僕と都さん④
……とまぁ、以前こんなことがあって、その時のバカ女が目の前の女性である、ということを僕は思い出したのだ。
「君があの時の……えっと、ミャーミャー言ってた……」
「はい、
「……ミャー子さん」
「……都っス。あの時は……ありがとうございました」
そう言ってもう一度、彼女が深々と頭を下げる。
……こんな話し方だったっけ?
あ、でもこんなんだった気もする。酔っぱらっていたからか?
まぁ、どうでもいいか。
「……いや。そうか。あの時の彼女が……えー……ミャー子さんだったのか」
「はい。ウチもあの時のおぶってくれた男の子が、
あ、今更……本当に今更だけど、橘ってのは僕だ。
「……橘……くらげくん?」
「違う。海の月って書いてミツキって読むんだ。橘 海月(みつき)」
「じゃあミーくんっスね」
「ミーくん?」
何だか馴れ馴れしいヤツだな。ていうか、大学で見掛ける時より大分テンションが高い気がする。疲労困憊で意識がトビそうな僕とは対照的だ。
「……そういえば、あの時はお互い自己紹介してなかったね」
「ホントっスよ。書き置きにも名前書いてなかったし。ウチ、誰かに助けられたことしか覚えてなかったんスよ? あの時飲み会にいたらしい女子に『都ちゃん? あの後、橘くんとどうなったのコラ?』て壁ドンされて初めて知ったんスから」
ちょっと拗ねたような表情で、ミャー子さんが口を尖らせる。マジかよ……女の世界、面倒臭いな。
「あの後も大学で会ってたのに……なんで……言ってきてくれなかったんスか?」
「顔を……見てなかったんだ。いや、見てたかもしれないけど、涙とか鼻水とか、ゲロとかの方が印象深くて……顔を覚えてなかった」
「そ、そ、それは……大変見苦しいものを……ごめんなさい」
かなり予想外な返事だったのだろう。彼女は真っ赤になった顔を、両手で覆いながら振り絞るように言った。
「うん……それに、バイトとかが滅茶苦茶に忙しくて……あの時のあの子が誰なのか、思い返す余裕もなかったんだ」
「え……大丈夫なんスか?」
「大丈夫か……分からない。とりあえず今日もバイトで既に終電過ぎてるし、明日も一限からだし……一秒でも、早くネカフェに入って眠りたいんだ。だから悪いけどもう行く」
「な、な、何かウチにできることがあったら言って下さいっスね!? 何でもするっスよ?」
……その言葉に、またも背を向けかけていた僕は、振り返ることになった。
「……何でも?」
正直、今思えば嫉妬と羨みからくる八つ当たり以外の何物でもないのだが、この時の僕はミャー子にイラついていた。
大学の近くの、あんないいアパートを、親がポンと借りてくれるという境遇の差に。
そして、それがどれだけありがたいことなのか、理解していないことに。
極めつけには、こんなにも簡単に『何でもします』と言ってしまう、そのアホさ加減に。
「……は、はいっス!」
……化けの皮、剥がしてやる。
「……じゃあ、泊めてくれないか? 布団がないならソファ、ソファがないなら床でも、いっそ廊下でもいい」
さあ、引きつった笑みを浮かべて『それはちょっと……』て言うといい。
別に『何でもって言ったじゃないか、嘘吐き』などとまで言うつもりはない。『だよな』と言って、早々にここから立ち去るつもりだ。本当にどこから見てもただの八つ当たりだな。
「はいっ! そんなことでよかったら喜んで!」
「……だよな」
「はい!」
「…………」
「…………」
「……はぁっ!?」
「え?」
僕がかつてない程の、間抜けな声と面を晒しているにも拘わらず、ミャー子は不思議そうに首を
「……はいって言った?」
「はいっス……喜んでとも」
「……なんで!?」
「なんで、て……お願いされたからっスよ」
「いいの? 一応、女子だろ! 僕、男子!」
「一応じゃなくても女子っス。別に誰でもいいってことはないっスよ? でもミーくんはいいっス」
……わ、分からん。完全にこちらの予想を越えてきた。この女、僕が思っている以上にアホだった。
「シャワーもまだッスよね? 替えの下着とかあるっスか? あ、もしかしてご飯もまだっスか? じゃあ自分も夜食追加しちゃうんでご一緒するっスよ! アイスも追加しちゃお! 太るぞとか言っちゃ駄目っスよ! それ禁句――」
「待て待て待て! 僕が劣情を催したり、金品をいただこうと強盗に及んだらどうするんだ! 顔見知りとはいえ危険すぎる――」
何だかマシンガンのように喋り続け、勝手にコンビニへと向き直るミャー子を遮って僕は捲し立てた。
「――だって、あの時、何もしなかったじゃないっスか」
「――っ!」
今度は僕が遮られる番だった。
「ウチはへべれけだったのに、ミーくんエロいことも、悪いこともしなかったっスよ。したのは良いことと、優しいことだけっス」
「……!」
僕が言葉を無くしていると、ミャー子は僕の手を引っ張って、再びコンビニへと歩き出した。
「ウチの大学での友達一号っス。よろしくっス。ミーくん」
こちらへと振り返り、ミャー子が滅茶苦茶に嬉しそうな笑顔を見せる。
『あの時は、ゲロと酒臭かったから手を出さなかっただけだ、とか思わないのか!』とか色々な言葉が頭に浮かぶものの、結局口に出すタイミングを逃したまま僕は――
「……うん」
――そう返すことしかできなかった。
これが始まりだった。
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