橘 海月③

 バタコこと、川端心春との出会いは僕の高校生活最後の一年間に彩りをもたらした。


 一日に一食増えるだけで、こんなにも力が湧くのかと驚いたものだ。


 本当にありがたいことである。


 ……しかし何故? 僕は何も返すことができないのに、と疑問に思わないでもなかったが、その余りのありがたみに抗うことはできなかった。


 それ程に彼女の作る弁当は美味であった。


 バタコはその派手な外見と言動に反して、とても家庭的な性質を持っていたのである。


 気がつけばいつからか僕はバイト中にも勉強中にも「明日はどんなおかずを作ってくれるのだろう」と彼女(と弁当)のことを考える時間ができていた。






「クラゲさー……」


 蝉の大合唱の中、ぽつりと呟いたであろうはずなのに、僕の耳は確かに彼女の声をキャッチした。


「海月、な」


 まさに群青、と呼ぶに相応しい青空と入道雲を見上げながら、僕もぽつりと返した。蝉の大合唱の間隙かんげきを縫って彼女の耳に届いたかは分からない。


「……ミツキ、さ。卵焼きは甘いのとしょっぱいのどっちが好き?」


 昼休みの渡り廊下で、一緒に昼食を摂っていたバタコがそんな質問をしてきた。


 季節は七月。普段は暑い以外の感想がないこの渡り廊下も、この青空が見れたのなら汗だくになるだけの価値があったと言えよう。


 僕は誰に言うでもなく、この景色に『七月の群青』というタイトルをつけた。


「どっちでも大丈夫」


 そう答えながら僕は彼女を一瞬だけ横目で見てすぐに視線を戻す。


 この暑さだから仕方ないとは思うけど、彼女は普段にも増して薄着である。何度『スカートが短過ぎる』『シャツのボタン開け過ぎだぞ』と指摘しても『スケベ』とニヤニヤされるのでいつしか僕は咎めることを諦めた。


「……一応、日によって甘いのとしょっぱいの、どっちも作ってみたことあんだけど」


「うん。知ってる。どっちも美味かったよ」


「どっちかと言えば?」 


 バタコが、先程よりもやや真剣味の増した声で聞いてくる。


「……いや、弟さんの好みを優先していいよ。僕はどっちでも……」


「……は? 弟?」


「……? 弟さんのついでなんじゃないの?」


「いや弟小学生だから給食だし」


「え、そうなの?」


 そういえば確かに彼女はもう一人分くらい作るの増えても変わらない、と言っていたが、弟の弁当を作っているとは言っていなかった。


 ……じゃあアレは自分のついでということか?


「ホラ、どっちのが好き?」


「…………」


 なんでそこまで拘るんだ、と思いつつも、僕は少し考えてみる。


「……甘い方」


「……ん。分かった。じゃあ今度から甘いのにする」


 彼女はそう満足気に微笑んだかと思うと、すぐに自分の昼食に視線を戻した。


「い、いいよ。そんな……自分の好みのついでで」


「アタシがそうしたいんだよ」


「……なんで?」


「なんでも! いいから甘えなよ。甘い卵焼きが好きなヤツは甘えん坊なんだよ?」


「え、そうなの?」


「いや今思いついたんだけど」


 ……今思いついたのかよ。よく分からん女だ。


 なんて思いつつも、僕は心のどこかで嬉しく思っていた。


 自分の為に、味付けや献立を考えてくれる人がいるということに、幸せを感じていた。


「ありがとう……本当に助かってる。正直、君の作ったご飯が食べられない休日の方が辛いくらいになってきてる」


「え……」


「もうすぐ夏休みだからさ。しばらくこの味とお別れだと思うと、辛いものがあるよ」


「…………」


 彼女が無言のまま固まってしまったので、僕はしばらく蝉達の情熱的なコーラスを堪能することになってしまった。


 ……まずい、食費も払ってない癖に、図々しいと怒られるか?


