第94話 それは彼らにとって日常の一幕


 春風が落ち着き、青空が高く広がるようになったある日のこと。


 たまたま雲ひとつ無い良い日和となり、たまたまキャロラディッシュが外で、日当たりの良い庭の一画で授業をしようかと言い出し……そしてそこに、たまたま仲の良かった猫に誘われたという理由でウィクルが通りかかった。


 誰かが何かを意図してそうなった訳ではなく、全てはたまたま、偶然の力による出来事で……そうしてウィクルの耳にキャロラディッシュの授業の内容が入ってしまうことになる。


 その授業はキャロラディッシュにとっては何でもない、ごく当たり前のものであり、ソフィアとマリィとその友人達にとってもごく当たり前の、聞き慣れたものであり……ありふれた日々の一コマとして、何気ない日常として彼ら彼女らが時を過ごす中……ただ一人、ウィクルだけがその目を外に飛び出してしまうのではないかというくらいに、大きく見開くことになる。


 彼の友人であり雄牛であり、今は牧場でうたた寝をしているガーリアに知恵と言葉を与えたキャロラディッシュの魔術は今までに見たことのない程に洗練されている先進的なものだったのだが……今キャロラディッシュが口にしている魔術の関する知識は、それよりも数段……数十段上をいく理論であり、世間が知っている、ウィクルが知っている魔術とは全く別物と言って良い代物であったのだ。


 それどころか全くの常識外、それは本当に魔術なのかと思ってしまうような理論までが聞こえてきて……ウィクルは目を見開きふるふると震えたまま……友人である猫が心配そうに声をかけてきていることに気付くことなく、キャロラディッシュ達の方へと無意識的に足を進めてしまう。


「……ろ、老師、い、今の魔術理論は一体……?

 全く聞き覚えのない、随分と先進的と言いますか、驚くほどの開拓精神に溢れた理論でしたが……?」


 毛深い雄牛の一族の戦士長であり、雪と寒さに覆われた世界の住人でありながら、外界との連絡手段をそれなりに持ち、それなりの知識欲でもって魔術に関する本を読み漁っていたウィクルがそう声をかけると……キャロラディッシュは一瞬何をそんなに驚いているのかという表情をした後で、


「おお、そう言えばこの理論は表には出さず秘匿していたものだったということを忘れておったな」


 なんてことをあっけらかんとした態度で言い放つ。


「あれ? そうだったんですか?

 ……良かったのですか? 秘匿しておかなければならないような知識を私達に教えてしまって……?」


 そんなキャロラディッシュに対しソフィアが言葉をかけると、キャロラディッシュは軽く手を振ってからなんとも興味なさそうな表情をし、言葉を返す。


「構わん、というか表に出していない理論に関する論文は全て書庫に収めてあるからな……恐らくだがすでにソフィア達はそれらを目にしているはずだ。

 外の愚物共に見せてやる気が無いというだけのことで、ソフィアやマリィがそれらの知識を得て探求し実践すること、それ自体は全く問題無いことだ」


 キャロラディッシュは王立魔術協会に所属しており、その義務としていくつかの論文を協会に提出している。


 時には旧態依然とした協会員のことを煽る目的で革新的な理論を論文として提出することもあったが……そうするのは本当に稀な、数年に一度か二度あるくらいのことで……協会に提出した論文のほとんどが、手を抜いた出来の……キャロラディッシュから見て使い古した理論を詰め合わせたものとなっていた。


 それでも協会の面々にとってその論文に書かれた理論は先進的で、革新的で、魔術の未来を切り拓くものであり……協会や外の魔術関連の学会において、キャロラディッシュの論文は時代の数歩先を行く最新研究の草分け的存在として扱われていた。


 そしてそれらの理論を、論文を……本を通じて知っていたウィクルは、信奉する神々と初めて言葉を交わした時でもここまで驚かなかったぞという程の驚愕の想いをその胸に懐きながら……何も言葉を口にすることが出来ずただただ唖然としてしまう。


 そうして少しの間、沈黙し続けたウィクルは……深呼吸をして落ち着きをどうにか取り戻し、頭の中で情報を整理し……そうしてから慎重に、ゆっくりと言葉を吐き出す。


「老師……それらの理論が世間の下に届けば魔術は20年……いや50年は先の段階へと進むと思うのですが……そのことをどう思われますか?」


「どうも思わん」


 取り付く島もない態度でそう返されたウィクルは、怯みながらも言葉を続ける。


「もしそうなれば老師の功績は称賛され、その名は歴史の先の先まで語られることになるかと思いますが……」


「どうでも良い」


「……一体全体どうしてそう思われるのか、聞いてもよろしいでしょうか?」


「外の連中はどいつもこいつも愚物だから……という答えでは納得できんか?

 そうか……なら話してやるが、連中が儂の研究の全てを手に入れたらどうするかを考えてみよ。

 その研究がどんなものなのか、どんな影響を世界に与えるのか、そこまで考えることをせずに、ただ己の欲のみに従って、野放図な魔術の行使に明け暮れることだろう。

 その結果誰かが傷つこうとも、世界が歪もうとも……世界が滅ぼうとも愚物共は愚かさゆえにその手を止めることはないだろう。

 ……お前に見せた動物に知恵を与える魔術、それだけでも連中の手に渡ったらどんな悲劇が世界に広がるか……想像もしたくないな。

 歴史に儂の名が残るとそう言ったが、儂は悲劇を作り出した主犯としての名を残したいなど微塵も思わん。

 20年か30年か……あるいは100年後に誰かが同じ理論にたどり着いて、そやつが愚物であれば世間に公表するなんてことをするかもしれんが……少なくとも儂はそんな馬鹿な真似はしたくないと思っておる」


 その言葉に対してウィクルは、返す言葉を持っていなかった。

 仮に協会が、この島の人々が、そういった悲劇を回避したいと願い、そのように行動したとしても、世界全ての人がそれにならってくれるとは限らない。


 何より邪教徒達の耳にも入る可能性がある訳で……邪教徒達であれば、世界がどうなろうと自らに利があるとなれば、一切の躊躇なくその魔術を行使することだろう。


「……お主はまぁ、愚物とまではいかない、それなりの知性と冷静さを持ち合わせておるようだ。

 ゆえに口封じなどせんでも、ここで見たこと聞いたことを外に漏らすことはないだろうな……。

 ……世界の人間全てが、お主程にわきまえておったなら……あるいは論文の公開をしたのかもしれないが、そんなものは夢物語でしかないのだろう」


 その表情を柔らかくし、視線を柔らかくし、いくらかの同情心を懐きながらキャロラディッシュがそう言ってきて……ウィクルは黙ったままその言葉を素直に受け入れる。


 それと同時にウィクルはキャロラディッシュへの評価を改めて……望めば世界を手に入れることも可能だろうに、その理性でもって自重をしている賢者として、今まで以上の敬意を示すようになるのだった。

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