橘 海月④

 僕がそのことを知ったのは、ジメジメとした六月のこと。シトシトと注ぐ雨の中でだった。


 もうこの頃には、会うペースは月に一度くらいになっていたが、決して彼女への気持ちが薄れていたからではない。このことだけは誓って言える。


 だが、彼女はそうは思っていなかったようだ。


 ゴールデンウィークは僕にとっては書き入れ時だったが、彼女にとっては連休だ。この期間に放っておいてしまった埋め合わせはさすがにしなくてはならないだろうと、珍しく僕から彼女をデートに誘った。


 驚いたあとに当日は槍でも降るのではないか、なんて笑って言ってくるだろうという予想に反して、彼女の返答は酷く曖昧だったのが引っかかってはいた。


 実際に槍が降ることはなかったが、当日は生憎の雨。傘のせいもあって俯きがちな彼女の表情が窺えない。


 どこか胸騒ぎを覚えた。


 誘ったときの曖昧な態度に、どこか違和感を感じていた僕が、何か先約でもあったのかと聞くも、どうもハッキリしない答えが返ってくるし、二人でいる最中も、どこか彼女の態度がおかしかった。こちらをあまり見ようとしないし、スマホばかり見て、ずっと誰かと連絡を取っていた。


 そして僕は見てしまった。彼女が連絡を取っていたであろう相手の名前が、明らかに男のそれであることと、『今日会えなかった分、次回はたくさん――』なんて目を疑うような文を。


 徐々に強くなる鼓動と疑惑をどうにかしようと、僕は彼女を問い詰めた……が、彼女は煩わし気にあしらおうとするばかりで話にならない。


 業を煮やした僕は、彼女のスマホを奪い取った。苦情の声も完全無視だ。


「…………」


 ……目を覆いたくなるような言葉ばかりが綴られていた。


 彼氏の愚痴を垂れ流す彼女に、それに付け込もうと彼女を口説き伏せるような返事。


 彼氏……つまり僕のことだ。


 ……会話の端々から、二人が何度も会ってはおぞましい行為に耽っているのは、疑いようがなかった。 


 ……これは現実の話なのか?


 僕が大切な女性だと思っていた人を見ると、彼女は堰を切ったように喚き散らした。


 寂しかったこと。


 大学の新入生歓迎の飲み会で、酔い潰れたこと。


 そこで件の男に持ち帰られたこと。


 泥酔していてロクに抵抗できなかったこと。


 酒が入っていたせいで、今まで溜め込んでいた不満が爆発した結果、押しの強いそいつを受け入れてしまったこと。


 身体目当てではあるが、常に自分を求めてくれるそいつを無下に扱えないこと。


 ……大学の新歓……つまり、彼女は四月にはもう浮気をしていたというワケだ。


 ……浮気。一人の異性だけを愛さず、あの人この人と心を移すこと。


 大切にすべき人の想いをないがしろにして、不貞を働くこと。


 ……僕の、父親のように……!!


 一気に頭が熱くなる。血が燃えて血管を破り、全身を焼き尽くさんばかりに身体中を激情が暴れ回る。


 彼女の言い分は『放っといた僕』と『押しの強い浮気相手』のせいでこんなことになった、だ。


 ……この時の僕の頭には、二つの選択肢があった。


 片方を想像してみる。


 母親のように、それでもいいと、それでも君を愛していると、跪いて彼女に縋る自分の姿を……!


 ……吐き気がした。無理だ……!


 それだけは受け入れられなかった。


 あの人達と同じ人種にだけはなりたくなかった。


 必然、僕の出した答えは彼女との決別だった。


 駄目だ。気分が悪い。視界が歪んでる。早く会話を打ち切りたい。


 もう、顔も見たくないし、声も聴きたくない……!


 共に歩む未来まで思い描く程に愛した人が、ここまで嫌悪の対象に成り得てしまうという事実に驚いた。


 涙が出そうになったがグっと堪える。


 こんな、こんなヤツの前で泣いてやるものか……!


 地面に広がる水溜まりに、水滴が波紋を作っては溶け込んでいく。僕の感情のように。


「そうだな……。君は、何も……悪くない」


 拳に勝手に力が込められていく。まずい。早く終わらせて帰ろう。終わらせて、一人にならないと……!


