橘 海月視点 ロードポイント4

第一次ロードポイント

 ロード、ロードとさっきから連呼しているミャー子だが、実は僕達は、以前に一度ロードを発動させたことがある。


 ロード……即ち、なかったことにして、お互い話題に出さない事柄だ。


 無論、今回みたいにセーブを宣言してからのロードではない。


 だが、以前にこれがあったからこそ、今回ミャー子はセーブやロードなんて言い出したのだろうと予想はできる。






 ……勝手な主張だというのは分かっている。


 女性には一生理解できないと思う。


 思うが、主張はさせて欲しい。


 村上春樹著、ノルウェイの森の主人公は、女に生理があるように、男は自分の意思とは無関係に性欲をたぎらせ、自慰をしてしまう生き物だと言っている。


 非常に遺憾ながらも同意だ。子孫繁栄の為にプログラムされたシステムだというのは分かっているが、せめて自分の意思でスイッチの入り切りをさせてもらえたら、と思う。


 しかし現実は非情である。そんなスイッチはどこにもない。


 そして、これも女性には一生理解できないと思う。思うが知っていて欲しい。


 男は親しい女性や、身近にいる女性に欲情すると、後にとてつもない罪悪感と虚しさ、そして自己嫌悪を覚える。


『何をやっているんだ僕は。こんなこと考えているのはこの世で僕だけだぞ、最低だ』と。


 そんな事情があり、僕はミャー子に極力劣情を催さないように気を配ってきた。ところがこのアホ娘は人の事情も努力も知らずに無防備な姿を晒しまくるから厄介なのだ。


 考え事や、何かに夢中になっているが故の隙だというのは理解している。


 別にわざとじゃないのは分かっているが、それでもあまりに、他人の視線に対して無頓着過ぎるというか、そこまで頭が回っていないというか、困ったものである。


 スカートなのに胡座を掻くわ膝を立てるわ、胸元が弛い服なのに、平気で前屈みになるわ、中々に破壊力のある不意打ちを連発してくる。


 しかも、あどけない顔と声、そして身長に反してミャー子はかなり胸があるのも追い打ちだ。


 非常に忌々しくも悲しいかな、僕も健康な男子だ。どんなに嫌だろうが、性欲はある。


 どれだけ表層を凍てつかせようが、奥深くで燃えたぎることマグマの如く、僕の脳を侵略すること火の如くである。


 だが、僕は動かざること山の如しだ。


 ミャー子は良き友人であり、良き恩人。そして大学で唯一と言って差し支えない、僕の良き理解者なのだ。


 彼女も僕に、彼女なりの恩を感じているらしく、僕を良き友人であると信じてくれている。


 そんな彼女を性的な目で見るなんて言語道断だ。万死に値する。


 そこで僕は思い付いた。


 そういう時は、ミャー子にお願いして、僕を罵ってもらえばいいのだ、と。


 そうすることによって僕は冷静さを取り戻し、性欲を減退させることができる。


 そんなワケで僕は、自分でも制御しきれない色欲が漏れ出そうな時、嫌がるミャー子にお願いして『最低』とか『気持ち悪い』とか『恥を知って下さいっス』やら言ってもらうことにした。


 効果は抜群だった。


『第三者から見て今のお前は最低で気持ち悪いんだぞ』と再認識することによって、僕の中に生まれたよこしまな熱はみるみる引いていった。


 ミャー子の協力あってのことなので、毎度僕は彼女にお礼を言うのだが、大抵彼女は顔を引きつらせている。


 しかし……完璧に思えたこの作戦にも問題があった。


 そう……慣れてしまったのだ。所謂マンネリズムである。


 それというのも、ミャー子は結構おっとりしているタイプである。感情が爆発した時は、怒るより泣くタイプなのである。


 そんな彼女が、先程上げた暴言を真に迫る調子で言い放つことは、なかなかに難しく、神経を磨り減らす苦行であった。


 それともう一つ問題があった。僕の調子だ。


 こ、これも合わせて知っていて欲しいのだが……厄介なことに、男という生物は疲労困憊状態だと子孫を残そうという、たわけた本能が発動するらしい。まぁ誰もがそうだと断言はしないし眉唾物だが。


