愛しているから

「ミーくん。ウチは……ミーくんが……好きです」


 ミャー子の胸で大泣きしている最中、そんな言葉を聞いた気がする。


 両親への復讐も、女に対しバリアーを張り続けるのも、もうどうでもいいと、本気で思えた。


 彼女が……ミャー子がいてくれれば、もうどうでもいい。


「…………」


 もしかしたら、彼女は僕の見ている幻覚なんじゃないだろうか?


 だって、いるか? こんないい子?


 僕が受けた仕打ちや出来事に涙を流し、一緒に悲しみに暮れ、怒ってくれる。


 顔だって可愛いし、鈴を転がすような甘い声音も僕の心を落ち着かせてくれる。


 何か成果を出そうと、いつもワタワタと落ち着かないその様も、小動物のような愛らしさがある。


 こんな女性が現実にいていいのだろうか?


 いや、分かってはいるが。


 幻覚だったら、今僕が居座ってるこの空間は何だってんだって話になる。


 さすがにVRが発達した時代とはいえ、ここまでのリアリティーはまだ未来に望むしかなかろう。


 もしくは、本当の僕はとうに精神を病み、精神病棟で入院していて……この空間や、大学生活、ミャー子は僕が見ている夢なのではないだろうか? なんて想像をしてみる。


 ……ゾクっとした。嫌だ。勘弁してくれ。


「ミャー子……」


 そう思って、目の前にいるミャー子が幻なんかじゃないと確かめるように、僕は彼女の背中に回した腕に力を込め、彼女を抱き締めた。


「はいっス」


「……! ミャー子……!」


「はいっス。大丈夫。ここにいるっスよ。どこにも行かないっス」


 僕の不安を打ち払うように、彼女はこれまでで一番優しく母性的な声で、僕の頭を撫で続けてくれた。




 そうして、何分が経過しただろうか?


 何だか名残惜しい気もしたが、僕達はどちらともなく身体を離した。


 いや、実際にはもう僕もミャー子も、鼻水が限界だったので、ティッシュが欲しかった。


『ブビーっ!』


 二人して豪快に鼻をかむ。


「……ふふ」


「……はは」


 お互い真っ赤な目と鼻をしているんだろう。僕達は顔を見合わせ、笑みを溢した。


「コーヒー、冷めちゃったっスね。温め直して来るっス」


「うん。ありがとう」


 ミャー子が立ち上がり、キッチンへと歩いて行く。


 僕はいつものソファーに座り、彼女の後ろ姿を目で追う。


 ……あと、もう一つ分かってしまった。


 僕は、ミャー子のことを女性として、自分でも驚くほど評価していたようだ。


 さっきから、ミャー子が可愛く思えて仕方がない。何なんだ?


 顔も、いつもよりとんでもなく可愛く見えるし、声も死ぬほど可愛らしく聴こえる。


 ……これはもしかしてアレか? 恋愛フィルターというヤツなのか。


 そんな感情がまだ自分の中に残っているなんて、驚きだ。

 

 我ながら、なんて愚かなんだろうと思う。


 アレだけの目に遭っておきながら、性懲りもなく……と。


 それと同時に、それでも……ミャー子だから、と反論する気持ちがないでもない。


 多分、どんなに心が荒んでいようが、人を信じられなくなっていようが……彼女と一緒にいたら、どんなに斜に構えていても、時間の問題だ。


 癒されずにはいられないんだ。きっと。


「……お待たせっス」


「うん。おかえり」


 戻ってきたミャー子が僕の隣に座る。


 ……心なしか、いつもより距離が近い気がする。いや、自意識過剰かもしれないが。


「……美味い」


「ウチもミーくんの影響で、すっかりコーヒー好きになっちゃったっスね」


「ミャー子はミルクに砂糖二本入れてるじゃない」


「そ、それでもコーヒーっスよ! カフェオレでも、コーヒーが大部分っス!」


「そんなに糖分ばっか摂ってると太るぞ」


「あぁ、それ禁句っス!」


 ムキャー! と耳を塞ぐミャー子を見て、何だかいつもの空気が戻ってきたな、と僕がコーヒーを味わっていると――


「……太って、ました? さっき抱き締めた時……」


「ブフッ!」


 ――ミャー子が大胆な発言をしたので、危うくまたコーヒーを吹くところだった。


「げほっ!」


「だ、大丈夫っスか?」


「あぁ、ああ……何とか溢さずに済んだみたい」


「ああ、良かったっス」


「…………」


「…………」


「……で、太かったっスか?」


「…………」


 ミャー子さんん……!


「な、何か、今日……ずっと、大胆な発言が続くっていうか、グイグイ来るね……」


「た、確かに……自分でもそう思うっスけど……だって、内心ミーくんに『こいつブヨブヨじゃねーか』とか思われてたら死にたくなるなぁって……」


 顔を赤くしたミャー子が、チラチラとこちらを見ながらそんなことを言う。


「太って……ないよ。むしろ、やせ過ぎっていうか……こんな華奢なんだなって……思った」


「本当ッスか?」


「うん……小さくて、乱暴にしたら壊れちゃうんじゃないかって……不安になった」


「……そっスか」


 何だか満足なのか不満なのか、良く分からない表情のまま、ミャー子が組んだ手を膝の上に置く。


「うん……ごめんな、その……痛くなかった?」


「嬉しかったっス」


 僕の言葉に、ミャー子は即座に反応し、断言した。


「…………」


「……ウチ、ずっとミーくんに助けてもらってばっかりだったから、ミーくんが泣いてくれて、弱いところを見せてくれて……ようやく、支えられたっていうか、役に立てたかなって思ったっス」


 そう言ってミャー子は自分の胸に付いた、僕の涙の痕を愛おしげに撫でる。


「いつも……いつだって支えられてるよ」


 僕はそう言ってミャー子が自分の胸元をいじるのを気がついたら目で追ってしまっていた。


 そして気がついてしまった。


 ……ミャー子の胸に、顔を埋めてしまった。


 ハッキリ言って、凄かった。いやそういう意味じゃなくて!