「いつだって……悪くない」


 ……最悪の事態が起こりかねない。


 このままではいけない。怒りをぶつける対象が目の前にいると――


「君に何か不利益なことが起こるのは、いつだって君以外の何かのせいで……君はいつでも『可哀想な被害者』なんだ。気にしなくていい」


 ――僕は彼女を殺してしまいかねない。


 さっさと終わらせようと早口で捲し立てた。


「……っ!」


 ヒュウ、と大きく息を吸い込む音が聞こえた――瞬間、頬を殴られた。


 手に持っていた安物のビニール傘が地面に落ちる。


「…………」


「……最低」


 彼女の目から涙が溢れる。


「……最低!」


 ……何泣いてんだこいつ。


 最低……どっちがだ? ……ブチ殺すぞ。


「……っ」


 駄目だ! 駄目だ駄目だ駄目だ。


 それだけは駄目だ。絶対に駄目だ……!


 元々何の義理もないのに、他人の僕に施しをしてくれたんだぞ。


 それに対して僕は応えられなかった。何も返せなかった。


 だから、もう終わりにする。


 ……それだけ、だろ? それだけのことだろ?


「……元からだよ。知らなかった?」


 沸き上がるドス黒い感情を無理矢理に抑えて、僕は笑った。


 呆気に取られたような顔をしている彼女にさらに続ける。


「本当にありがとう。君の作ってくれた弁当のおかげで、大分節約できたし、体力的にもとても助かった」


「……は?」


「何もお返しができないのが大変心苦しい限りですが、ご援助に感謝します。ありがとうございました」


 そう言って頭を下げ、顔を上げるや否や、僕は背を向けて歩き出した。


 彼女がどんな顔をしていたかは知らない。目も合わせなかった。 


 ますます雨は足を早めていたが、傘を拾いに戻るのは気が進まなかった。


 あの傘を彼女が拾うだろうかと一瞬思ったが、すぐに考えるのをやめた。どうでもいいことだ。


「…………」


 無言のまま歩き続ける。


 ……勝手に期待してしまった僕がバカだったんだ。


 きっと野良犬にエサをやるような気まぐれだったんだ。


 そして手懐けた僕にそのままエサを与えてくれた。


 たまたま彼女が寂しい気分だったり、満たされない気分の時に近くにいた僕と、身体を重ねただけだったんだ。


 ……そうか。彼女は別に僕を好きだったワケじゃない。自分の寂しさを埋める相手にたまたま僕を選んだだけだったんだ。


 最早どしゃ降りと言って差し支えない雨の中、なおも無言のまま、僕は歩き続ける。


 ……自惚れが過ぎたな。恋人だなんてとんでもない。


 そりゃそうだ。


 デートらしいデートにも連れて行ってあげてない。どこかに行きたいなんて言える空気すら作れてなかった。


 何せ僕は彼女が自分を支えてくれるという事実に、甘えに甘えていたくせに、彼女を支えようという意識が全くなかったんだから。


 それどころか、彼女に支えが必要なのだということにすら、気づくに至らなかったのだ。


 人という字を思い出した。僕はきっと支えられているのをいいことに、一方的に寄りかかっていただけの一画目だったんだろう。


 或いは、僕が依存することによって彼女を弱くしてしまった可能性も否めない。


 好きなだけ甘えてたくせに唐突に放っとかれたら腹も立つだろう。


 そりゃフラれて当然だ。


 他に支えたい、いつでも傍にいてやれるという男が現れたら、そっちに行くさ。


 うん……仕方がない。


 ……仕方がないな、これは。


「……っ」


 少し目眩がして、僕は道端の壁に手をついてうずくまった。


 膝に力が入らない。


 ……早く立たなきゃ。こんなとこで風邪を引いてる場合じゃないんだ。 


「……仕方が……ないワケ……あるか……!!」


 理屈では納得した。


 だが心は受け入れることを拒否した。


 涙が止まらないし、握り締めた拳と食い縛った歯からは血が出ていた。


「ぐうぅっ……!!」


 握り締めた拳を壁に叩きつける。痺れと共に痛みが広がり、地面へと伝う雨を赤く染めた。


 ……納得できるワケないだろう!


 どうして言ってくれなかった?


 僕に気を遣ったのか?