 そしてふらふらの睡眠不足の、疲労困憊状態の僕はあろうことか、先程の罵りタイムをお願いされたミャー子が嫌がるその様を見て昂ってしまったのである。


 指導に熱を入れる内に、僕達は端から見たらただの罵り合いにしか見えない、奇妙な状態になってしまい、とうとうミャー子がキレた。


 僕と自分の間に線を引くように、隔たりを作るかのようにクッションを床に叩き付け、溢れんばかりの涙を溜めた目で、僕を精一杯睨み――


「出て行って下さいっス!」


 ――そう叫んだ。


 これには僕も戦慄した。そして自分のバカさ加減に引っくり返りそうになった。


 理由も言わずに、自分を罵倒するように強要する男。それも嫌々やってあげたら、もっと本意気でやれと怒鳴り出す男だ。


 ただの変態じゃないか。


 自分を客観的に見たら僕は真っ青になった。慌てて弁解しようとするも――


「出て行って!」


 ――ミャー子は既に、僕の言葉を聞き入れてくれる状態ではなかった。泣きながらゲーミングモニターを持ち上げようとしていた。


 パニックになりながらも、僕は慌ててミャー子の部屋を飛び出た。


 僕の為にも、ミャー子の為にも、今にもぶん投げられてしまいそうなモニターの為にも、そうするのが最適解だったろう。


 最適解を導き出し、行動に移しながらも僕の頭は混乱の極みにあった。


 何故かというと……だ。


 どうして自分の心臓が、あんなにも高鳴っていたのか、理解できなかったからだ。


 あろうことか、よりにもよって、あるまじきことながら――


 ――僕は溢れんばかりの涙を溜めて、精一杯僕を睨むミャー子の瞳を見て、かつてないほどに彼女を愛おしく感じてしまったのだ。もうどうしようもなく、性的興奮を昂らせてしまった。


 勿論すぐに、これは異常だ。睡眠不足で脳がバグを起こしているのだ、と結論付けた僕は……寝て、寝て、寝まくった。一日の三分の二は寝た。


 そして翌日。


 彼女の大好物であるアイスをコンビニ袋一杯に買ってきて、僕は言葉よりも先にミャー子に土下座をした。


 ドアの隙間から、不安げながらも彼女が笑顔を見せてくれた時、やはりこれでいいんだと思った。あの時のアレは何かの間違いだったのだ。


 これ以来、僕はミャー子に罵りを要求することを封印した。またあんなワケの分からん状態になったら洒落にならんし、自分で自分を理解できないというのは恐ろしいからだ。


 しかし、またミャー子に劣情を催してしまったらどうするのだ? と思うだろう?


 問題はない。何故ならば今の僕には、性的興奮を一瞬にして引っ込める禁断の最終奥義『お母さんの顔を思い浮かべる』があるからだ。


 ミャー子もこのことに関して何も聞いてこなかった。つまりこれは、『もうお互い忘れよう』という意味なのだと思っていた。


 僕としては正直助かる。


『ミャー子、僕はミャー子に劣情を催してしまって、それを鎮める為にミャー子に僕を罵倒してもらっていたんだけど、僕にそれを強要されて嫌がって、仕舞いには怒り出したミャー子の泣き顔に、堪らなく欲情してしまったんだ!』なんて死んでも言いたくない! 


 ――というか何だこいつは!? 変態じゃないか! 何回ミャー子言うんだ!?


 駄目だ。僕がミャー子ならドン引きする。お墓まで持って行きたい。


 本当に聞かないでくれてありがとう。ミャー子。


 ……そう、僕は僕が原因で起こった出来事の詳細を、ミャー子が聞いてこない優しさにこれ幸いと甘えたくせに、今ミャー子のロード要求を拒否しまくっているのだ。


 卑怯者だと自分でも思うが、これを受け入れることはできない。


 最初はロードに反対するつもりはなかった。『無理だろ』と思いつつも僕はミャー子の意思を尊重するつもりだった。


 だがミャー子の口にした言葉は、僕の予測を大きく上回っていた。


 ショックだった。僕はミャー子のことを何でも分かっているのだ、などと自惚れていた自分の愚かしさを思い知った。


 そのショックと諦観の念から、半ばなげやりに彼女が何を言おうが受け入れ、従おうと思った。


 ……が、ミャー子は珍しく、というか初めて、僕があまり意識しないようにしていた問題に切り込んできた。彼女の気持ちが窺い知れるような言葉を口にした。


 それによって僕の中に生まれたこの疑問を晴らす為なら、卑怯者の謗りも甘んじて受けよう。




 ――ミャー子は、僕のことが異性として好きなのか?

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