橘 海月②

 僕は高校三年生になった。あの時から視界は濁ったまま。何もかもが汚く見える。風光明媚な観光名所も、今の僕の目では意味を為さないかもしれない。


 だが、目標だけは変わらずしっかりと見えている。


 がむしゃらに勉強して、いい大学に入って、一流企業に入社する。


 父親以上の会社に入ってやる。


 その時、初めて僕は自分の人生を始められるのだと思っていた。それを成し遂げれば僕はあいつらを忘れても……断ち切って生きてもいいのだと思っていた。 


 あの人達に関する記憶を消してしまいたかった。あの人達に育てられた自分をなかったことにしてしまいたかった。


 今だって僕は、自分の食べる物は自分の財布から出している。母親は最初ご飯を作ってくれたし、食べるように言ってきたが、必要ないから作らなくていいと、手をつけようとしない僕に根負けして今は何も言ってこない。


 あの男の遺産が入ったことで、家計は随分と楽になったことだろう。


 これで生活費は大丈夫なはずだ。母親一人ならば。


 もしくは新しい夫を見つけるまではもつだろう。


 僕と決別してまで肩を持った男を、そうあっさりと裏切るとは思わないが、そうなったとしても僕は驚かない。あの人はいつも、何があっても自分は『被害者』だと思っているのだから。


 仮にそうなったとしても、僕はその人の息子にはならない。その人に母をお任せして僕は自分だけで生きていくつもりだ。


 お年玉も今までの貯金も、全て母親に返却した。勿論こんなものでこれまで僕に費やした分が返せたとは思わないが、できるだけのことはしたかった。


 今まで受け取ったものは全て返したかった。


 全て返却したかった。


 全てを手放したかったのだ。


 あの男の金で何も食べたくなかったし、何も手にしたくなかった。


 可能ならば家だって出たかった。同じ空間に居たくなかった。


 だが寝る場所まではどうにもならなかった。そんなツテも金もない。


 結局、自分がまだ親の庇護下に入らざるを得ない、子供なのだと思い知らされる。


 このまま奨学金で大学に進学できたら一人暮らしをして、就職したら纏まった金を母に渡して……


 ……その時、僕は『あの人達の息子』を終わらせて、『自分』を始められる。


 そう思っていた。






 分かっている。無茶だ。


 高校生の子供が勉強をしながら食費どころか、その後の引っ越し代、生活費まで稼ぐなんて。


 分かっているさ。


 つまらない意地なのかもしれない。


 けど僕はこの意地を張り通したかった。この意地を引っ込めることは負けだと思った。自分のアイデンティティを自ら否定することだと思ったのだ。


 辛くはあった。だが生きる意味を無くすことはそれよりも、何よりも怖かった。


 時間が足りなかった。


 もっと勉強する時間が欲しかった。


 もっと働く時間が欲しかった。


 だが一日は二十四時間しかない。


 ……もう分かるだろう。僕は睡眠時間を削った。


 寝ないで勉強をし、寝ないで働きまくった。


 いつ頃からだろうか。僕の目には隈ができて取れなくなった。


 こんな状況に身を置いていたからだろう。何もせずとも衣食住の心配が必要なく、恵まれた環境にただ不平不満を漏らすだけで、何の行動も起こさない学校の連中が馬鹿にしか見えなかった。