 ならそれは彼女の判断だし、彼女の責任だろう?


 言ってくれれば、相談してくれれば対処したさ!


 それくらいには君のことを大切に思っていた!


 言わないし顔にも出さなかったけれど、実は君が密かに疲れていたことに気づかなかった罰がこれか?


 ……信じられない。


 彼女が。


 あんなに献身的に僕を支えてくれて、励ましてくれた彼女が!


 会ったばかりの、酒の席で少し甘い言葉を囁いただけのヤツに、喜んで身体を許したというのか?


 僕を元気づけてくれて、他愛のない会話で笑顔をくれていた彼女が……。


 僕との未来より、そんなどこかの男との刹那的な火遊びを優先したという事実が、どうしても受け入れられない……!


 駄目だ。考えると吐き気がする。


 脳が焦げ付いてしまうような怒りに、僕は呻きながら壁に寄り掛かって丸くなった。


 駄目だ……! 憎まずに、恨まずに片付けられない……!


 結局僕は、ただの子供だったってことなのか。


 全て僕が悪いと呑み込み、悪役になって処理することができない。


 なんて弱くて小さい器なんだろう………!


 それでも真に彼女を大切に思っているのなら、自分の非を認めて頭を下げるべきだったのか?


「君の献身に甘え、君の気持ちも考えず、寂しさも理解せずに一人にした僕がバカだった」と?


 確かに、そう言って頭を下げれば、彼女は溜飲を下げ、冷静に話をしてくれたかもしれない。或いは「自分も悪かった。許して欲しい」と、おあいこ・・・・にだってできたかもしれない。


「……!」


 自分の想像に気分が悪くなった。


 不愉快だと思ってしまった。


 吐き気を催した。


 穢らわしいとすら思ってしまった。


 ……駄目だ。もう、僕は彼女を愛せない。


 彼女と仲直りをして、元の鞘に収まって、二人で生きていくことになったとしても……必ず。


 必ず僕は、彼女が他の男に身体を許した事実を思い出してしまう。


 僕が彼女に追い付こうとしていたことを知りながら、他の男に心を許した事実が拭えない。


 そして、その原因が僕にあると自分の罪を誤魔化そうとした事実を、無かったことにはできない……!


 どんなに男らしくないと誹りを受けようと、受け入れることができない。払拭することができない。


 僕のせいだと、僕の罪だと僕を非難する彼女の姿が……母親と重なってしまった。


 自分を『被害者』だと信じて疑わないあの表情が、網膜に焼き付いて忘れられない。


 分かっているさ。大半は僕が悪い。


 彼女に入れ込みすぎて、結果一緒に居れなくなったのは僕のせいだ。


 そしてそれを後悔して、彼女を一人にしたのも僕だ。


 でもそれは、彼女との未来を思い描いていたからだ。


 確かにそのことを伝えなかった。口に出しはしなかった。


 まだ何の実績も手にしていない僕がそれを言ったところで、ただの絵空事だろ?


 でも彼女はそれを求めていたっていうのか?


 ……分かっているさ、僕が悪い。


 思っているだけで、口にしなくてもお互いのことは分かっているなんて勝手な夢を見て、そこに独り善がりな安寧を得ていた僕はとんだ勘違い野郎だったってワケだ。


 そうだ、僕が悪いんだ……。


 だけど、だけど……!


 これ程の罰を受ける程に、僕は罪深いことをしたのか……!?


 彼女を一人にして、寂しい思いをさせた。


 謂わば何もしなかったことが僕の罪で――何もしなかったから僕は加害者?


 そして、何もしなかった僕への当てつけで他の男と体を重ねた彼女が被害者?


 ……冗談だろう?


「は、はは……」


 涙が止まらない。視界は彼女と出会う前より濁っている。なのに口からは乾いた笑い声が出た。理由は分からない。分かりたくない。


 分かろうと費やしている時間も惜しい。


 ……無かったことにしたい。


 彼女から貰った「好き」を。


 その「好き」に応えた僕の行動全てを……無かったことにしたい……!


