僕と都さん③

「……ごめんなさい」


「いや、人を背負ったまま買い物をするなんて、貴重な体験をさせてもらったよ」


 僕が人を背負ったまま、財布を尻ポケットにしまうのに苦戦しながらもそう言うと――


「ふふ……何ですかそれ」


 ――本当に小さな声だったが、彼女が少しリラックスした声を出した。


「確かコンビニの裏って言ってたよね? ここ?」


「はい……ここです」


 リフォームでもしたのか、小さいけど割と新しくて小綺麗なアパート。最初に頭に浮かんだ言葉は『いいなぁ』だった。


 贅沢という程に高級ではなく、りとて貧相とはかけ離れた、適度にお洒落なその物件に、僕はストレートに羨ましいという感想を持った。


 丁度、僕がこんなとこに住めたらな、と思うレベルだったのだ。


「これ……」


 僕の眼前に、何かのゲームかアニメのキャラのキーホルダーが付けられた鍵が、肩越しに差し出された。


「…………」


 ……僕に開けろってのか。


 どうも彼女には、少し警戒心というものが足りていないんじゃないだろうか……なんてことを考えながら鍵を開け、ドアノブを引く。


 玄関も廊下も真っ暗だったが、僕は照明のスイッチに手を伸ばすことはしなかった。主でもない僕が灯りを点けるのは、彼女にも家にも悪い気がしてはばかられたのだ。


「ちょっと持ってて、袋」


「あ、はい――わっ」


 僕はそう言うが早いか、彼女の手にコンビニ袋を握らせて、彼女の履いているスニーカーを脱がせた。そのまま、なるべく腕を下の方に降ろしてから手を離す。


 ……ポコン、とゴム底がリノリウムの床に落ちて音を立てた。


「降ろすよ?」


 この状態では少し狭かったが、僕は何とか百八十度向き直し、彼女の脚を抱えていた腕達を、その責務から解き放ってやった。


「はいっ……あ」


 僕の身体から重みが消え、肩に添えられた手が離れる──と同時に、背後でドサ、と音がした。


「……んん」


 僕が振り返ると、そこには壁に手をつき、もたれ掛かるようにしながら、床にへたり込んでしまっている彼女がいた。


「……立てそう?」


「わ、分かりません。ちょっと頑張ってみま──ヒャっ!」


 そのまま壁を押すようにして、立ち上がろうとしたのだろうが、彼女はそのまま、壁と逆側に倒れ込んでしまった。


「あ、アレ……? 力が……入んない」


「……みたいだね」


「な、何これ? 視界がぐわんぐわん……揺れてる」


「……みたいだね」


「き……気持ち悪いぃ……」


「……立てそう?」


「や、やってみます……」


 そう言って彼女が床に手をつく──が、半ば予想していた通り──


「ん~……!」


 ──頭が数ミリ浮いただけで、しかもすぐに床に戻ってしまった。


「無理……みたいです」


「……みたいだね」


「うぅ……ん」


「はぁ……。セクハラとかで訴えないでよ」


「へ? わっ……!」


 さっさと帰りたかった僕は、彼女の身体を少し持ち上げてできた隙間に、腕を差し入れる。


「せー……のっ!」


 ……軽い。おぶった時から分かっていたけど、あっさりと立たせることができた。もっとも支えている手を離したら、すぐに倒れてしまうだろうが。


「き……きもちわるいぃ……」


 横になっていた状態から立ち上がったからだろう。平衡感覚もガタガタなのか、彼女は首が座らない赤子のように、ふらつくがままに頭を揺らしている。


「……吐けそう?」


「……?」


「もし吐けるんなら、吐いちゃった方がいい」


「わ、分かんない……」


「でないとその気持ち悪いのが、ずっと続くよ」


「そ、それは嫌です……」


「空腹状態で飲んだんだよな。これ、飲んで」


 そう言って僕は、コンビニ袋からペットボトルを取り出す。


「……水?」


「うん、水を飲みまくって、できれば一緒に吐き出してしまおう。吐けなくてもアルコールを薄めることはできるだろ」


「こ、これ全部……飲むんですか?」


「うん。頑張れ。時間掛かってもいいから」


「や、やってみます……!」


「うん」


「んっ……んっ……」


「…………」


「ぷはっ……はぁ」


「おお、半分はいったな。もう半分だ」


「は、はい……んぐっ」


「…………」


「ぷへぁっ……く、苦しくなってきました」


「うん。頑張れ」


「…………」


「…………」


「が、頑張ります……!」


 そんなやり取りがあって数分後──。




 結局彼女は、苦しさと気持ち悪さを訴えるものの、吐くことはできずに、便器の前でうずくまってる状態が続いた。


 ちなみにその間に僕が何をしていたのかというと……僕は、手を洗っていた。


「どう? 吐けそう?」


「む、無理ぃ……」