 ミャー子に……あんな包容力があると思っていなかった。


 まさか、固く、固く閉じ籠めていた自分の心が融かされるなんて。思わず泣いてしまった。


「……?」


「……っ!」


 まずい。胸見てたのバレた。バカバカバカ。バカ野郎。ミャー子はあの胸がコンプレックスなんだ。


「……ウチ、結構、この胸……嫌だったっス。チビなのに胸ばっかり大きくて、男の人にすぐ見られるし」


「……うん」


 知ってる。だから僕は余り見ないようにしていた。


「……ミーくんが気を遣ってくれてるの、気づいてたっス。優しいなぁって……。だから、いつまでも気にしてたら悪いし。それに……ミーくんだったら全然……その」


「わ、分かった。分かったから、もう、無理しなくていいから……!」


 僕はそう言って、ミャー子にストップを掛けた。


 彼女は、自分がどれだけ大胆な発言をしているか、自覚しているのだろうか?


「無理なんかしてないッス……!」


 どういうワケか、彼女はムキになったような顔つきになった。


「さっきだって……ミーくんが泣くのに役に立ったなら、良かったって思ったっスよ?」


「う、うん……ありがとう。でも、恥ずかしいだろ?」


「は、恥ずかしくなんかないっス……いや、恥ずかしいは恥ずかしいっスけど……!」


 どうにかしていつもの空気に戻そうとするのだが、その度に、ミャー子が今の空気を続けようと危険な発言をしてくる。今まで踏み込まないようにしていた領域の話だ。


 お互い真っ赤なのが分かる。でも何故? 


 ……やっぱり、さっきのは幻聴ではないということなのか?


「ウチは……ミーくんが好きっスから……!」


「…………」


 幻聴じゃ、なかったな。


「今まで通り、楽しく過ごしていきたいってのは勿論っスけど……少しずつ、気を遣わなくて済むようになりたいっていうか……」


「……うん」


「ミーくんに辛いことがあったら、その辛さを二人で分けて、一緒に落ち込みたいっス。理不尽なことには二人でムキーって怒って、嬉しいことには、二人で笑いたい……っス」


「ミャー子。それって――」


「?」


 ――プロポーズ、だよね。


 思い浮かべた言葉は、口に出さなかった。必死に飲み込んだ。


 あぁ……分かった。分かってしまった。いや、本当はずっと前から分かっていた。分かっていたんだよ。


 僕は……ミャー子が好きだ。


 ミャー子を愛している。


 自分の命よりも大切な人だと思っている。


「ごめん」


「……っ!」


 反射的にそんな言葉が口を衝いて出た。


 ミャー子が顔をしかめるのが見える。


 分かってる。あの愛らしい、天使のような表情を、僕が歪めた。万死に値する罪深い行いだ。分かってる。


 ……でも、それでも。


「ミャー子とは、ずっと……親友でいたい」


 この気持ちを口に出してしまったら、恋人になってしまったら。


 いつか終わりが来てしまう。


「……ミー、くん……」


「…………」


 ……僕は、弱くて、ズルくて、臆病者だ。


 ミャー子と一緒にいたい。


 いつまでも彼女の傍にいて、彼女を守りたい。


 いつまでも彼女を、心の拠り所にしていたい。


「…………」


「…………」


「……分かった……っス」


 ミャー子が顔を背ける。


 泣いているのは、見なくても分かっていた。


「ごめん……ありがとう。ミャー子」


「……っス」


 だから……友達でいい。


 きっと、いつかはミャー子にも別の好きな人ができて、僕達は一緒にいられなくなる。


 それでも、友人ならば彼女の相談に乗れる。


 彼女の支えになれる。


 もうあんな……出会ったことが間違いだったのだと、全てをなかったことにしようとして、出会い自体を呪い、その人をまるごと否定しようとし、それでも叶わず、悪夢に悩まされるほど傷つかずに済むのだ。


 関わったこと自体を否定して、無理矢理に閉じ込めて、蓋をしなくて済むのだ。


 いつか後悔することなんて……分かり切っていた。


 頭の中では、自分の行動を全力で非難し、罵倒する自分がいる。


 涙が出そうだった。


 でも、今、泣く資格は……僕にはない。


 泣くな。


 泣くな泣くな泣くな泣くな泣くな泣くな……!


 フる側がフラれる側より泣くなんて、絶対に許されない。ここで泣いたら自分をぶっ殺したくなる……!


 だから、泣くな。


 出会ってから、先程までのミャー子との時間は、堪らなく甘美だった。


 あの甘い、甘い日々を、僕は自ら棒に振ったんだ。


 もうあんな幸せな日々は訪れないだろう。


 でも……! こうすれば繋がりを保っていられる……!


 こうすれば……! ミャー子と出会ったことを後悔しないで済むんだ……! 


 もう、あんな思い、二度としたくないんだよ……!


 だから……! 泣くな……!


 僕は苦いブラックコーヒーを一気に飲み干した。

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