「あは、はははは……!」


 もしかしたら僕はもうどこか壊れているのかもしれない。


 だけど、病院に行っている時間も金もない。


「勉強……しないと」


 ……こんな思いをするなら、知らなければよかった。


 ……出会わなければよかったんだ。


 ……心を許さなければよかったんだ。


 もうこんな思いはたくさんだ。


 一人でいい。


 僕はもう一生……一人でいい。

 

 誰にも心を開かず気を許さず、一人だけで、自分の為だけに生きていきたい。


 



 それからのことは、所々記憶が飛んでいる。


 僕は機械になったように、勉強とアルバイトにのめり込んだ。


 たまに不意に零れていた涙に自分でも驚くことがあったが、それ以外は特に心を波立たせるようなことは何もなかった。


 前に落ちた大学より上位のところを受験した。


 あいつらより上に行ってやる……見下ろしても見つけられないくらい高みに行ってやる。


 そして、僕は志望校に合格した。


 すぐに一人暮らしできるアパートを探して、あの家を出た。


 ようやく目標の第一歩を踏み出せたんだ……もっと喜んでもいいはずなのに、どこか虚しかったのを覚えてる。





 そして入学から数日……僕は居酒屋にいた。


 新歓の飲み会に誘われるままついてきた。断ることもできたのに。理由はよく分からない。


 多分、確かめたいという気持ちがあったからだ。あのとき彼女が口にした言い訳が真実なのか。


 或いは自分の中に残っている幻想に別れを告げる為なのか。


 ……やはり嘘っぱちだったんだ。彼女は自らの意思で例の状況を受け入れたんだ、と怒りという原動力を補充する為なのかもしれない。


「…………」


 なるほど。女に酒を飲ませて酔わせてしまおうという輩がいるのは間違いないらしい。


 先程から端の席に座っている一人の女子に寄ってたかって、話は適当に返事するくせにグイグイ飲ませようとしているヤツらの様子を、僕は隣に座る女子の声を完全に無視しながら見ていた。


 ……やっぱりクソだな。


 ……そして腹立たしいことに見る見る内に飲まされている子がフラフラしていく。


 ……危機感とかないのか?


 彼女もそうだったのだろうか? 暗澹とした心持ちになる。


 スッカリ潰れてしまった彼女に興味を無くしたのか、飲ませていた連中はテーブルに突っ伏してしまった彼女を放置して僕の隣にいる女子に粉をかけにきた。


 そいつらが近くを通ったとき、小声での会話が漏れ聞こえる。


「アレ放っといて大丈夫なんかね」


「帰り際もああだったら俺が持ち帰るよ」


「うわサイテー。でもあの胸やべーな」


 ……どこまでイラつかせてくれるんだ?


 僕は立ち上がり、飲まされていた女の隣へと行き、膝をつく。


「……生きてるか?」


「……気持ち……悪い」

 

「あんな勧められるまま飲むからだよ。バカじゃないの」


「だって……」


「ん?」


「もう……一人は……いや」


 よく見ればその子の目には涙が浮かんでいた。


「…………」


 ……そうだね。一人でいるのは、楽なこともあるけど、辛いときもあるもんな。


「っ……っ……また、空回りしちゃった……ウチ、なんでこんな……」


 嗚咽を漏らし始めた彼女を見て、何を思ったのか僕は二人分のお代をテーブルに置き――


「帰ろう」


 ――そんなことを言っていた。


「え……?」


 ようやく僕を見たその瞳に僕はさらに続けた。


「おぶるから、行こう。ホラ立って」


「……え、と」


「ここにいない方がいい。誓って何もしないから。もし何かしたら責任取る」


「……!」


「……何?」


「せ、責任て……どうやって……?」


「え? ……大学生活全部モヒカンにして過ごすとか?」


「……ふ、ふふ……何ですか、それ」


「何ならアフロでもいいぞ。ホラ、行こう」


「……分かりました。ホントにウチ、立てませんからね?」


「オーケー」


「……重いですよ?」


「まるで鍛えてないモヤシ共より、腕力には些か自信があるぞ。ホラ、手貸して」


「分かりました……」


 彼女が伸ばした腕を掴んで、どうにか立たせる。


「よろしく……お願いします」


「うん、任せて」




 こうして僕はミャー子と出会った。


 ミャー子……都優美穂。


 一生忘れられないだろう。


 裏切られることを恐れ、人を信じられらない僕を信じてくれた……大切な女性ひとの名前だ。

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