「…………」 


 僕は身構えたが、いつまで待っても怒声は飛んで来なかった。


「じゃ……じゃあさ、夏休み中のバイトない日、うち来る? そうしたら……食べられるよ?」


「いいのか!?」


 僕は食いついた。正直、家には居たくなかったからだ。図書館に入り浸るつもりだったけど、さすがにずっとは気まずい。


「うん。弟のゲームの相手とか、してもらうかもだけど。あと、勉強するならついでに教えてよ」


 ……そうか。その手があった。


 どうにかして借りを返す方法がないか考えていたけど、そんな手があった。


「勿論、こっちからお願いしたい!」





 ……それからはあっという間だった。


 平日は今まで通り、憑かれたように勉強し、バイトする。


 そして休日は彼女の家に入り浸るようになった。


 まず、彼女はその見た目に反して、とても勉強が出来た。僕が教える必要なんてないくらいに。


 では何故あんなことを言ったのか、とようやく借りを返せるつもりでいた僕は、少し不満気に彼女を問い詰めた。


「……本当に、分かんない?」


「……? 分かんないから聞いてるんだけど」


「――好き、だから」


「…………」


「…………」


 確かその時も、遠くに蝉の声を聞いていた気がする。


「……はぇっ?」


 その時聞かされた彼女の言葉で、僕は自分が鈍感な人間であったことを知った。ユラユラと他人の好意の波に揺られて、差し出された厚意にただ甘えていた。正にクラゲと呼ばれるにふさわしい。


 彼女が、異性として僕に好意を持っているからこそ、してくれていたことなのだと、ようやくその時になって気付いたのだ。


 それを聞かされたとき、僕は気付くのが遅かった反動なのか、一気に彼女をいじらしく、可愛らしいと思った。


 思ってしまった。


 ……楽しく語れるのはここまでだ。






 ……緊張の糸が途切れてしまったのだろうか。


 僕は彼女にのめり込んだ。溺れたといってしまっても差し支えないかもしれない。


 四六時中彼女のことを考え、勉強もどこか疎かになってしまっていた気がする。


 両親への憎悪は薄れ、あのとき胸に誓った「人生の目標」は、どこか薄らいだものになってしまった。


 彼女と会える休日を、心の支えにする毎日になってしまった。


 最後の方はもう疎かどころか、まるで勉強になってない、猿のように一日中彼女に溺れて過ごすような日々を送ってしまっていた。


 何より問題だったのは、僕自身がそのことに気づいておきながら、どこかそれを幸せに感じてしまっていたことだった。


 両親の息子である自分を終わらせて、自分の人生を始める。


 それこそが目標であり、全てはその為の過程だったのに。


 僕は彼女と同じ大学に進学し、彼女と二人で生きようとしていた。


 両親への恨みや憎しみを原動力にするより、幸せな未来に思いを馳せながら生きた方が余程健全だと思ってしまっていたのだった。


 そして、そんな僕への報いなのか。


 ……僕は大学に落ちて、彼女だけが受かってしまった。


 足元が崩れ落ちたかのような感覚を覚えた。


 冗談であって欲しかった。


 夢であって欲しかった。


 浪人……何をやってんだ……! 僕は……!




 彼女が「一年間、待ってる」と言ったときも、母親に浪人することを告げたときも、僕は相手の顔をまともに見れなかった。何て情けないヤツなんだろうと、自分をぶん殴りたくなった。




 やり直しだ。弛んでいた気持ちを引き締めて、再び机に向かう毎日に臨むことになった。


 決して喜ばしい話ではないが、不幸中の幸いなのか、準備する期間が一年延びた為、懐に少し余裕ができた。アルバイトも今まで程ギッシリと入れることもなく、食事も問題なく摂れるようになった。


 彼女との時間にあてがうこともできたが、僕はそうしなかった。また制御が効かなくなって、二浪なんてしたら目も当てられない。


 それに、口には出さなかったが彼女は責任を感じていたと思う。コレで二浪なんてしたら彼女は罪の意識に苛まれるだろう。自分が僕の足を引っ張った、と。


 そうなったら彼女は、きっと僕から離れていくだろう。コレ以上僕の足を引っ張るワケにはいかない。迷惑はかけられないと。


 それは許容できない。それは男としてあってはならないことだ。


 次は絶対に落ちるワケにはいかない。


 そう思った僕は彼女と会う頻度を減らし、勉強にいそしんだ。


 電話も最小限にした。メールはそもそも僕が携帯を持っていなかったのでできなかった。


 彼女も大学での新しい生活にまだ慌ただしいことだろう。落ち着くまでは気を遣わせない方がいい。


 寂しい思いをさせてしまうとは思うが、コレまで僕を支えてくれていた女性だ。きっと分かってくれる。


 分かってくれると思っていたことが、僕のどうしようもなく浅はかなところなのだと、思い知るのはすぐだった。




 結論から言おう。


 彼女は浮気をした。

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