「もう指突っ込んで、吐いちゃいなよ」


「無理……怖いです……」


「…………」


「…………」


「……怒らない?」


「……?」


「……噛まないでね」


「え……? んんぐっ!!?」


 まぁ、声でお察しだと思うが、僕が彼女の口に指を突っ込んだのだ。しかも、顔を起こす為に手を添えたから、彼女からしたら、目隠し状態で突っ込まれた形になってしまった。


 正直すまんと思いながら、僕は彼女の背中をさする。


「ん"ん"ん"ん"え"え"~~!!」


 ひでぇ声を出しながら、彼女はさっきの水も含まれているとはいえ、こんなにも飲んだのかと思わせる程の量を吐いた。


 うっわぁ……濃厚な酒の臭いがする。


「はっ……! はっ……! ひ、ひど……げほっ……!」


「よーしよしよし、頑張った」


「な……な……何を……!」


「はいティッシュ。涙とゲロと鼻水拭いて。順番はどうでもいいから」


 そう言って僕は、先程見つけて用意しておいた箱ティッシュを彼女の眼前に差し出す。


「……ブビーっっ!!」


 もうヤケになったのか、彼女は豪快に鼻をかんだ。


「はい捨てて。で、ほら水。うがいして。うがい終わったら飲んで。このままだと、胃液で喉とか食道とか、傷めちゃうから」


 今度は中身を抜いた、先程のコンビニ袋をゴミ袋として使い、もう一本買っておいた水を差し出した。


「……んべっ」


 彼女は言われるがままにうがいをし、飲んでくれた。


「次はこれ。飲んで」


「……ん」


 ウコンエキスを差し出すと、彼女はやはり唯々諾々いいだくだくと従ってくれた。


 ……あー、いかん。時間がやばくなってきた……!


「……うー」


 吐いて大分スッキリしたのだろうが、まだ彼女は立ち上がることはできないようだ。ラグビーの下半身タックルをするかのように僕の腰にすがり付いてきた。


「うへへへ……このままマウントポジションへ移行っス~……そこからは三択っスよ~」


 何を、ワケの分からんことを言ってんだこいつは……。


 酔いが回ったのか、嘔吐で体力を使い果たしたのか知らんが、こっちは時間がないんだよ……!


「ふんっ!」


 ゆっくりやってる余裕のなくなってきた僕は、彼女を担ぎ上げた。


「ミャっ!? ま、まさかスピアタックルに対して投げ抜け!? 受付フレーム短いのに!」


 へべれけが相変わらずワケの分からんことを言っていたが、無視して僕は彼女を担いだまま歩き出した。


「うらっ」


 僕はそのまま、彼女の身体を奥の部屋のベッドへと着地させた。


「ミャー! か、返し技持ちのキャラだったっス~!」


「あぁ、ミャーミャーうっさい。暴れるな」


 そう言って僕は、彼女の身体を横向きにさせる。


「酔った時は、身体の右側を下にした方がいいらしい」


「ミャ……は、はい」


 襲われるとでも思ったのか、それとも我に返って恥ずかしくなったのか、急に彼女が身体を強張らせる。


「ちょっと待ってて」


「え……?」


 僕はそのまま廊下に出て、廊下に転がっていた彼女が飲み干した空のペットボトルを拾い上げ、洗面所でお湯を注ぐ。洗面所で入れたお湯なんてせいぜい四十度前後といったところなので破損することはないだろう。


「はい。即席の湯たんぽってことで」


 そう言って僕は、彼女の腰にお湯の入ったペットボトルを当てる。勿論服の上からだ。


「ミャっ……あ、え?」


「肝臓を温めて機能を促進させるんだ。本当はカイロが欲しかったけど、コンビニで売ってなかった」


「あった……かぃ……」


「あぁ……このまま寝ちゃいな。僕はもう帰──」


 そう言いながら僕が布団を掛けてやると、もう彼女は寝息を立てていた。


「──はぁ。なんて無防備な女だ」


「……くぅ」


「いいか。鍵は外から閉めて、ドアポストに入れておくからな!」


「……ウミャ」


「あぁ、もう……っ」


 もうマジで時間がやばい。僕は枕元に置いてあったメモ帳に『鍵はポスト。もっと警戒しろバカ』と書いて、コンビニで買った味噌汁の上に置き、廊下へと向かった。


 そしてゆっくりドアを開け──


「お邪魔しました。……おやすみ」


 ──締まりゆくドアの隙間に、ボソリとそんな言葉を滑り込ませた。


「…………」


 何か、妙に優しい声が出たな。本当に僕の口から出たのか? 今の言葉。


「そういや……久し振りに誰かに『おやすみ』って言ったな」


 時計を見る。もう終電まで何分もない。これでは何の為に途中で飲み会を抜け出したのか、分かったモンじゃない。


「……くそっ。バカ女めっ」


 悪態を吐いて、僕は駅へと走り出した。

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