う場所なのだという点が頭から離れなかった。
おばあちゃん家の記憶があいまいなのはこの「違う場所」である感覚が大きかったのかもしれない。子供にとっては慣れ親しんだ場所以外は全て別世界のようなもので、その意味でおばあちゃん家は異界そのものだった。
家屋の構造は木造の一階建てということは覚えている。入り口に入るとすぐに土間があって、玄関と居間が高床で一体になっているよくある田舎の構造。その時は這って登っていたのか、とにかく崖のように感じた。居間は生活の中心で、中心にある掘りごたつから無限に空間が広がっていた気がする。とにかくよく冷えていて、走り回っても怒られない、多少人数が増えても異に返さないほどに空間があった印象が大きい。
子供と言うのはエネルギーが有り余っているもので、多分私は母親よりも早く起きては居間に行って何か一人遊びをしていたとおもう。やっぱりこの頃から私は一人で過ごすことが好きだったみたいだ。そして、それがひと段落するとおばあちゃんがやってくる。
パン! パン! パン!
「⁉」
おばあちゃんの朝の挨拶はマラソン大会で使うあのスターターピストルの銃声だ。なんでも台所の裏にあるリンゴの樹にはよくカラスなどの獣がやってくるそうで、一度獣に舐められると居着いてしまい作物を荒らされてしまう。そのために毎朝ピストルを鳴らすそうだ。
台所では他におばちゃんがウニを割っているのが印象的だ。おばあちゃん家は大船渡に近く、海産物を買ったり、知り合いから分けてもらったりしている。多分おばあちゃんは私達一家をもてなしてくれようとたらいいっぱいのウニを割っては中身をくり出していた。
けれど子供の舌とは残酷なもので、ウニの味は全然分からなかった。成人した今ならお酒と最高に合う高級品ということが分かるのだけど、当時は「なんかにがい」としか記憶していない。
しかしながら、そこは年の功。おばあちゃんも子供の扱いと言うのを心得ている。次におばあちゃんが用意するのがウニとお味噌を混ぜ合わせたウニみそだった。味噌が混ざる事でウニの磯臭さ、苦さが緩和されて子供舌でも途端に美味しく感じるからとても不思議だ。白米なんてあっという間に平らげることができる。それからはウニみそはおばあちゃん家を代表する料理として、たまに宅急便などでも送ってもらっていた。
この頃のおばあちゃん家の滞在期間はそんなに長く無かったと思う。冬のお正月なので親戚周りの挨拶が終わるとすぐ帰ったか、或いは長くいても子供すぎて時間そのものを忘れたのか。こんな頭でもやれテレビでトランスフォーマービーストウォーズをやっていたとか、ライオンだったコンボイが3DCGのゴリラに変わったとかそんなくだらないことばかり覚えているのだからこの頃から私はオタクの兆候があったのかもしれない。
そんな思い出を忘れる、或いは覚える気の無い頭でも一つだけ印象に残っていることがある。それはおじいちゃんが経営している牧場だ。
そこは多分おばあちゃん家の下側に広がっていたと思う。詳しい立地は覚えていないけど、おばあちゃん家の敷地は山の上下に広がっている。工事を経て現在ではかなり姿を変えてしまったが、記憶が正しければおばあちゃん家から水平、もしくは下方に牧場があったはずだ。
牧場と言っても緑豊かで牧歌的な感じでは無く、こぢんまりとした土色がひしめくものだったと思う。第一印象は「狭い」だった。不思議と牛がいた印象が無い。私が忘れているのか、放牧中だったのか。とにかく牛舎の中ががらんとして、肝心の牛の事を覚えていないのだ。肉牛を取引していたのか、乳しぼりを体験した記憶も無い。
一つ覚えているのは、屋号か何かしらのマークが入った群青色のキャップを被ったおじいちゃんが誇らしげに牧場を眺めている姿。仕事に打ち込んでいるおじいちゃんはとにかく輝いていたように思う。
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