 当然そんなヤツらに心を開く気にはなれなかったし、友達にはなれない。何よりそんなことを気にしている余裕がなかった。


 勿論、僕は自分の意志でこの状況を招いているのだから、そいつらに文句を付けるつもりも、進んで攻撃するつもりもない。


 だが仲良く馴れ合っていられるだけの時間もキャパも僕にはなかった。


 差し当たって直面した問題は食糧問題だ。


 その辺はバイト先に全ての望みをかけていた。賄いで食べまくれるし、傷んだものは即座に処理した。胃の中で。


 だが、さすがに一日一食は無茶だった。特に体育のある日は。


 体育の時間イコール保健室で寝る時間状態だった僕は、それを先生達に禁止されて困窮していた。


 このままでは理由を聞かれる。聞かれてロクに食べてないことが知られたら、立ち入られる。


 家に連絡が行き、進学費用のことで親を頼るように言われ、バイトをやめさせられ、家で食事を摂ることを強要される。望んでもいないのに第三者に和解を強制される。


 それだけは嫌だった。多少の出費があっても何か口に入れなくてはならないと思っていたその時だった。




「はい、口に合うか分からないけど、食べ終わったら弁当箱だけ返して」


 時間は昼休み。場所は渡り廊下。他の連中の食事風景を見たくない僕は、ここに避難していたのだ。


「…………」


 僕は、目の前に差し出された弁当箱の入っているであろう巾着袋と、その主の顔を交互に見る。


 派手な色の髪、メイクの乗った顔、短いスカート。


 とても優良な生徒とは思えないその見た目と、手作りと思われる巾着袋のギャップに僕の思考は止まった。


「ん、早く受け取る」


「…………」


 言われるがまま、受け取ってしまった。


 分からない、分からない、分からない。


 その行動が意味することがまるで分からなかった。


「……なんで?」


 僕は僕を見下ろしながら、満足気に口元を弛める女子生徒にそう問いかけた。


「いつもご飯食べてないから」


「……キミのは?」


「あるよ。決まってるじゃん。そっちがそれでいいなら、弁当箱回収しに来るの手間だからここでご一緒してもいい?」


 そう言って彼女は、もう一つ弁当袋を見せてくれた。


「…………」


 僕は無言で何度も頷く。彼女はまたも満足気に笑って僕の隣に腰掛ける。


「そんな短いスカートで座ったらパンツ見えるぞ」


「見えないよ。正面に誰もいないじゃん。てか、やっと喋ったと思ったらそれかよ!」


 彼女は吹き出した。


 何というか、派手な見た目の通り、活発な口調だ。


 しかし一体何を考えているんだろう。僕にメシを食わせて、何のメリットがあるんだろう。


「……いただきます」


 色々訝しんではみたものの、目の前に食べ物を出されたらもう抗うことはできなかった。


「おう食え食え! アタシが作ったから味は保証しねーぞ!」


「え……砂糖と塩、間違えてないよね……?」


「お前失礼だな!」


「いやだって……明らかに料理が上手そうな人には見えない」


「ハッキリ言うなぁ……でも何も食わないよりマシだろ?」


 そう。その通りだ。僕は会話もそこそこにおかずを箸で掴み、口に入れる。


「…………」


「ど、どうだ……?」


「……美味い」


「よっしゃあ見たか!! ……て、うわ、何だお前、泣くなよ!!」


「……泣きたくて泣いてるんじゃない」


 全く何も食べていないワケじゃなかった。それでも僕は涙が溢れるのを止められなかった。


 バイト先で自分で作る料理とは決定的に違う……『家族の為に作った味』がしたからだ。


「……お茶も半分飲んでいいよ。アタシが口つけたヤツだけど」


「……ありがとう」


「おっ、素直にお礼が言えて偉いじゃん!!」


 彼女は意地悪く笑って僕の頭を撫でた。僕は抵抗するワケでもなく、ひたすら弁当の中身をかきこんだ。


「あー……嫌だったら、答えなくていい……けどさ」


 彼女が今までより神妙な声を出す。


 何を聞かれるかはもう分かっている。


 ……僕は全部答えた。


 金を稼ぐ為に色々と切り詰めていること。


 親に頼りたくないこと。


 父親にしたこと、されたこと。


 勉強していい大学に行って、いい会社に行くつもりなこと。


 そのせいで、体育をこれ以上サボれない危機的状況だったこと。


 全て話してしまった。


「アタシも親が馬鹿だから色々と苦労してるよ、あんた程じゃないけどね」


「…………」


「弟達の面倒と、家事食事関係は全部アタシの仕事」


「……!」


 僕はとんでもないショックを受けた。


 ……僕だけじゃ、なかったんだ。


 自分だけが不幸で、他の連中はぬるま湯に浸かっている、何も見出だせない馬鹿だと思っていた。


 ……不幸に酔っていたんだ。僕は。


「ごちそうさま。ありがとう。めちゃくちゃ美味かった。ごめんなさい」


「おう、て……何だよ最後の」


「いや、そんな苦労してると思わなくて……」


「家事できそうな見た目じゃないって? ふふん、今のあんたの顔見てスッキリしたからいいよ」


「…………」


「ついでに聞いておくけど……」


 ハキハキと元気よく喋っていた彼女が一転、言い淀みながら一瞬視線を反らし、


「?」


 少し顔を赤くしながらこう言った。


「明日からも……食べたい?」


「……は?」


「もう一人分くらい作るの増えても変わらないな……と」


「いいのか?」


「こっちがいいのか聞いてんだよっ」


「いい! 食べたい! お願いします!」


「よーしよし素直でよろしい」


 またも上機嫌で僕の頭を撫でる彼女。弟が一人増えたような感覚なのだろうか?


「てか、話聞いて納得っつーか、合点がいったわ」


「……?」


「橘だけ、明らかに他のヤツよりガキじゃないんだもん」


「…………」


「辛かったでしょ」


「……うん」


 僕はここ何年もないくらい素直に頷いた。自分でも驚きだった。


「じゃあ明日からは、昼一食分はアタシが助けてやるよ」


 立ち上がった彼女がニヒ、と口角を上げる。


「……!」


 その笑顔が眩しくて、照らされるように、少し世界に色が戻った気がした。


 彼女の後ろの空がやけに青く見える。


「……充分過ぎる……くらいだよ。本当にありがとう」


 僕は何故だかまた泣きそうになっている自分を律し、何とかそう言った。


「おう。何らかの形で返してもらうから安心して」


 そう言って彼女が笑う。実に楽しそうだ。


 彼女……アレ? 名前知らないや。


 あ、名前といえば。


「……あの、なんで僕の名前知ってるの?」


「お前……同じクラスだろうが!!」


「……ごめん」


 同じクラスなら名前を知っているのが当たり前だということに、そしてそんな当たり前のことも分からなくなっていた自分に僕がショックを受けていると、彼女は少し照れくさそうに頭をかいた。


「まぁ、あんたが気になってたのは確かだけどさ……て、何言ってんだアタシ」


「いやでも助かった。気にかけてくれてなかったらヤバかったよ。ありがとう」


 そう言って僕が頭を下げる。


「…………」


 すると、彼女が一瞬キョトンとした顔を見せる。


「……?」


「ふ、ふふふ……あっはっはっはっは!」


 そしてすぐに大爆笑した。


「???」


 何なんだ? 意味が分からん。


「はぁ……笑った。今のは、そういう意味じゃないんだけどなぁ……。アタシ川端かわばた心春こはる。よろしく」


「カワ……バタコ?」


「誰がバタコだ! まぁ何でもいいけどさ。よろしく。橘」


「……うん。よろしく」


 そう言って僕はバタコと握手をした。




 バタコ……川端心春。


 一生忘れられないだろう。


 二番目に僕を裏切った……クソ女の名前だ。

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